風鳴
お久しぶりです。
今回はちょっとだけ動きのあるシーンです。
僕ははっとして、ミレイのほうをそっと伺った。
「ミ、ミレイ」
囁く。ミレイは背中を扉に押し付けたまま、眼を見開いて、中空を見つめていた。
「ミレイ、逃げたほうがいい?」
僕はもう一度、小声で尋ねた。ミレイと空を飛んで逃げることを想像する。しかし、リリーはどうしよう? 僕は身動きが取れない。ミレイも紺色の傘をぎゅっと握りしめたまま、動かないで考えていた。
コツ、コツと足音が近づいてくる。
「そこに誰か居るのかい」
神父が云う。
僕は神父と、ガルニの顔を交互に視た。視線がガルニの顔に戻ったとき、僕は鋭く開かれた赤い瞳を視てしまった。恐怖でしかない。
「あ、あの」
リリーが呟く。
ガルニは、まるで視ていないかのようにリリーの横を通り抜け、彼は僕らのほうに向かって歩いてくる。 僕は本能的な嫌悪感に押され、二、三歩と後ずさりした。
「お察しの通り」
突然、ミレイがよく通る声で云った。そして風のように動き、僕の横、つまり開け放たれた扉の前に立った。
「私なら、ここに居ますわ」
ミレイの編み上げブーツが教会の床を踏む。蛇のような赤い瞳がミレイの姿を捉える。
「ルルド、皆を連れて逃げて」
ミレイが囁く。同時に、風を切る音が耳元をかすめた。僕が一瞬瞼を閉じたその隙に、不気味な緑色の光彩を放つ鞭が、ミレイの右腕を捉えていた。
束縛の光を放っているのは、ガルニその人だった。
「リリー! ルルド!」
神父が叫ぶ。
「彼らも捕まえろ」
ガルニは鋭く云い放つ。
「ルルド、早く」
ミレイの言葉に、僕はようやく駆け出し、リリーの手を取った。
「どういうこと?」
リリーは動揺している。
「僕に分かるわけない!」
教会の椅子をまわって、僕は逃げ道を探す。憲兵らは僕らの動きを読み、迅速に追いかけてきた。
「きゃ」
繋いだ手を振動が駆け巡る。リリーはふとももを椅子にぶつけてしまったようだ。
「リリー」
一瞬の間に、僕らは二人の憲兵に取り囲まれてしまった。
「ルルド、抵抗しないで。きっと大丈夫だから」
こんな状況だと云うのに、リリーは僕のほうを心配していた。僕らは腕を取られ、ねじるようにして背中に押し付けられた。
「二人は関係ないわ!」
ミレイが叫ぶ。彼女は動きを封じられている。ミレイの顔を見ると、苦痛の表情も浮かんでいた。ギリリという摩擦音が聴こえそうなほど、腕を締めつけられているのだ。
「不運を呪いたまえ」
ガルニは何でも無い事のように云った。僕はこの暴力的な連中を睨み付けながら、しかしなす術も無く次の言葉を待った。
「大尉、これは一体、どういうことですか? その二人は私の家族です」
神父が云った。
「では、あの娘は知っているかね?」
ガルニは空いている左手でミレイを毒々しく指差す。
「いえ──しかし子供です。彼らの友達ですよ」
「友達か。ハッ。友達は選ぶほうがいいという教訓になるのではないか?」
僕は身をよじるが、どうしようもない。
「教えて差し上げよう、神父殿。それに少年たち。その小娘は、見た目こそ少女だが、薄汚い、たちの悪いコソ泥なのだ。この蛇が!」
ガルニはそう云うと、強く鞭を引いた。ミレイは腕が抜けるのではないかと思うほど強く引っ張られ、床に叩きつけられてしまった。
「ミレイ!」
口々に悲鳴が飛ぶ。ミレイだけが、静かに耐えている。
「どういうこと!? 確かに彼女はりんごを盗んだかもしれない! けれどこんなの酷過ぎる!」
僕は思わず叫んだ。
