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白い朝

はじめましての方も、お久しぶりな方も、こんばんは。

初ファンタジー・初連載です。今回の投稿はちょっとしたテストで、何か反響があれば、頑張って続きも投稿しようかと思っています。(何もなければ取り下げるかもしれません)

何卒よろしくお願いします。

 午前七時の柔らかな光が、フールズシティの噴水広場を照らしている。

僕は両手でカップを包むように持ちながら、珈琲を口に運ぶ。傍らでは、先ほど息を吹き返したばかりの銀時計が、コチコチと時を刻んでいる。

 僕の名前は、ルルドというそうだ。

 そうだ、というのは、僕にはほとんど記憶がないからだ。

 僕は今日、午前六時に固いベッドで眼を醒まし、机の上に置かれていた古い一冊のノートを読んだ。するとそこには驚くべき事実がいくつか書かれていて、その一つが、僕が記憶喪失であるということだった。

そのノートが、誰によって、あるいは何のために書かれたのかは定かではない。でも、あまりに澄み切った僕の頭は、そこに書かれているどれもこれもが、紛れもない真実であるということを納得してしまった。

 そう、確かに、僕には記憶が無いのだ。

 ついでに云うなら、僕の仕事は、時計を直すことだそうだ。フールズシティの入口の宿屋の201号室が僕の住処だそうで、ドアの前にはカゴがあり、その中には壊れた懐中時計がたくさん入っていた。

 僕はさっき、試しに、一番上に乗っていた銀時計を部屋に連れ帰り、机に向かった。するとどうだろう、気が付くと、僕の指は工具を持っていて、時計を修理し始めたのだった。古いノートの罫線に沿って、ねじが並ぶ。

 僕は映画でも眺めるような心地で、自分の手を視ていた。軽やかに分解されていく、誰のものかも知れない銀時計。

 ああ、思ったよりも壊れていないな。

 などと、僕はホコリを取り除き、ギアに油を差し、ゼンマイが外れないように注意しながらふたを閉める。リュウズを巻くときには、僕の指は健全な感触を確かめる。

 僕は珈琲を呑み終えると、カップをテーブルに置き、時計をポケットにしまって立ち上がった。こうして、僕はこの日、初めて部屋の外に出た。

 廊下には誰もいなかった。

 僕は軋む木の階段をゆっくりと降りて行った。

 階段脇のフロントでは、女主人が退屈そうに雑誌を眺めていた。特に怖い顔ではないし、話をすればいろいろなことが分かったと思うけれど、何故かそれはためらわれた。僕は軽く会釈をし──といっても、それを見られたかどうかも定かではないけれど──足早に外に出た。

 広場に満ちる光を肌で受けると、なんだろう、とても清々しい気分だ。ずっと前から起きていたはずなのに、今やっと目が覚めたような気がした。

 僕は街のつくりを観察し、何かを思い出そうとしていた。

 何を?

 僕は自問する。

 そう、まずは朝食だ。珈琲だけでは……。

 ああ、珈琲の淹れ方は覚えていたのに。僕は苦笑し、ポケットから時計を取り出した。

 七時三十分。うん。

 僕は歩き出す。握りしめているそれはコンパスではないし、地図を併せ持っているわけではないのに、銀時計の感触は僕に安らぎを与えてくれた。

 僕は石畳の道を、歩きに歩いた。躰が動く。それだけのことが、とても新鮮で、とても楽しかった。

 市場に向かうと、そこは色とりどりの麻布を着た人々でごったがえしていた。中には杖や剣を携えている者もいた。旅人だろうか。

 僕はここにきて、自分の服装が気になった。白いシャツとジーンズという軽装。特に滑稽と云うわけではないが、昨日までの僕は、あまりオシャレでは無かったらしい。

 再び群衆を見つめる。

 僕はふと、僕は傘を持っている人も多いことに気づいた。今日は雨が降るのだろうか? 

 空を仰ぐと、ぽかんとした青を背景に、これもまた色とりどりの洗濯物がロープで吊るされている。

 僕は手のひらをそこに差し出してみる。当然、何も起こるわけがない。

 ぼーっとし過ぎだな……。

 自分でも、そう思った。

 と云うのも、そんな自覚ができたのも、次の瞬間が訪れたからなのだ。

「泥棒!」

 突然、そんな鋭い声が浴びせられた。

 僕はゆっくりと振り返る。みすぼらしい服装の男が、僕の横を駆け抜けて行ったのが視えた。

「あんただよ!」

 主婦が云う。僕の眼を視ながら。

 え?

