1.あの、ここどこですか?
真っ暗だった。
目を開けているのか、閉じているのか。
自分の体がどうなっているのか。それさえもわからない。
その感覚にどれぐらい飲まれていたのだろうか。
ふと気づくと瞼の向こうが明るくなった気がした。
そこでようやく、自分が瞼を閉じていた事に思い当たる。
「ん? 」
パチッと目を開ける。
目の前に自分の膝が見えた。
どうやら両脚を立てて座り、両手を腰の横についていたらしい。
膝の向こうに黒いドットの靴下を履いたつま先が見える。
「……どうなった? 」
ようやくここに来て、自分の先程までの状況を思い出していた。
そっか、車にぶつかりそうになって……。
でも、ぶつかったのかな? こけただけって事もあるよね。
両手を動かし、掌を視界に入れる。
こけたにしては手に傷跡はない。
そのまま、両手で足を撫でてみるが、特に痛みが走る事もない。
頭に手をやる。
ふんわりとした感触。手櫛を通すといつもの手触り。目に入る毛先はお気に入りのピンクブラウンだ。
「え? なにここ? 」
自分の体に異変がない事にほっとしたのも束の間。
辺りを見回して、息を飲んだ。
私はもやもやとした光の中にいた。
「え? いやいや。」
独り言をつぶやきながら、もう一度辺りをせわしなく見回す。
右よーし、左よーし、上よーし、下よーし。
……よくない。
気づけば360度、オールもやもやである。
もやもやの上に座っているのである。
「……死んだのかな。」
考えたくもない考えがよぎる。
自転車をガーっとぶっ放して、車にドーンである。
その結果、死んでしまい、現在は天国やら地獄やらに移送中?
だからこんなよくわからないもやもやに包まれているんだろうか。
「やだ。」
膝を引き寄せ、腕を回す。体育座りだ。
落ち込んだ時やイライラしている時のお決まりのポーズだ。
そして、左の膝に口元を押し当てる。
濃いブルーのスキニージーンズに前歯がギリリと音を立てた。
死にたくない。
本当に死にたくない。
センターもがんばり、二次試験も通過して。
本当にこれからなのに。
ようやく羽を伸ばせるのに。
「せっかくかわいくなったのに……。」
そうだ。私史上一番のかわいさをほとんど誰にも見せていない。
ようやく、私にも春が来る? と思ったこの姿を誰にも見せていない。
いやだ。本当にいやだ。
顔をギュっと膝につけ、左右に振る。
おでこの辺りがグリグリと痛いが、その刺激が自分の混乱を抑えてくれた。
バカだ、私。
なんであんな自転車の乗り方したんだろう。
優しいお母さんの顔、最近はあまり話していないお父さんの顔、ずっと面倒を見てくれてた兄の顔。
大事だった人の顔が浮かんで、やりきれない気持ちになる。
やりたかった事、やり残した事が頭をよぎり、なんか涙も滲んできた。
そんな自分の状況に余計に悲しくなって、ハァーと溜息をつく。
腕と足に囲まれた中でついた溜息は暖かく、次いで吸った息は生温かった。
……生温い?
俯いていた顔をあげ、首の左右に両掌を当てる。
冷え性の手は冷たくて、首はビクッとなったが、掌に当たった温度は暖かかった。
……暖かい! 生きてる!
首から手を外し、膝へ乗せる。
目を開き、もう一度辺りをよく見回した。
私の体は確かに暖かい。
死んでいたら暖かくないだろう。たぶん。
もやもやは相変わらずもやもやのままだが、死後の世界ではないのかもしれない。
動くとどうなるかわからなかったが、そろりと立ち上がってみた。
急にまっさかさまに落ちたり、景色が変わったりすることもない。
ゆっくりとすり足の要領で右足を前に出す。
黒いドットの靴下が音もなく、なにかふわふわした物の上を滑って行くような感覚を伝えながら、前へと進む。
少し進ませた後、徐々に体重を右足にかけた。
「落ちない。」
うむ。落ちない。
どうやら歩けるようだ。
左足を右足にそろえる。
両手は広げて、なんとなく平均台の上を歩いているような感じに。
そこまでしても落ちる様子はなく、少し前へ進んだ。
そこで、また右足をすり足しながら前へ出した。そして、左足を揃える。
何度か繰り返したが、大丈夫そうだったのですり足をやめ、とことこと歩いてみた。
だんだんと気が緩んできて、大胆に足を運ぶ。
「落ちない。」
うん。落ちない!
