6.考えられない。
名前が思い出せない。
そんな事があるだろうか。
ベッドに横になりながらも目は冴えていく。
他に思い出せないことはあるか、忘れてしまったことはないか、自分のことについていろいろと考えてみたが、名前の他にわからないことはなさそうだった。
名前だけがわからない。
田中、鈴木、一般的な苗字を自分に当てはめてみたり、さき、ちか、など、思いついた名前を呼んでみたりもしたが、どうもしっくりこなかった。
自分のことがよくわからなくて、不安で体が動く。
何度体勢を変えても居心地が悪く、落ち着く恰好を求めて、何度も寝返りをうった。
そうして、眠れないままベッドでごそごそとしてどれぐらい経っただろうか。真っ暗だった部屋がふんわりと明るくなっていく。夜が明けてきたのだ。
最初は薄明りだったそれは、徐々に光を増す。
気づけばすっかり明るくなり、朝の空気が感じられた。
結局一睡もできなかった……。
私が元いた場所はお昼だった。そして、この世界では真夜中だったのだろう。ちょうど昼夜逆転しているような感じだ。
なので、時差的なものもあり、余計に目が冴えてしまったのかもしれない。
目がピリピリする。
泣いた後に散々擦すってしまったせいだろう。少し腫れてしまっているようで、いつもより目つきが悪くなっている気がする。
このままではいけない、と、目を休ませ、あわよくば眠るためにギュッと瞼を閉じた。
そうこうしている内にだんだんと考えていたことがうっすらとしてくる。
コンコン
私がどこかぼんやりとし始めた頃、ふと乾いた木の音が響いた。
「ん? 」
なんだろう? そう思ってゆっくりと目を開ける。
すると目に朝の光が入り込み、少しだけ意識が覚醒した。
そうだ、これはノックだ。
誰かが扉をノックしているんだ。
「っ、はい。」
ようやくそれに気づいた私はあわてて声を上げる。
すると、ゆっくりと優しい声が扉越しに響いた。
「疲れてるところごめんね。キースが帰ってきたんだけど、今大丈夫?」
優しい声はカイルさんのものだった。
帰ってきたという人は隊長さんでこの家の持ち主だったはず。
そういえば、その人が帰ってきたら話があると言っていた。これから話すのだろうか。
「はい、大丈夫です、今行きます。」
返事をして、素早くベッドから降りる。
何度も寝返りをうったため、シーツや布団がグシャグシャになっていたので、手早くそれを直した。
……ちょっとよれってしているのは仕方ない。
短時間でできることは限られているので、早々にベッドメイキングをあきらめると、カイルさんのマントをしっかりと体に巻き付けた。
ちなみにこのマント、寝ている最中も体に巻き付けていた。毛布替わりにしてたんだけど、そんな風に扱ったためにかなりしわがよってしまっている。
申し訳ないが、とりあえずそれは気にしないことにして、その辺に置いていたドロドロの靴下を履く。歩いていくのに裸足よりは靴下の方がいいだろうと思ったからだ。
靴下を履き終ると、急いで扉へと向かい、開けた。
そこにはカイルさんが優しい笑みを浮かべて待ってくれていた。
「起こしてしまった? 」
「いえ、あの、……ほとんど寝てないんで。」
一瞬、寝てない事を誤魔化そうかな、と思ったんだけど、誤魔化した所でどうしようもない。私は正直に寝ていなかったことを告白し、カイルさんはそれを聞いて、すこし苦笑していた。
「そっか。じゃあ、もうちょっとがんばってね。キースがさ、今日の事を少し詳しく聞きたいみたいなんだ。」
「はい、わかりました。」
歩き出したカイルさんの後ろをついていく。もう抱っこはしないようだ。良かった。
自分の足で歩ける事に安心しながら、先程、カイルさんと話した台所とダイニングテーブルがあった部屋に行く。
そこには黒髪の男が座っていた。
この人が隊長さんかな。
カイルさんの後ろからこそっとうかがうと、カイルさんがその人に声をかけた。
「キース、起きてたみたい。ちゃんと話せると思うよ。」
「ああ。」
爽やかな朝の陽ざしを浴びた部屋に、不相応な冷たくて不機嫌そうな声が響いた。
……え?