 そうして、僕はいよいよポケットに手を突っ込んだのだ。

「あ、時計か」

 僕は銀時計をすられていた。

「待って」

 僕は初めて発声した。笑ってしまうくらい、あまりにも弱弱しい声だった。でも笑わなかったのは、僕が大切な時計を奪われたからだ。

 泥棒は群衆をかき分け、するすると路地に進んでいく。僕も走る。誰かと肩がぶつかり、いくつかの果実やら野菜が、土の上に転がる。

「ごめんなさい!」

 云いながらも、眼を奪われてはいけないと僕は知っていた。男の影がタルの積まれた角を曲がり、細い路地に入っていったのを僕は視た。

 薄暗い路地には誰もいなかった。ただ迷路めいているというだけで。

 知らない街の知らない路地。僕は息をひとつ吸い込み、まるで水にもぐるように覚悟を決めて、再び走り出した。

 距離はどんどんと開き、僕の脚は疲労していった。

 これまでか。

 いや、立ち止まっては駄目だ。

 と、再び走り出そうとしたとき、睨んでいた背中の向こうで、何やら赤い閃光が迸った。僕は急ブレーキをかけた車のように足を止めた。

 何だ。

 僕は木箱の影に隠れながら、ゆっくりと近づいて行った。地面と垂直になった泥棒のつま先が視える。

 何か居る。

 僕は魔物のようなものを連想した。でも、こんな街中で?

 すぐそこに居ると思われる何者かは、銀時計を持ち上げて品定めをしているようだった。チェーンがぶつかる音がする。

「誰?」

 あっという間に気付かれた。

 でも、それは、美しいアルトの声だった。

 僕は溜め息を一つ吐き、両手を上げて暗がりから姿を現した。

「その時計の持ち主ですよ」

 云いながら、僕は声の主を見据えた。声の主は紺色の傘の先を僕に向けていた。僕は少し驚いて、とっさにそこから視線を逸らし、編み上げブーツを視た。頑丈そうな靴から伸びるのは白く細い足、その上には動きやすそうなハーフパンツと緑のモッズコート。

 探検家か、あるいは学者といった風貌だ。

「ああ、なんだ、君の時計か」

 僕の視線が一巡する間に、声は納得し、警戒を解いた。突き出されていて紺色の傘が降ろされる。そうして僕は目の当たりにすることになる。ハンチングキャップから溢れるススキ色の髪と、おっとりとした夜明け色の瞳を。

 驚くべきことに、件の泥棒を倒したのは、いとも美しい少女だったのだ。

 といっても、どこか大人びているようにも視えるし、年齢は不詳だ。

「ありがとう。取り返してくれて」

 僕が手を伸ばすと、少女はさっと時計を手元に手繰り寄せた。振り子のように揺れる銀時計。

「ぼうっとしているからよ」

 少女は瞳を輝かせて呟く。

「確かに」

 僕は笑う。

「でも、今ので、君の持ち物だって分かったわ。返すね」

 そう云って、少女は時計を返してくれた。

「ありがとう」

 僕は時計をポケットにしまった。

「それにしても、すごいね。どうやってやっつけたの? さっきの光は何?」

 僕は、半分は好奇心で、半分はこの人ともう少し話をしたくて、言葉を繋げた。

「どうやって、って、簡単な魔法よ。不意を突いただけで」

 少女はさも当然というように答える。なるほど、少女は魔法使いなのだ。

「魔法なんて初めて視たよ」

 僕は思わずそう呟いてしまった。

「本当? フールズシティに住んでいて?」

 少女は目を丸く見開いて驚いた。

 僕は乾いた笑いをもらす他に無い。フールズシティが何なのかすら、まだよく分かっていないのだから。

「私の魔法よりも、そっちのほうが珍しいよ。君、名前は?」

「ああ、ごめん。名乗りもせずに。ルルド。それが僕の名前みたい」

「ルルド? みたい?」

 少女は訝しげに首をかしげた。ああ、どんどんぎこちない会話になってしまう。僕は少し焦った。

「説明すると、ややこしいんだ」

 とだけ、僕は笑って説明した。

 これが功を奏したかどうかはともかく、少女は僕に興味を持ってくれたようだった。

「ミレイよ。よろしく」

 云いながら、ミレイは手を差し出した。僕は恐る恐る、その手を取った。とてもやわらかい掌だった。

僕はふと、もう何年も、人と触れ合ったことが無い気がした。そんな記憶も無いのに。

 ミレイ。

 僕は声に出さずに呟く。

 綺麗な名前。声と、髪と、瞳の色にぴったりの響きだ。

「ルルドか……。変わっているけど、うん、でも、素敵な名前よ」

 ミレイはそう云って屈託のない笑みを浮かべた。僕はこのとき、すっかりミレイに魅かれてしまっていた。僕はぽかんと空いた口から、次の言葉を探す。

「そ、それで、ミレイは旅の魔法使いなの? それに、どうしてこんな路地に──」

 僕は手を離さないまま尋ねていた。

「居たぞ!」

 図太い声が会話を遮る。次いで、がしゃんがしゃんと鎧のぶつかる音。

 憲兵?