「りんご? ハッ。りんごか。確かに知恵の実であることに間違いはない。だから蛇なのだ。この女は!」
そうしてガルニは、再び鞭を強く引いた。石造りの床を不快な振動が伝う。
「よく聞け。この小娘は、『翼の書』を盗んだ悪党だ。処刑しても足りん」
「『翼の書』…?」
リリーが口元に手をやり、驚いている。それは重大な罪なのか? 僕はもう、面倒な思いでいっぱいだった。
「とにかくもう止めてよ! ミレイ、何か借りたのなら返してあげれば?」
「冗談じゃないわッ!」
その一言は、初めて聴くミレイの怒りの声だった。
「もちろん、大人しく返したとしても、貴様らを処刑することに変わりはない」
ガルニは、もはや楽しんでいるように、残酷な笑みを浮かべてそう云った。
「どうした、蛇め。立て。何故私がお前の腕を切り落とさなかったか。傘を奪わなかったか、分かっているだろうな。見せてみろ。逃げて見せたまえ」
ミレイはよろよろと立ち上がる。ガルニはそこを再び転ばせる。何度も倒れ、膝からは出血している。リリーは思わず顔を背けている。
砂が付いて、薄汚れてしまったミレイの髪。その下で、噛みしめられていた唇が、いよいよ言葉を紡いだ。
「蛇は、アンタでしょ」
重く響き渡る、宣戦布告。僕は身の毛がよだつのを感じた。
「ほざけ」
ガルニは今までで一番強く鞭を引く。僕は思わず眼を背ける。
聴こえてきたのは風切音だった。粉々にちぎれた光の鞭が、僕の眼の前を通過していった。
「ミレイ……?」
ミレイは傘の先端をガルニに向け、絶対不服従の意思を見せつけた。
「リリー! ルルド!」
次いで神父の声。
その刹那が形勢を変えた。神父が放った攻撃色の光が、二人の衛兵を気絶させていた。
「チッ、示し合わせたように」
ガルニは鞭を再生させ、今度は僕らに向けて放ってきた。
神父は分厚い本を広げ、何やらの魔法で僕らを守ろうとするが、間に合わない。
ミレイのほうが先に間に合った。編み上げブーツの駆ける音がして、僕らに届きそうな鞭の先端を、ミレイの傘が切り落とした。次いで広げられた傘は、まるで暴風雨に立ち向かうように、僕らを守ってくれた。
「ふ、シールドか」
視界の向こうでは、激しい火花が散っている。僕はすぐそばにあるミレイの横顔を見つめた。
「ミレイ、大丈夫? どういうこと?」
「ごめんね、ルルド」
ミレイは傘を精一杯支え、前方を睨み付けるように見つめながら、それだけを云った。
「神父様。リリーとルルドを遠いところへ。裏口からなら逃げられるはずです」
ミレイは続ける。
「君」
「ご迷惑をおかけし、すみませんでした……」
神父はしばらく黙っていたが、厳かに頷くとリリーの手を取った。
「ミレイ君とやら。今は君を信じよう」
「ルルド」
リリーがか細い声で誘う。
「僕は、残るよ」
「いいから行って!」
ミレイが鋭く云う。そうしているうちに、僕はリリーの手を離してしまい、逃げる機会を失ってしまった。
「ルルドー!」
リリーが叫ぶ。あんな声をするんだ、と僕は思いながら、神父と共に教会を出ていく彼女を見送った。
「バカ! ルルド!」
横でミレイが云う。
「会ってすぐの人にバカって云わない方がいいよ。それにどういうことなの?」
僕はミレイの肩を支えた。でも、傷を触ってしまったようで、ミレイは苦渋の表情を浮かべた。僕はすぐに手を離し、無力さを知った。
「ごめ…説明できるほど、体力残ってないの……」
「どうした。魔傘使い。このままではマナを使い果たすだろう。早く見せてくれよ。君の魔法を」