この人、なんかめっちゃ怒ってる?
焦ってカイルさんの方を見る。
するとカイルさんは『大丈夫だよ』と優しく言ってくれた。
いやいや、本当に?
ほとんどの人がそうだと思うが、私は怒っている人が嫌だ。だって怒られたくない。触らぬ神に祟りなしである。
しかし、そんな私の思いとは裏腹にこの黒髪の男はなんか不機嫌だ。
なんで、怒ってるんだろ?
黒髪の男の予想だにしない不機嫌っぷりに戦々恐々とする。にも関わらず、カイルさんはダイニングテーブルまで私の背を押すと、黒髪の男の前に座らせた。
そして、カイルさん自身はダイニングテーブルから少し離れた、黒髪の男の左ななめ後ろに立った。
え?なに、この、取調室の尋問感。
何故、私はこの人の正面。
そして、カイルさん、どうしてそんなに遠いの?
カイルさんがちょっと離れている事に途端に心細くなる。
この威圧感たっぷりの黒髪の男の正面に座らされているのがすごくイヤだ。
逃げ出したい。
とりあえずもっとゆったりとした気持ちで話したい。
かなり逃げ腰になってしまった。
けれど、私とてきちんと話して、これからの事を決めたいのだ。
勇気を出して、黒髪の男をうかがう。
黒髪の男はテーブルから少し離した場所にイスを置いており、イスにもたれかかるように座っていた。その長い足を組み、手も腰のあたりで組まれている。
こちらをじとーっと観察している目は据わっており、眉毛も不機嫌そうに寄せられていた。
ダメだ。やっぱり怒ってる。
めっちゃ怒ってる!
わけがわからないが、とりあえず助けてほしくてカイルさんの方を見た。
ちょっと申し訳なさそうに笑っている。
黒髪の男はそんな私とカイルさんとの目のやり取りなど気にすることなく、その不機嫌な声を響かせた。
「とりあえず、この世界に来たところから話せ。」
驚きの圧迫面接である。
まさかの命令口調である。
私は驚き、目を白黒させた。
なんでこんなにひどい対応なんだ。
私は被害者なのに。
心が不当だ! と怒り、何も話さなくてもいい! と反抗を促す。
が、この黒髪の男は警察的な組織の隊長さんである。
私が安全で楽しい生活を送る上で、いろいろな事を知っておいてもらったほうがいい人ではあるのだろう。
私は反抗しろと訴える心を静め、自分に起こったことに思いを馳せる。
とりあえず、私に起こった事をすべて話そう。
カイルさんにはほとんど何も話していないので、もっと詳しい説明が必要になるだろう。
私は情報を取捨選択しながらも、必要なことを取りこぼさないように気を付けながら話した。
まずは、事故をして、気づいたら白いもやもやの中にいたこと。そして、高いソプラノに導かれ、引きずり込まれてブルーのキラキラの中にいたこと。気づいたらよくわからない石造りの建物の部屋にいて、そこから逃げ出したこと。最終的に塀の付近で男に拉致され、地下室に監禁されたこと。
「それで俺たちに助けられたとそういうことだな。」
「はい。」
黒髪の男の目が鋭くなるのを感じながらもなんとか説明し切った。
何かおかしいところがあっただろうか?
情報に取りこぼしがあっただろうか?