もやもやから落下するのが怖かったが、落ちる事はないようだ。どうなっているのかはわからないが、しっかりと歩いて行ける。
どこかへ行ってみる?
せっかく歩けるのならどこかへ移動した方がいいんだろうか。
それともここに留まっていた方がいいのか。
あまりにもよくわからない事が起きているので、自分で判断ができない。
途方にくれてもう一度座ろうかと考えていると、何か音がした。
「――こ――ち――お」
っ!
仁王立ちのまま音のした方をパッと見やる。
なにもない。
ただのもやもやだ。
「おい――お――で」
だけど、なにか音がする。
声……か? とても耳心地がいい。
どうする? 行ってみる?
その声を遠くに聞きながら考える。
このままここにいてもどうなるかわからない。
それならば声のする方に行ってみようか。
しかし、その声のする方に何があるかもわからないし……。
考えを巡らせてみるが、いかんせんこの状況の説明がつかないために、説得力のある考察が浮かばない。
故に自分がどう行動すべきかわからないのだ。
それならば。
「行ってみよう。」
誰にともなく、決心を語る。
このままこの場に座り込んでいても、状況が変わるかはわからない。
どうせだったら、声のする方に行ってみて、状況を確認してからここに戻ってきてもいいかもしれない。
女は度胸だよね。
そうと決まれば、その声のする方へそろりそろりと向かっていく。
少しずつ進んでいくと、それが私を呼んでいる声なのだとわかった。
「おいで。――おいで。」
きれいなソプラノの声が呼んでいる。
もやもやの中でその声だけが私の道しるべなのだ。
……正直に言おう。少し嫌な予感がしている。
これって、天使の声なんじゃね?
ついていったら、天国に行っちゃうんじゃね?
少しずつ足を進めながらも、私の胸には戸惑いでいっぱいだった。
どこかで、お母さんとかお父さんとかの声がして、戻ってこーい! とか いかないで! とか聞こえないかな、と思ったんだけど聞こえてこない。
ただただきれいなソプラノが『おいで』と私を呼ぶだけなのだ。
やっぱり死ぬのかな。
不安で眉を顰める。
が、やはりどうしようもなくて、結局はそのソプラノに導かれて歩みを進めてしまう。
声がどんどん大きくなり、なんだか抗えない力となって私を引っ張っていくのだ。
「おいで。こっちだよ。おいで、おいで。」
声がはっきりと聞こえる。
どこかぼんやりとした頭で歩いていた私だが、なぜかスッっと冷静さが戻ってきて、歩みを止めた。
「おいで。おいでっ! 」
声が焦れたように響いた。
「っ……っ。」
私はそれに反抗するように小さく息を二度吐いて、周りを見渡す。
そして、ちょうど後一歩進んだ所にあったもやもやの穴を見つけた。
っ……危な!
もうちょっとで落ちてた!
穴は薄い水色と濃いブルーとがなんだかマーブル模様な感じで入り混じって、キラキラと輝いていた。
どこぞの宝石よりきれいな色だとは思ったが、これに落とされるとか冗談じゃない。
やっぱりこの声はヤバイやつだったんだと認識する。
声につられていったらまっさかさまとか、恐ろしい!
とりあえず、ここから離れよう。
私はその穴から離れるために足を後ろへ引いた。
「こっちだよっ……!」
すると、どうだろう?
ブルーのキラキラから手が二本、ニュッと出てきて、私の足首を掴んだのだ。
「っ……! ちょっと!! 」
ギチッっと掴まれた左足首がグイッと引っ張られる。
バランスが崩れ、腰を落としてしまうが両手をついてなんとか体勢を立て直そうとした。
しかし、左足をグイグイとかなり強い力で引っ張られて穴の中へ引きずり込まれていく。
ホラーだよ、めっちゃホラー!!
「ちょっ……! 待ってっ……!」
怖い、まじ怖い。
どんどん引きずり込まれていく左足につられて、体も持っていかれてしまう。
左半身を下にして、顔は穴と反対方向を向いて、必死で手に力を入れる。
がんばれ、がんばれ私!
もやもやにおでこをすりつけて必死に抵抗した。
が、もやもやには掴む所も摩擦力もなく、あっけなく穴に引きずり込まれる。
私、結構いい人間ですよ!神様ー!
ブルーのキラキラに飲み込まれながら、私は地獄に落ちていく自分の弁護を開始した。