5 また一歩、次の一歩
今話はいつもより長めです。時間のない方はまた別の機会に
時間に追われずにゆっくりとどうぞ。
でも、よろしければ今、読んでいただきのです。
では、どうぞ。
5 また一歩、次の一歩
昼休みには、他のクラスからの人が押し寄せてきて、富士雄を質問攻めにした。
そのなかには上級生も交じっていた。
みなが矢継ぎ早に質問を投げかけてくるものだから、富士雄は余計に戸惑った。
考えたりどもったりしながらでも答えると、二重、三重に輪を作ったみなの目は輝いた。
放課後になり、緊張が治まらない富士雄は、途中トイレに寄ってから、生徒会室に向かった。
生徒会室のある廊下には、事の顛末を見ようとする野次馬が集まっていた。
富士雄は一度足を止めてから、えいやっと踏み出した。
誰も何も言わなかったが、言わずとも何を思っているのかを察することができる、そんな目をしていた。
ノックをするとき、富士雄は少し尻ごみをした。
だから深呼吸をひとつした。
それから意を決してノックをしたのだが、返事はなかった。
「すみません」
と呼んでみたのだが、やはり返事はない。
もう一度言った。
同じだ。
いないのか、と踵を返したとき、返事が返ってきた。
中からではなく、廊下からだ。
「早かったね。待たせて悪かった。来てくれたということは、オーケーという返事だと受け止めてもいいと、そういうことだね」
「はい」
富士雄は認めた。
「興味があるのはわかるが、野次馬は褒められたことじゃない。そのうち明るみになるだろうから、みんな遠慮してくれないかい?」
観音にやんわりとたしなめられた野次馬たちがいなくなってから、ふたりは生徒会室に入った。
生徒会室には瀟洒な机が四つと、二人掛けのソファがふたつ、ソファの間にテーブルがひとつあり、壁際に備えられた棚には資料らしきファイルや何かの本などが収められていた。
勧められたソファに富士雄が腰を下ろすと、観音が話し始めた。
「今、書記を務めている生徒はね、大学の合格判定が、Bになってしまったんだ。彼女はそれをとても気にしていてね、生徒会の仕事を軽んじるつもりはないが、勉強の時間を長くとりたいと申し出てきて、熊谷君には彼女のサポートとして書記の補佐をしてほしいと思っているんだ」
「そうなんですか」
なるほど、と富士雄は思った。
そういう事情があったのか。
「生徒会を優先させた結果、大学に落ちるなんてことにはさせられないからね」
「そうですね」
「だからとりあえずは六月まで、ということになるが、私は熊谷君にはその後も生徒会に残ってほしいと思っている」
「え⁉ それはつまりは」
「そう。五月の生徒会選挙に立候補してほしい」
「ええ!」
「書記の生徒は、立候補するつもりはないらしい。だからひとつ、席が空く。その席を、君に、埋めてほしい」
「僕がですか⁉」
観音はにっこりと肯いた。
そしてティーポットとティーカップをふたつ、トレイに乗せて運んできた。
紅茶を用意していたのだ。
観音は何も講釈は言わなかったが、高級な茶葉であることは理解できた。
ティーポットからカップに注ぐ様は優雅だった。
そこで富士雄は初めて、まじまじと観音の顔を見た。
たしかに、男から見ても格好のいい、整った顔をしている、と思った。
ティーカップが手前に置かれるときにカチャリと音がして、それで我に返った。
「コーヒーのほうが良かったかい?」
「いえ、この紅茶はきっと、僕が今まで飲んできたどの紅茶よりも高い品質のものだと思うので、味わって飲みます」
観音は微笑んで肯いた。
そして自身も紅茶に口をつけた。
「でも」
と富士雄は言った。
「僕が立候補しても、票、入りますか?」
「それは君次第さ。だから君には今度の中間テストで学年一位をとってもらう」
「一位ですか!」
「いや、それはちょっとした冗談だ。驚かせて済まない。でも十位以内、できれば五位以内に入ってほしい。それに、聞いたところだが、それも君には不可能ではないらしいじゃないか。入学試験での君の成績だったなら」
「いや、入試の成績は、わからないです」