僕らがこんなことをしているうちにも、何度も鞭打たれるミレイの傘。
「ねえ、僕、何かできないの?」
「軍、の人って、案外、強い、のね……。ちょっと、協力、してもらおうかしら」
ミレイの横顔を冷や汗が伝う。
「う、うん、そうだよ」
一人より二人だよ。僕は今のところ無傷だ。ミレイと違って、一撃受けたら壊れてしまうかもしれないけれど。例えばおとりになるとか。
「サモン・トランク!」
ミレイは突然、そう叫んだ。
すると、僕の後方に白い光が現れた。
「うわ、何、何?」
「出現場所、踏まない、でね」
ミレイは云う。僕は息を呑んで光の発生源を凝視していた。少し目が疲れる。光はだんだん四角い形になって、ミレイが叫んだように、トランクが出現した。
「うわ、大きい! 皮の鞄だ。すごいよ、ミレ」
その言葉が切れないうちに、トランクは僕に駆け寄ってきた。
「え、何これ」
犬のように唸っている。
「生きてるの! 開けて、中から集気びんを取り出して!」
「何、生きてる? 集気びん?」
ミレイはもう答えない。
トランクは呑気に、早く開けてくれといわんばかいりにそわそわしている。
「ああ、もう、分かったよ」
僕は焦る手つきで、トランクの錠前を外しにかかる……なんとか開いた。中身は、本、薬品、目覚まし時計、アクセサリー、に服? 下着もある。とにかく、ごちゃごちゃしたもので一杯だった。緊急事態なので仕方がない。僕はそれらをかき分けて、『集気びん』らしいものを探した。
「ミレイ、これ?」
いくつか種類があったが、僕はひんやりとした感触の小瓶を手に取った。耳に近づけると、コォーという風の音がして、とても不思議な物体だ。ふたは紙のテープで厳かにシールされている。僕は力を込めてふたを掴む。
「開かない」
「開け? だ、だめ! 開けないで! アイツに投げるのよ」
ミレイは激しく動揺し、そう云った。
「あ、そうなんだ」
僕はラベルに書かれた文字を視ながら、びんを構えた。
「え、ええと……。喰らえ、ブリザード!」
僕が投げた集気びんは綺麗な放物線を描き、ガルニのほうに向かって飛んで行った。すぐにガラスの割れた音がした。
傘のせいで向こう側は見えないが、僕らはとんでもない冷気が周囲にほとばしるのを感じ取った。
トランクが勝手に閉まり、僕の方にすり寄ってきた。僕はトランクを抱きしめた。白い煙は、僕やミレイのすぐそばまで漂ってきた。ひとたまりもない効果があったことは疑いようがなかった。
「うわぁ……、ミレイ」
魔法ってすごい。
僕は放心した。
そんな僕を、ミレイはすぐさま椅子の影へと突き飛ばした。
白い煙が、僕とミレイを隔てる。
「ミレイ!」
「そこに居て!」
云うと、ミレイはそっと傘を閉じ、静かに立ち上がった。
僕は椅子の影から、恐る恐るガルニのほうを視た。
意外にも、そこには立ったままの影が視えた。そして、白い煙の中で赤く光る瞳も。ガルニは片手を腕の前に構え、今の爆発を耐えきっていた。
「うわ」
僕は慌てて椅子の影に隠れ、ミレイのほうを視た。ミレイは相変わらず、真っ直ぐ前を視ている。
「こんな低級魔法……失望だ」
「『翼の書』ならここにあるわ」
ミレイはおもむろにそう云うと、トランクから一冊の本を取り上げた。
そこから先は、一切の言葉がなかった。しかしミレイの一言で、攻撃的な波動が教会の中を駆け巡った。
「ミレイ!」
僕は叫ぶ。
ミレイは白い煙の中を、僕と真逆の方向に駆け出した。それを間一髪で追いかけていくのは、空気のすさまじい圧縮と膨張。ガルニの魔法の軌跡だ。ミレイはそれを3発回避した。しかし着弾の誤差は着々と修正されている。ミレイは紺色の傘を斜め上にかざし、ついに飛び立った。足音が消え、雲を抜ける。ミレイの、飛行の魔法──。
