#7 ランドセルの行方
オレンジ色の記憶から、薄暗いVIPルームの光景へ引き戻された。
弾けるシャンパンの泡。革張りのソファの感触。
「ケイタが、あの、圭太君?」
信じられなくて、思わず目の前の顔に触れる。
指先に触れる肌は驚くほど滑らかで、けれど、その奥にある骨格は間違いなく大人の男性のものだ。
「うそだ」
「うそじゃない。よーく見てよ」
息がかかるほど近くなる顔。思わず体を引いてしまうが、腰に回された腕にすぐに引き戻される。
「圭太君は、もっと、ちっちゃくて、いつも鼻の頭を赤くして笑う、かわいい男の子だった……!」
「いつの話だよ、杏ちゃん」
呆れたように笑う顔。
「杏ちゃんだって、もう30歳だよね?」
「う!」
色素の薄い綺麗な肌、大きな茶色の瞳、フワフワの金髪。
あまりに整った顔立ちで――。
あの圭太君が成長したら、これほどまでの美形になっていても不思議じゃない。
「アイドルになってテレビに出たら、いつか杏ちゃんに見つけてもらえるって、信じてたのに。ボク、ずっと頑張ってきたんだよ」
私の目の前にいるのは、あの日の泣き虫な少年ではない。
何百万ものフォロワーを持つトップアイドル、dulcis〈ドゥルキス〉のケイタだ。
「最初から、そう言ってくれたらいいのに。私、さっきまで本気で……」
「だって全然気づいてくれないから。少しだけ、意地悪したくなったんだ」
困ったように眉を下げる仕草は、昔の面影を残している。
「再会するのに、17年もかかったよ……」
ケイタの静かな言葉に、脳裏に断片的な記憶が次々と蘇った。
パトカーの激しいサイレン。
アパートの薄暗い階段を駆け上がる、複数の足音。
そして、玄関に無造作に転がった、あのキャメルのランドセル。
「ボクが助けを呼んで家に戻ったとき、アイツは鼻血を垂らして失神してたよね」
もうダメだと思った、あの瞬間。
守りたかった。
震える小さな背中を、どうしても。
その一心で放った渾身の正拳突きが、相手の顔面に炸裂した。
今思えば、奇跡のような一撃だった。
「杏ちゃんは『圭太君、大丈夫?』って笑ってくれた。でも、それっきりだった」
その後、圭太君の母親の内縁の夫は、私への婦女暴行未遂、幼児虐待、その他いくつもの罪で刑務所へ送られた。
圭太君は、そのまま施設に入ることになった。
お別れも言えないまま、私は父の急な転勤でこの町を去った。
新しい環境、慣れない学校、そして高校受験。
忙しさに追われる日々の中で、圭太君のことは、少しずつ意識の底へと追いやられていった。
だけど、忘れたわけじゃない。
心のどこかで、ずっと棘のように刺さっていた。
今、どこでどうしているんだろう。
友達と笑っているだろうか。
見ることがかなわなかった、ランドセルを背負う姿を想った。
「会いたかった。ずっと、ずっと、杏ちゃんに会いたかった」
――ポタッ。
ケイタの目から溢れた涙が、私の頬に落ちて、熱く弾けた。
『杏ちゃん、ごめんね』
あの日、玄関に転がるランドセルを拾い上げて、肩を震わせて泣いていた、小さな男の子。
違うよ。
泣いてほしくなかった。
いつも笑っていて欲しかった。
「杏ちゃん、ボクね、あの日からずっと言いたかったことが、あるんだ」
ケイタは、壊れ物を扱うような手つきで私を抱きしめた。
その広い肩は、あの日と同じように、微かに、震えていた。
鼻をくすぐる甘い香水の匂い。
「ランドセル、ありがとう」
ぎゅっと力が入る。
「嬉しかったよ」
耳元で囁かれる声は、震えていて。
私は、ただ彼を抱きしめ返すことしかできなかった。




