#6 オレンジ色の空
「じゃあね。ばいばーい」
「また、あしたね」
公園から子供たちが出てくる。
自転車の小学生や、ママに手をひかれる幼児。
3月初旬の夕方17時。
少しずつ日が伸びてきて春を感じるけれど、この時間はまだまだ寒い。
空はオレンジ色に染まっている。
賑やかだった公園、ブランコにひとりの少年。
まだしっかりと足が届かないため、つま先が不安げにブラブラと空を切っている。
「圭太君、押してあげようか?」
隣のブランコに座り声をかけた。
「杏ちゃん」
幼い少年は顔を上げると、パッと明るい顔になった。
「やったぁ! おして」
「手を離しちゃダメだよ」
「わーーい」
高く上がるブランコ。
オレンジ色の西の空に、小さな背中が吸い込まれるように登っていく。
「一緒に帰ろうか?」
「うん!」
「圭太君は、もうすぐ小学生だね」
「……うん」
浮かない顔は、どうやらそこにあるらしい。
「ママがね、ランドセル買ってくれないんだ」
「え、そうなの?」
返す言葉に困る。
かといって、まだ中学生の自分には、経済的にも精神的にも、どうにもしてあげられない。
近所のアパートに住む圭太君のママは、どこからどう見ても夜の仕事。
時々、おばあちゃんが来て圭太君の面倒を見ているが、パパらしき人は見たことがない。
複雑な家庭環境なんて珍しくもないだろう。
でもそれは、目の前にそういった境遇の子供がいても、同じように言えるのだろうか。
「今日ね、保育園でならった歌があるんだ」
「歌ってよ、圭太君」
公園からの帰り道、川沿いにはたくさんの桜の木がある。
つぼみは固そうだけど、色づきはじめている。
「さーくらさいたら、いちねんせい」
かわいらしい歌声に、ハッとする。
1年生になるのは、なにも小学生だけじゃない。
我が家にもいるじゃない。この春に中学生になる弟が。
「圭太君、2週間待ってて」
「え?」
「杏介のお下がりでもいいなら、あげられるよ」
「おさがり?」
「えっと、誰か使ったものを譲ってもらうってこと」
「きょうすけ兄ちゃんのランドセル、くれるの?」
子犬のような黒くて大きな瞳をクリクリさせると、パッと明るい笑顔になる。
「うれしい!」
私よりずっと几帳面な弟だから、大した汚れや傷もないはず。
オレンジ色に近いキャメルのランドセル。
「杏ちゃんは、大きくなったら、なにになるの?」
保育園の卒園式で、1人ずつ将来の夢を発表する場があるらしい。
アイス屋さん、先生、警察官、YouTuberなどが人気らしい。
「お金もちって言ったら、先生がだめだってさ」
「ダメじゃないけど、どんなお金持ちになるかが大事かもね」
「たとえば?」
「え? しゃ、社長とか?」
私だって具体的には分からない。
「社長ってなにするひと?」
「うっ!」
6才児につっこまれて返せない。
もうすぐ受験生になるのに、志望校どころか、自分の将来が想像できない。
「じゃあ、アイドルは?」
「アイドル?」
「圭太君は、かわいい顔しているし、歌もうまいから」
「えーー。かっこいいって言われたいよ」
微かに残るオレンジと深いブルーが混ざり合う空。
ひときわ輝くひとつの星。
「ピカピカのいちばん星だ!」
「金星だね」
「アイドルになってお金持ちになったら、杏ちゃんとケッコンするんだ~~」
楽しそうな姿がかわいかった。
「私じゃだいぶ年上だよ」
「いまはね」
空を見上げたまま、圭太君がつぶやいた。
そして、ゆっくりと振り向いた。
「ボクが大人になるころには、年の差なんてカンケイなくなると思うよ」
そのときの圭太君の表情は、ひどく大人びていた。
――思い出した。
その顔に、一瞬ドキッとしてしまったことを。
インターホンを3回鳴らして、ようやく重い玄関のドアが開いた。
「だれ?」
初めて間近で見る圭太君のママは、思った以上に若かった。
派手な化粧と鼻を突く煙草の匂い。
「あの、私、向かいの家の加賀杏菜といいます」
「ああ! 杏ちゃんって、あなたのこと?」
どうやら、圭太君は私のことを母親に話していたらしい。
会話がないわけじゃないんだ。その事実に、なんだか少しだけ安堵した。
「あの、これ。もしよかったら、使ってください」
昨日、心を込めてピカピカに磨いたランドセルを差し出した。
「圭太に?」
「はい。弟が小学校を卒業したので……」
少しの間、沈黙が流れた。
余計なことをするなと、怒られるだろうか。
家族はランドセルを圭太君に譲ることを賛成してくれた。
保育士の母は、前から近所に住む圭太君を気にかけていた。
けれど、私たちの善意がそのまま受け入れてもらえるかは、正直分からなかった。
「……ありがとう」
彼女は両手でそれを受け取ると、少しだけ、寂しそうな笑顔を見せた。
「圭太君、いますか?」
「いるんだけど。今はちょっと……」
突然、彼女の表情が曇った。
その瞬間、部屋の奥から悲鳴が響いた。
「圭太君?」
「あ、ちょっと!」
考えるより先に身体が動いていた。
制止する声を振り切り、私は部屋に上がり込む。
「なんだ、お前は」
見るからに柄の悪そうな男が、床にうずくまる圭太君の前に立ちはだかっていた。
――なんだ、やっぱりそうだったんだ。
驚くよりも先に、激しい落胆がこみ上げた。
「杏ちゃん……」
圭太君の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
涙も出尽くしたのだろうか。
いたたまれなくなって彼に手を伸ばした、その時。
「キャッ!」
ポニーテールにまとめていた髪を掴まれ、思い切り後ろへ引き倒された。
「杏ちゃん!」
「たーくん、やめなよ!」
親子が叫ぶ。
身の危険を察するのが、あまりに遅すぎた。
乾いた音が響いた。
自分の頬を叩かれた音だと気づくまでに、時間がかかった気がする。
実際はほんの数秒のことだったのだろう。
「ねえ、やめてよ! 未成年だよ! すぐに帰すから!」
圭太君のママが男にしがみついている。
私を助けようとしているのは分かった。
脳震盪を起こしているのか、視界がチカチカと火花を散らす。
その中で辛うじて捉えたのは、震える少年の姿だった。
「け、圭太君……走って。私の家へ。お母さんに……知らせて」
「杏ちゃん……」
泣いてるね。
ごめんね。本当は、もしかしたらってずっと気づいていたのに。
私、知らないふりをしていた。
「なんだ、余計なことすんじゃねえよ」
鬼がこちらへ歩み寄ってくる。
殺されるかもしれない。それ以上の恐怖が、肌を粟立たせる。
けれど、ただでやられるのは御免だ。
「走れ、圭太!」
陸上部の大会、先輩たちを応援した時のことを思い出す。
腹の底から声を絞り出したのは、去年の夏以来だ。
裸足で玄関を飛び出していく、小さな背中が見えた。
圭太君、私、ちゃんと知ってるよ。
保育園の運動会。
保護者じゃないから中には入れなかったけれど、柵の外からずっと見てたんだから。
かけっこ、すごく早かったの、知ってるから。
一等賞だったよね。
「このガキッ!」
胸ぐらを掴まれ、身体が浮いた。
爪先で必死に床を掻く。
そして、男の右手がゆっくりと振り上げられた。
スローモーションのように、残酷な軌跡を描いて。