「ほう、これが」
ガルニはそう呟き、攻撃の手を緩めないまま、妖しい笑いを口元に浮かべた。
ミレイは教会の天井をまわる天使のように、滑らかに上昇した。ガルニの魔法は壁を伝い、煉瓦を破裂させ、次々に窓ガラスを粉砕していった。
どうするのだろう…。上空から一気に切りかかれるものだろうか。僕は固唾を飲んで見守る。
「あ!」
僕は叫ぶ。
ついに魔手が、ミレイの細い足に追いついたのだった。
それは、僕が今までで視た中で最もグロテスクな瞬間だった。ワインボトルが割れたように、赤い血が、吹き出し、天井付近から注いだのだ。
僕は意識が遠くのを感じた。
その声を繋ぎ合わせたのは、ミレイの悲鳴ではなく、彼女の健全な声だった。
「レイ!」
僕の耳元で響いたアルトは、赤い光を伴ってガルニのほうに真っ直ぐに飛んで行った。
そうして、大きな質量が吹き飛ばされる音。床面に停滞していた白い煙が、巻き上がり、室内全体を覆った。
僕は煙の中に目を凝らす。割れた窓から差し込む光が、傘を銃のように構えたミレイの姿を映し出していた。彼女は僕の横に立って、真っ直ぐに敵のほうを視ていた。
「ミレイ!」
僕は呼び、立ち上がり、彼女の肩を掴む。ごわごわとしたモッズコートの感触。
「痛った」
「ああ、ごめん」
ミレイは呟き、そのまま、床に崩れ落ちてしまう。ついに自慢の傘が、彼女の白い手から転がり落ちた。それを視線で追うように、僕は彼女の足首を確認する。
「ミレイ、足! 大丈夫? じゃないよね、どうしよう」
僕は煙をかき分け、彼女の白くて細い足を触った。その手を、ミレイの手がぺちんと叩いた。
「大丈夫。大丈夫よ」
「だって! 足!」
「イリュージョン……偽物よ」
ミレイは説明するのも疲れたというふうに、それきり、床につっぷしてしまった。
「ねえ、ミレイ? 大丈夫?」
僕は彼女の手首に指を当て、生死確認をした。うん、大丈夫、壊れていない……。
そうしてから、僕は思い出したように立ち上がり、敵のいたほうを視た。一度巻き上がった冷気が再び床に降りてきていた。倒れているガルニを探すのは恐ろしい作業だった。
しばらく歩くと、教会の壁際にそれを見つけることができた。
ガルニは紅い目を見開いたまま動かなくなっていた。観察すると、巨体の中央、心臓の位置に、ナイフのように鋭いガラス片が突き刺さっていた。ミレイが放った光はこれを含んでいたのだろうか。僕は恐る恐る、投げ出された太い手を手に取り、心臓が動いていない事を確認した。
「終わった」
僕は呟く。
神父とリリーに教えないと……。僕は歩き出す。僕の靴が小石を踏む。荒れ果てた教会を見渡すと、どうすればいのか分からなくなる。
これが闘い……。魔法使いの闘いなんだ。
「ねえ、ミレイ」
僕はそのとき、何を云おうとしたのか分からなかった。ミレイは床に突っ伏し、表情は視えない。僕は彼女の肩にそっと手を置いた。僕も小柄なほうだが、ミレイの躰はとても小さかった。どこにあんなエネルギーがあるのだろうと僕は考えた。ミレイは、フランネル神父と、リリーと、僕を守り切ったのだ。僕は温かい気持ちになり、何度もミレイの肩をさすった。そうしているうちに、意識を失っていた。
TO BE CONTINUED
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