「うん。それもそうだ。私がある筋から聞いた話だと、次席だったらしいよ」
「そうなんですか」
「そこで勉強に力を入れて、一位を奪えば、君の評価は高くなる。当然、票も集まる。生徒会で補佐をしながら、テストで好成績を修めれば、誰からも文句を言われることなく、君は生徒会の一員になれる。悪い話ではないと思わないかい?」
「僕が、生徒会に」
「そう。君が、生徒会に」
「僕……、僕は、務まるかどうかはわかりませんけど、なりたいです。頑張ります」
「うん。引き受けてもらえて、うれしい」
そう言うと、観音はスマートフォンを取り出した。
「もし君が引き受けてくれたのなら、連絡してほしいと言われていてね」
「誰にですか?」
「君も知っている人物からだ」
と観音は意味ありげに笑った。
送られたラインの返事はすぐに来た。
こくりと肯いて、観音は尋ねた。
「これから何か、用事はあるかい?」
「いいえ。部活もしてはいませんし、帰って勉強するくらいです」
「じゃあ、いまからちょっと時間をもらえるかな?」
「はい。いいですよ」
と深く考えもせずに、富士雄は承知した。
紅茶の残りを飲むと(富士雄はおかわりもしていたのだ)廊下に出てティーカップを軽くすすぎ、観音とふたりで片づけた。
そうしてから観音家が所有する高級車に乗って、移動した。
観音の行くところには人、特に女性が多く集まり、注目を浴びることになることが多々あるのだが、富士雄が観音とともに車に乗りこむときには、みなの頭の上にクエスチョン・マークが浮かび上がるのが見えた。
初めて乗る高級車の乗り心地は、まずシートから違っていた。
車内の香りも、気品を感じられた。
富士雄は
「これが高級車の匂いか。何だか匂いも高級だ」
と二度、三度と深く吸いこんだ。
観音は移動時間を使って、簡単に説明した。
これからすることは、秋桜学園でもごく一部にしか知られていない、生徒会のメンバーにも秘密にするくらいの、大袈裟ではなく儀式のようなものであることを。
説明は簡単であったのだが、内容は重く、儀式のようなもの、というどこか秘密結社めいた言葉に、富士雄は唾を飲んだ。
目的地にはすぐに着いた。
タワーマンションだった。
地下駐車場に駐車して、下車した観音に富士雄はついていった。
エレベーターの前に、誰か女性が立っているのが見えた。
誰だろうか?
富士雄が観察していると、近づくにつれて生徒会副会長の望月であることがわかった。
「やあ、望月君。待ったかい?」
「いいえ。待ったうちには入らないわ」
富士雄はそんなやり取りを耳にしながら、望月を見た。
顔、髪、背丈、胸、腰、スカートから伸びる足。
たしかにみなが騒ぐのも納得がいく。
綺麗だ。
そう見惚れた。
でも視線はすぐに外した。
噂では望月は観音と付き合っているのだ。
彼氏の前で彼女である女性をじろじろと見ていたら、怒りだされる場合だって、ある。
観音が詰め寄ってくるとは思えはしないが、だからとてじろじろと見ることが礼儀正しいことだとは、少なくとも富士雄は、思わない。
ドアが開き、三人はエレベーターに乗りこんだ。
エレベーターが上昇し階が上がるごとに、富士雄の緊張感は高まった。
儀式のようなもの、という言葉が効いているのだ。
目的の階に着き、歩を進めるたびに、静かな廊下に靴音が響く。
堪らずに富士雄は訊いた。
「儀式って、いったいどんなことをするんですか?」
「観音君、そんな言い方をしたの?」
と望月が笑った。
「だってそうだろ? 簡単さ。左膝をつき、顔を伏せ、右手を胸の前に持っていく。そうしていればいい。後は質問をされたら、答えればいいんだ」
「左膝をついて、顔を伏せて、右手は胸の前、質問に答える」
富士雄は確認するために呟いた。
「大丈夫よ。あんまり固く考えないで。そんなに難しいことじゃないから」
望月が自分に向けて放った笑顔が、富士雄にはとても眩しかった。
観音と望月の足が止まった。
観音が鍵を開け、ドアを引いた。
殺風景だという印象を持ったが、富士雄は口にはしなかった。
観音と望月に倣って、先ほど教わった姿勢をとる。