不安になりながら、チラリとその据わった目を見ると、男は鋭い目のまま、私に疑問をぶつけてきた。
「お前はなぜその建物から逃げようと思った? 」
「え、あの……。なんとなく。」
「なんとなく? 」
黒髪の男の語尾にイラつきが混じる。
そんな曖昧な表現は許さない。
それを言外に言われているようで、あわてて言葉を探した。
「はい、その、私がいた部屋に大きなブルーのキラキラした石があって……。それを見たら急に逃げなきゃって。」
「お前の通った道だが、どうしてそこを通った? 」
「……なんとなく。」
「なんとなく? 」
また『なんとなく』って言ってしまった。
どんどんイラつきが増す黒髪の男の声から逃げるように、あわてて次の言葉を次ぐ。
「だから、その……。」
「言え。」
黒髪の男はさらに目を鋭くしながらこちらにプレッシャーをかける。
っ。
私だってちゃんと答えたい。
けれど。
……けれど、私には持っているはずの答えがないのだ。
「……わかりません。」
「わからない? 」
「その道を選んだ事に理由はありません。なんとなくなんです。」
それ以外に言いようがない。
私の返答は満足のいく物ではなかったのだろう。
黒髪の男は一度溜息をつくと、低い声で言葉を続けた。
「いいか。お前がいたあの建物はかなり厳重な警備がされている。」
「……はい。」
「なんとなく選んだ道で厳重な警備の目を潜り抜け、なんとなく向かった藪にピンポイントで暴漢が潜んでいたのか。」
黒髪の男がバカにしたような口調でこちらを責める。
「……。」
返す言葉はなかった。
黒髪の男は私が無言になると、スッと目線を下にずらした。
ダイニングテーブルを見ているようだが、なぜかその目はそれの向こう側を見ているような気がした。
「それに、その靴下。それで外に出たのか。」
ダイニングテーブルがあり見えないはずだけど、ここに歩いてくるまでの間に見ていたのだろう。
土で汚れた黒いドットの靴下。
ダイニングテーブルがあり、今見えているはずはないのだが、その視線から逃れたくて、隠すようにつま先を動かした。
「はい……その時はまったく考えられなくて。」
黒髪の男が告げるその言葉、全てが痛い。
「お前の世界には靴はないのか?」
「……あります。」
私が答えると、黒髪の男は一度言葉を止めた。
朝の空気がピリピリと緊張を孕んだ。
「お前はおかしいとは思わないのか。」
黒髪の男が私じっと見る。
私を疑っているんだ。
それもそうだろう。こうして話してみるとわかる。私の行動は不自然な事ばっかりだ。
理由はいつでも『なんとなく』。それ以外に答えようがない。疑って当然だ。
自分でも自分のわからなさに視線を下げて、眉をしかめることぐらいしかできない。
「私も私がおかしいと思います……。」
私がやんわりと肯定すると。
「そうだ。お前はおかしい。」
はっきりと断言された。
そうだ、私はおかしいんだ。
自分が信じられなくて、もっと視線を下げてしまう。
「おい、キース。その辺にしておけよ。」
俯いて顔を上げられない私に今まで口を出さずに聞いていたカイルさんが助け舟を出した。
「あのね、コイツが言ってるのは、君自身がおかしいって話じゃないから。」
その言葉に少しだけ顔を上げてカイルさんを見る。
「君がまるで、何もかも準備されてたかのような行動をしていたのがおかしいって言ってるんだよ。」
「はい……。でも、私は本当になんとなく、で選んだんです。」
「うん、わかってるよ。だからね、君が自分で選んだと思ってる事が実は違うんじゃないかって事。」
わかんない。
私が選んだ事が違うってどういうこと?
「君が自分で選んだと思った事が誰かに選ばされてたって事だとしたら? 」
「お前は精神攻撃を受けた可能性がある。」
突然、黒髪の男がびっくりするような事を言った。
聞きなれない単語に頭がついていけない。
「精神攻撃ってなんですか? 」
「人間の精神に干渉する力っていうのかな。君の場合だと警備がいない道を選ばされて、暴漢が待つ藪へ誘導された可能性がある。」
ナニソレ、コワイ。
私は操られてたってことなの?