「あ、まずい。逃げなきゃ」

 ミレイは云う。

「追われているの? どうして?」

「いいから!」

 彼女は急に走り出した。僕は手を引っ張られ、腕が抜けるかと思った。

「りんごの罪よ」

 声が囁く。意味が分からない。

 彼女はさらに意味不明な囁きをいくつか歌った。すると、路地裏の悪路を走っていた僕らは、靴底の泥の感触を失い、ゆるやかに上昇し始めたのだった。

「うわ、ミレイ、浮いてる! 浮いてるよ!」

「いいから。手、離さないでね」

 ミレイは傘を天空に向け、かろやかに最後のステップを踏んだ。

 僕らの躰はぐんぐんと上昇し、細い路地裏の滑走路を抜けた。

 煉瓦の壁が消えると、眩しい光に包まれる。紛れも無く、僕らは空を飛んでいるのだ。僕はおそるおそる下方を視た。なすすべも無く立ち尽くす鎧の憲兵二人が、あっという間にネズミのような大きさになった。

「ルルド? 大丈夫?」

「うん」

 と答えながらも、僕は怖かった。手を離したら、僕は落下するのだろうか。しかし、瞑りかけた眼に、とんでもないものが飛び込んできた。

「うわあ」

 僕は感嘆する。

 僕は生まれて初めて、フールズシティの全景を視たのだった。

 円形の噴水広場から、植物の根のように大地にめぐらされている街路。ひしめく家々。所々に小さな広場があり、水路もあり、階段もある。

 美しい眺めだった。

「うーん、なんと云って良いか……魔法ってすごいんだね」

「え?」

 風の音が強くなり、僕の声は聴こえなかったようだった。

「りんごの罪って何―!」

 今度は、声を張り上げて尋ねた。これは聴こえたらしく、ミレイの耳がぴくりと動くのが視えた。でも、ミレイは答えなかった。

「屋根の上に着地するねー!」

 ミレイはそう云うと、傘を広げ、ゆっくりと姿勢を変え始めた。僕もそれに倣い、足を真下に向けるように試みた。

「そこ、たぶん、僕の住んでいる宿屋だよ」

「え、そうなの?」

 隣でミレイが笑った。

「はい、到着。おかえりなさい」

「ただいま」

 と云っても、僕が降り立ったのは屋根の上なわけで、懐かしさも安らぎも何もない。足元に注意しながら、ゆっくりと手を離す。僕はなんとか着地できた。

「巻き込んじゃって、ごめんね」

 傘をたたみながら、ミレイは云った。

「ううん。それより、手、痛くなかった?」

僕はいつの間にか、ミレイの手を強くにぎりしめていた。慌てて離した掌には、汗が浮かび上がっていた。

「平気よ。それより、ルルド。ここに泊まっていたの」

 云われて、僕は慎重に屋根の上を歩き、窓の位置を確認した。

「そこの201号室が僕の部屋なんだ」

「それはちょうど良かったわね」

「でも、もう少しだけここに居ようかな」

 僕は云った。

「え、うん。そうね。もう少しして、ほとぼりが冷めたら、傘で下してあげる。さて、じゃあ私はここで、朝ご飯にするね」

 ミレイはそう云うと、コートのポケットから真っ赤なりんごをいくつも取り出して、落ちないように屋根の上に並べた。そしてその横に座り、一つを手に取って、コートの裾で表面をこすった。