何秒間かそうしていると、部屋の別室から誰かがやってきた。
横目で二人を確認すると、姿勢を崩さぬままだったので、慌ててまた倣った。
その誰かは音もなく椅子に座る。
そうして数秒後、口を開く。
「報告はあるか?」
「はい」
と観音は答える。
「では、始めよ」
「秋桜学園、一年、熊谷富士雄を、生徒会の補佐に任命しましたことを、ここに報告いたします」
富士雄は、あれ? と思った。
儀式のようなものは続く。
「熊谷君、君はこれから生徒会補佐として、その力を尽くすと、言えるかね?」
「はい」
唐突な質問に多少慌てはしたものの、ミスはしてはいないだろうと、富士雄は思った。
そしてやはり、疑問に思った。
その疑問が解消される前に、儀式のようなものは、終わった。
「これにて、秋桜学園の総代の名において、報告の儀を終了とする」
あっけなく終わった。
富士雄は『儀式のようなもの』という言葉から連想される重々しさが覆されて、それはいいことではあったのだけど、肩透かしを食らったような気持ちになった。
まだ『儀式のようなもの』のシステムがわからないので、富士雄が姿勢を保っていると、目の端で観音と望月が動いたのが見えた。
顔を向けると、ふたりは立っていた。
だから富士雄も立ち上がった。
そして驚いた。
別室からやってきた誰かを見たからだ。
「はっちゃん⁉」
思わず大声が出た。
「はっちゃん⁉」
それを聞いた観音と望月も、富士雄とは違う意味で驚いた。
「久しぶり。熊谷富士雄君」
はっちゃんはにっこりと笑った。
「神宮さん、熊谷君にはっちゃんって呼ばれているのですか?」
と観音は訊いた。
「そう。いいあだ名でしょう」
「熊谷君、どういう経緯で、はっちゃんと?」
と望月が訊いた。
富士雄の説明で、二人は納得した。
「熊谷君、この方は神宮八城さまと言って、秋桜学園の重鎮で、一番といってもいいくらいに偉い人なんだぞ」
と観音はやんわりと注意した。
したのだが、
「じんぐうと書いて、かみのみやと読むんだ。変わった苗字でしょう」
と言ったはっちゃんの表情を見て、それが出過ぎた真似であったと悟った。
観音がミスをするのは、とても珍しいことだった。
「僕の人生では、初めて聞いた読み方です」
と富士雄は観音のミスには気づかずに、はっちゃんに答えた。
はっちゃんは言った。
「そうそう。約束していたね。今度会うまでにいいあだ名を考えておくと。で、考えたんだが、五つ候補があるうちの『クウちゃん』と『クマ』と『フジ』と『フージー』と『クマゴロー』のどれがいいか、未だに定まらなくてね。次に会ったときに訊いてみようと、それで一番いいと思うものを選んでもらおうと思っていたんだ。どれがいい? どれも嫌ってことも、あるのかな?」
「正直に言って、クウちゃんとフージーはあんまり好みではないですね」
「クマゴローはそんなに嫌ではないのかい?」
と観音が笑い交じりに言った。
「じゃあ、クマゴローにする? 何だかかわいいあだ名ね」
と望月は笑った。
「よし、決めた。クマゴローだ」
とはっちゃんはパチンと手を叩いた。
ははははは、ふふふふふ、わははははという笑い声を聞いて、富士雄も笑った。
富士雄は泣きそうになった。
それを笑いすぎたせいだと言うように、腹を抱えた。
朝、駅前で、富士雄はまたいつものように走る準備をしていた。
靴紐を結び直して、さあ、と顔をあげたときだった。
「ねえ、あなた、熊谷君よね? 一緒にバスに乗りましょうよ」
と先輩の女子が、そして先輩の男子が
「うん。観音さんが認めた君の話を、ぜひ聞きかせてほしいんだ」
と笑いかけてきた。
周囲を見ると、富士雄をくさいといじめていたクラスメートがいた。
目を逸らして、極まりの悪そうな顔をしていた。睨んでも嘲笑してもいなかったのだ。
男子は戸惑っている富士雄の腕を強く引いてバス待ちの列に並ばせた。
すると、前からも横からも後ろからも質問が飛んできた。
今までのような「嗤い」ではない笑顔が、そこにはあった。
気がつくと富士雄自身も、笑っていた。




