#8 ケイタと圭太
「杏ちゃん。さっきのは、冗談なんかじゃない。今夜はこのまま――」
耳元で囁かれた熱い吐息。
ケイタの指先が私の頬をなぞり、そのまま唇へと滑り落ちた。
吸い込まれそうな茶色の瞳。
「……だ、だめ!」
震える声で、私はケイタの胸を押し返した。
トク、トク、と手のひらから伝わってくる彼の鼓動が、驚くほど速くて力強い。
「ケイタは日本を代表するアイドルで、大事なクライアントなの。公私混同なんて、できないわ」
「それなら、アイドル辞めようかな」
「真面目な話をしてるの!」
「杏ちゃんのそういう真面目なところ、変わらないね。頑固で一生懸命で……困ってる人を放っておけないところも」
手のひらに軽くキスを落とされる。
とろけるような誘惑に理性が溶けそうになる。
祐介に浮気をされて、心が寂しかったのは否定できない。
けれど、ここで流されてはケイタとの関係が、仕事上の信頼さえも壊れてしまう気がして、私は必死に踏みとどまった。
「ちゃんと、落ち着いて考えたい。今はまだ、混乱してるの……。ごめんなさい」
私が視線を伏せると、ケイタは叱られた犬みたいに、一瞬でしょんぼりした顔をした。
「――わかった。杏ちゃんがそう言うなら、今日は我慢する。タクシー呼ぶから、ちょっと待ってて」
スマホを取り出すと、手慣れた様子で配車を手配する。
「杏ちゃん」
数分後、ドアに手をかける。
呼び止められて振り返った瞬間、視界がケイタの影に覆われた。
私の額に、そっと唇を落とされる。
「ボクはもう、あの頃の弱い泣き虫じゃないから」
「……うん」
「アイドルになってお金持ちになったら、杏ちゃんと結婚する。そう言ったはずだよ」
「子どもの頃の話でしょ?」
「ボクは本気だよ。あの頃からずっとね」
私は息を呑み、動けなくなった。
あの夕暮れの公園で聞いた幼い声が、今の彼の声と重なる。
「年の差なんて関係ない――とも言ったはずだ」
ケイタに見送られ、私はタクシーに乗り込んだ。
車窓を流れる東京の夜景を見つめながら、私は何度も自分の唇に触れた。
止まっていた時計の針が、狂ったような速さで回り始めていた。
◆◆◆
翌朝。
私は重い頭を抱えて、いつものデスクに向かっていた。
「……集中。仕事に集中しなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、パソコンを立ち上げる。
けれど、今日向き合わなければならない仕事そのものが、最大の試練だった。
仕事をしようとすれば、嫌でもケイタの顔が目に入る。
アクリルスタンド、クリアファイル、ステッカー。
誘惑するような顔のケイタがこちらを見ている。
「杏菜さん、昨日も徹夜でした?」
後輩の小山くんが栄養ドリンクを差し出してくれる。
「ありがとう」
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、考え込んでただけ」
集中しなきゃ……。
『アイドルになってお金持ちになったら、杏ちゃんと結婚する』
デザインソフトの真っ白な画面に、ケイタと圭太が浮かんでは消える。
「まいったな……」
私は気分を変えるため、屋上へと向かい、煙草に火をつけた。
片手でスマートフォンの画面を開くと、ネットニュースのトップに目が留まる。
『dulcis〈ドゥルキス〉ドキュメンタリー動画配信!』
春のドームツアーの裏側だった。
画面の中では、ステージの華やかさとは裏腹に、汗に濡れたTシャツのまま、何度も同じ振りを繰り返すケイタが映っていた。
無言で、歯を食いしばる横顔。
「こんなに、頑張ってたんだ」
泣き虫だった圭太君の幼い頃の姿が、胸の奥でくすぶったまま消えない。
「……私も、中途半端な仕事はできないわね」
煙草の火を灰皿にもみ消す。
仕事に私情はいらない。
だけど、私が知っているケイタを表現したい。
大きく深呼吸をして、私はデスクに戻った。