「あ、それ、盗んだの?」

 彼女の白い歯がりんごに接触する前に、僕は一応、尋ねた。泥棒が泥棒を退治するなんて、なんだか可笑しいと思ったからだ。

「借りたの」

 ミレイは云った。

「そっか。借りたんだね」

「そう。借りたのよ」

 ミレイは少し顔を赤くして、そう答え、リンゴをかじった。

 僕は笑った。情けない事に、瑞々しいりんごの果肉を見ていると、僕のお腹もぎゅーっと鳴りだしそうだったのだ。

「僕も一つ、借りて良い?」

 ミレイは吹き出した。

「う、うん、いいけど」

 ミレイはりんごを差し出しながら続けた。

「ねえ、ルルド。君って何者なの? フールズシティに住んでいるのに、警戒心も無い、魔法も知らない、そしてお金も無いの?」

 僕はりんごを掌で転がしながら、その問いを聴いていた。

「分からない。でも、お金は、部屋を探せばあるかもしれない。借りは返せるよ」

「うーん……」

 ミレイはそう呟くと、黙ってりんごをかじった。いただきます、と云って、僕もりんごをかじった。

 眼下では、大きな噴水の流れだけが時の経過を示している。

「綺麗ね」

 ミレイがそう云った。咀嚼しながら、うん、と僕は答えた。

「あのさ」

 僕は呟く。

「こんなことを云ったら、変に思うかもしれないけれど、僕、記憶が無いんだよね……」

「え」

 当然、ミレイは驚く。

「君、記憶喪失なの?」

 夜明け色の瞳が僕の方を視た。照れるので、僕は顔を逸らす。

「うん」

「いつから?」

 ミレイはやけに真剣に訊いてきた。僕は心配されているのだろうか。そうだとしたら、少し嬉しい。と、同時に、なんだか申し訳ない気持ちもある。

「多分、昨日から」

 とりあえず、正直に説明するしかない。数少ない僕の知識だ。

「朝起きたら、だいたい全部、忘れていたんだ……。あ、時計の直し方とか、珈琲の淹れ方とか、そういうのはだけは、なんとなく覚えているのだけど」

「それは……」

 ミレイは言葉を探している。

「大変ね」

「いや……」

 言葉に詰まる。そういえば僕は、どうしてこの説明をしたのだろうか。不思議だ。

 沈黙を埋めるように、僕らはりんごにかじりつく。

 あまりに切実な空気を、僕はどう破っていいのか知らない。結局、僕は一つ溜め息を吐いて切り出した。

「それが、そう大変でもないんだよ」

 そう、そして、それがまた問題なのだ。

「確かにちょっと不便かもしれないけど、悲しいとか、不安とか、そういう気持ちは無いんだ。むしろ、今日も一日、いい事がありそうな、さわやかな気持ち」

 現に、ミレイに会えたし、と僕は思ったが、その言葉は飲み込んだ。話が嘘っぽくなってしまいそうだったから。

「でも、やっぱり、思い出さなくちゃいけないのかな」

 僕は呟く。

 ミレイはその問いには答えてくれなかった。

「誰か、ルルドを知っている人は居ないの?」

「分からない」

 僕は視線を銀時計に落とした。

「うん。でも、まだ今日は始まったばっかりだし。あとで宿屋のおかみさんに聞いてみるつもりだよ」

「それがいいわ」

 ミレイはりんごの芯を放ると、立ち上がった。

「おまたせ。ま、そろそろ良いでしょ。下まで下ろしてあげる」

 手が差し伸べられる。僕は果汁でべたついた手をジーンズで拭うと、やんわりとミレイの手を取った。


 ※

 

「ルルドー!」

 平らな石畳に降りるなり、僕は名前を呼ばれた。声のほうを視ると、黒髪の女性がこちらに駆け寄ってくるところだった。鶯色のスカーフと淡いオレンジのロングスカートが翻り、サンダルが覗く。紙袋を抱えた格好は、いかにも主婦のようである。当然、僕の知らない人だ。

「ほら、さっそく心配している人がいるわ」

 ミレイはそう云い、笑った。僕はなんとなく笑えず、繋いだ手を視た。この手を離したら、もう二度と会えない。夢のような楽しい時間がもうじき終わる。そういう確証があった。

 女性は息を切らしながら、僕らの前にたどり着いた。腰を少し折って、息を整えている。紙袋の中身が傾き、彼女と同じく、くったりとした感じを醸し出す。

「あ、あの、大丈夫?」

 僕はまずそう聞いた。正直なところ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。この人は僕の友達なのだろうか、あるいは恋人だったのか、姉なのか、母なのか。それを確かめるには、彼女の言葉を待つしかない。僕は何と云って良いのか判らなかった。