でも、私は操られてた自覚なんてない。
不安になって、カイルさんをじっと見た。
「この世界ではそんな事ができるのですか? 」
「いや、そんな事はできない。ただ、君がこの世界に来た時に見た青い石――ブルークリスタルっていうんだけど、それにはそういう事もできるかもしれない。」
あの、ブルーのキラキラ石。あれのせい?
「あの、あれを見たらみんな操られちゃうんですか? 」
「いや、普通はできない。人間の精神はそんな簡単な構造じゃないからね。」
そうだよね、誰でも操れたら、すごい兵器になってしまう。
「もし、私が操られてたんだとしても、普通はできないんですよね? どうして私は操られてしまったんでしょうか? 」
「お前、平常心だったか? 」
黒髪の男が質問してきた。
私が操られた事と関係があるのだろうか。私がブルーのキラキラ石を見た時の心の状態を聞いているのだろう。
「あの、とにかくよくわからない事ばっかり続いてたんで、平常心ではなかったと思います。……またブルーのキラキラ石から手が出てきて、私を引きずり込んだら怖いなって思ってました。」
「たぶんその『怖い』って思いを利用したんだろうね。そして特定の道を使って逃げるように仕向けた。」
「なるほど……。」
よくわからないけれど、そういう事もあるのかもしれない。
そうしたら私の不自然な行動も説明がつく気がする。
私がひたすら運が無く、あのくそ野郎に捕まったわけではないのかもしれない。
「だが、それが真実とは限らない。」
ブルーのキラキラ石に操られてた説に納得しかかっていた私に、黒髪の男が冷水をかける。
「それに仮にそれが真実だとしたら、お前を操った犯人がいるということだ。」
そして、私の頭をその言葉でガンッと殴った。
そうだ。もし真実だとしたら、私を操り、くそ野郎に攫わせようとした誰かがいるという事である。
あの時。
私がこの世界に来た時に誰かがいた?
あのブルーのキラキラの向こう。
そこに誰がいた?
「まあ、その辺の事はとりあえず忘れとこう。それを調べるのも俺たちの仕事だから。心配しなくて大丈夫だからね。」
黙って考え込んでしまった私にカイルさんが優しく声をかけてくれる。
『大丈夫』の言葉に少し安心して、ホッと息を吐いた。
「はい。お願いします。」
「うん、そうと決まれば、しばらくはこの家にいてもらってもいいかな?」
「この家ですか? 」
いきなりの提案にびっくりする。もちろん家に住まわせてくれるのはありがたい。ありがたいけれど、ここは黒髪の男の家だよね?
明らかに私を嫌ってるように見えるけど。
「もし、誰かが君を操ったんだとしたら、また襲ってくるかもしれない。ここはこう見えてもこの街の警ら隊長の家だからね。結構安全だよ? 」
「ああ。」
カイルさんが悪戯っぽく笑い、黒髪の男が不機嫌そうに返事をする。
なんだかとっても嫌そうだけど、ここに住んでもいいらしい。
この世界で何も守るものがなかった私にはなかなかいい条件なのではないだろうか。
「……お願いしてもいいですか?」
「もちろん! あ、昨日自己紹介したけど、俺がカイル。警ら隊の副長をしてる。んで、こっちの目つきが悪いのがキースね。一応隊長。」
「面倒かけますが、よろしくおねがいします。」
「……。」
あれ? なんでだろ、言葉が返ってこないな。
私は怖いながらもきちんと目を合わせて挨拶をした。
確かに。確かに私の事が本当に面倒なのかもしれない。
けれど、警ら隊の隊長が若い娘の挨拶を無視していいのでしょうか?
黒髪の男――キース……さん、を胡乱な目で見上げる私にカイルが苦笑して説明を付け加えた。
「ごめんね。見てくれも愛想が悪いけど、中身はもっと嫌なヤツなんだ。」
そっか。
それって、すごい、最低な感じですね。