「お知り合いの方ですか?」

 ミレイが助け舟を出してくれた。

「ええ、はい。ルルドは──大切な友達です。ああ、でも、良かった。何処に行ったかと……。貴女が連れ戻してくれたんですね。ありがとう──ありがとうございました」

 女性は息も切れ切れに答える。ふーん、友達なのかと僕は思った。そうして、僕には友達が居たんだな、と感心した。

「あの、私はリリーと云います。お名前を頂戴しても?」

 リリーは至極丁寧に名乗った。

「ミレイ。私はただの旅の者です」

 ミレイは手を差し出す。リリーは荷物を持ち直し、少しだけ苦労しながらそれを握った。

「ミレイさん、ですね」

「彼女、魔法使いなんだ」

 僕は付け加えた。リリーの紅茶色の瞳が、きらりと輝いた。

「魔法使いですって?」

「ええ、まあ」

 あれ。

 ミレイは、少しバツが悪そうな顔をしていた。あれほど得意げだったのに、どうして遠慮しているのだろうか。僕は少しだけ不思議に思った。

「ルルドとは、さっき市場の近くで会ったばかりですよ」

 ミレイは続けた。

「市場に行っていたの?」

 リリーはまた驚き、今度は僕の方を向いて訊いた。

「うん」

 僕は極めて冷静に答えた。

「ああ、そう──。ちょっと来るのが遅かったみたいね」

 リリーはそう云ってにっこりと笑った。

「ええと、あの」

 咳払いを一つし、ミレイは続ける。

「リリーさん。なんと説明していいのか……。ちょっと申し上げにくいのですけど──」

 ミレイは紺色の傘を強く握って、懸命に話した。

「どうも彼、昨夜、たぶん、頭を強く打ったか何かで──」

「ああ、いえ、大丈夫、大丈夫です」

 リリーは掌を突き出して遮った。

「記憶喪失なんですよ。彼は」

 リリーは力なく笑って、さらりとそう云った。ミレイは驚く。僕も驚いた。この人は、本当に僕の事を良く知っているのだ。

「ご承知でしたか」

「はい。いつもはちゃんと迎えに来るんですけど、私もすっかり忘れていて……」

 僕は一人で考えていた。リリーの口ぶりからすると、どうも、僕は昨日どころか、ずっと前から記憶喪失であるようだった。

「あ、それよりもミレイさん、何かご迷惑をおかけしませんでしたか?」

 その言葉に、僕はどきりとする。平素の僕は、人に迷惑をかけているのだろうか。

「迷惑も何も」

 僕は笑って遮った。ミレイは時計を取り戻してくれけれど、彼女自身もりんご泥棒なわけで、僕は巻き込まれて空まで飛んだわけで。だいたい僕は、本当に何も知らないわけなのだ。

などと考えて、ミレイのほうを一瞥すると、ミレイは僕の方をじっとりとした目つきで視ていた。

「りんごを御馳走になったよ」

 僕はそう云って話を切った。

「まあ! あのう、ミレイさん。もしよろしければ一緒に朝食でもいかがですか? 私たち、これから朝食なんです」

 リリーは紙袋の重さを確かめるかのように、それを少しだけ持ち上げて見せた。

「僕はいつも、君と朝食を食べていたの?」

 隙をみて、僕は尋ねた。

「そうよ、ルルド。君はとても料理が下手なのよ」

 リリーははにかんで云う。少し邪険に扱われている気がするが、厭な感じがしない。純粋に、気さくな人だと僕は思った。何より、今はとても助かる。

「大丈夫よ」

 リリーは、真っ直ぐ前を視たまま、小声でそう云った。黒髪が風にそよいでいる。

「今は何も解からないと思うけれど、あとで全部説明してあげるから……」

 リリーはそう云い、今度はミレイに振り返った。

「──それに、ミレイさん。私、魔法使いのお話って聞いてみたいです」

 どうやらリリーは、ミレイのことを気に入ったように僕には思えた。

 二度目の朝食だな、とだけ僕は思ったが、歓迎だったので余計なことは何も云わないようにした。なにしろ、珈琲とりんごだけでは……。ミレイに至っては、きっとりんごしか食べていないのだろう。

「いかがですか?」

 リリーの言葉に、ミレイは何故か迷い、編み上げブーツの底で石畳をこすっている。

 おいでよ。

 と、僕が口を開こうとしたとき、ミレイのお腹がぎゅーっと鳴った。僕は吹き出し、リリーは戸惑いがちにはにかみ、ミレイは少し赤面した。

 なんだか今日から、忙しくなりそうだ。とだけ、僕は思った。


 TO BE CONTINUED


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


旅も戦いも始まる前ですので、なんとも云えないところだとは思いますが、いかがだったでしょうか。

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