4 光の射す方へ
4 光の射す方へ
G・W前の最後の登校日も、富士雄は走っていた。
バスに乗れないのは相変わらずだった。
あれから大荷物を抱えたお婆さんには会ってはいないし、はっちゃんと名乗るちょっと不思議なお爺さんとも会ってはいない。
一日に一回はくさいと言われ、嗤われる。
そんな風だから友達もできない。
友達なんて、いたためしがない。
秋桜学園は名門だから、そこに集う生徒も当然、名門にふさわしい人物ばかりだと、期待していた。
富士雄の思いは打ち砕かれた。
どこにだっていじめる奴はいて、いじめられる奴がいる。
彼の顔は暗い。
明るくいられるはずがない。
ここまで来ればと、足を止めて歩き出す。
はっちゃんと出会った丁字路が見えてきたがはっちゃんはおらず、それをほっとするのとがっかりするのとが半々になった胸の内を、富士雄はまだ把握できないでいた。
ただ何となく、あ、とそう思っただけだった。
好意を持った相手なのに、なぜ半分だけとはいえほっとしたのか。
それは、また自分がバスに乗れないことに関する話題になったら……、という不安からだ。
好意を持った人には、たとえ学校とは何ら関係のないお爺さんだったとしても、恥部を知られたくはない。
富士雄はまだ高校一年生になったばかりなのだ。
決して軽くはない足を進め、校門をくぐった。
教室に行けば、また言われるのだ。
くさい、と。
言葉の刃は心を深くえぐる。
嘲笑も蔑む目も、心を潰そうとする。
それでも富士雄はまた教室へと行く。
下を向きたくなる目を上にあげて。
どうしても下がってしまっても、上を見ようと努力して。
一歩、一歩、踏み出す。
努力がすべて報われるわけではない。
努力をしても叶わぬ思い、届かぬ思いというものも、ある。絶対に。
しかし、努力をしなければ叶う思いも叶わない。
届く思いも、届かないままなのだ。
教室のドアを、富士雄は開ける。
笑い声が一瞬止まって、別の嗤い声が響く。
声に出していなかったとしても、目が嗤っている。
あの日は今日ではないのか……。
それでも椅子を引き、腰かける。
また今日も奴が近づいてくる。
そして言うだろう。
「あれ、なんかくさくねえ?」
ほら、言った。
富士雄にとっては、もはや可笑しくもある。
勿論、奴らとは違う意味で、だ。
声をあげて嗤う者。
いじめられる者を軽蔑する者、我関せずを決めこむ者。
そして富士雄。
教室には四通りしかいない。
そこに五通り目が、現れた。
唐突なドアの音に、みんなが注目した。
男子生徒は驚いて口を半開きにし、女子生徒は色めき立った。
観音がいたのだ。
観音の口元には笑みがあった。
だから、くさいと言ったいじめの加害者も、笑った。
観音はゆっくりと歩きだした。
まるでラン・ウェイを歩くモデルのように。
そして富士雄の肩に手を置いた。
手を置いて、言った。
「くさいか?」
「え⁉」
「くさいかと、訊いている」
「え、ああ。いやあ……」
いつも富士雄をいじめていた男子は、しどろもどろになった。
そんな男子に観音は微笑みを浮かべたままでいた。
教室内はしんと静まり返っていた。
富士雄は何が起きているのか理解が追いつかないといった表情で、観音を見、いじめた男子を見、また観音を見た。
観音は今度は富士雄を見た。
物事の深淵を見透かしているような、それでいてとても優しい目で。
絹に触れるように、そっと。
そうして観音は富士雄に話しかけた。
「こうしてそばにいても、私は君をくさいとは思わない」
そしていじめていた男子を見た。
「君にはくさいのかい?」
「……い、いやあ」
「つまりくさいとは思わないと、そう言うんだね?」
「……ええ。はい」
「それなのになぜ、くさい、くさいと嗤ったんだい?」
富士雄をいじめていた男子は、下を向いて答えられなかった。
観音は富士雄に鼻を近づけ、くんくんとにおいをかいだ。
においをかいで
「ほら、やっぱりくさいことなんて何もない」
そう教室中に宣言するように言った。
蔑む目をしていた連中も、目を泳がせていた。
「ねえ、そこの君」
と観音はひとりの女子を指差し、尋ねた。
「君は彼をくさいと思ったかい?」
その女子は、富士雄が『くさい』と言われるたびに嗤っていた女子だった。
観音に問われてやや頬を赤らめ、うそのような本当を言った。
「思ってないです」
そう、富士雄が馬鹿にされる様を見てそのたびに嗤っていただけで、くさいと思ったことは一度もないのだ。
「じゃあなぜ嗤ったんだい?」
今度は顔を青くして反射的に俯いた。
もごもごとするだけで何も答えられなかった。
「熊谷君」
そう言って観音は富士雄と目を合わせた。
何も言わないので自分の返事を待っているのだと気づき、富士雄は慌てた。
「はい。何ですか?」
「くさいと言われて、嗤われて、蔑んだ目で見られて、だれも助けてはくれなくて、それでも君はこの教室のこの席に座った。座り続けた。それは並大抵の覚悟でできるものじゃない。私は君を、勇気ある者として賞賛する。どうだろう? 私たちのアシスタントとして、生徒会の仲間にならないかい?」
「え⁉」
「私は本気だよ」
「……でも、僕なんかが……」
「自分を蔑んだらいけない。君が君だからこそ、私は誘っているんだ」
そう観音は強く言った。
「勿論、すぐに答えろとは言わないよ。よく考えて、答えがでたら生徒会室へ、来てほしいのだが、どうだろう」
「はい。よく考えます」
学園で一番の人望と知性を持った観音に褒められた富士雄は、観音の発言の意味するところを、正直なところわかっていなかった。
舞い上がってもいたし、夢のような展開を信じられずにもいたからだ。
その場にいた者のなかにも、すぐに意味を理解した者は少なかった。
しかし、時が経ってその言葉を咀嚼できたときに、観音の言葉を聞いた者なら、みな体を震わせることだろう。
コメディ漫画であるならば、眼球が飛び出ていてもおかしくはない。
生徒会の仲間になる。
富士雄が、だ。
生徒会の仲間になる。
生徒会の仲間になるのだ。
観音がわざわざこの教室に足を運んで、富士雄をスカウトしたのだ。
にわかには信じられないが、この状況を鑑みたときに、知性さえあれば嘘だとは言わない。
言えない。
それほどの驚きを持った、これはもう一大事件なのだった。
すぐにこの出来事は、学園を揺るがすニュースとして人から人に、口から口に伝わっていく。
そして富士雄は、一躍時の人となるのだ。
「用も済んだし、私は退室する。君、君はまだ熊谷君をくさいと言うのかい?」
「いいえ、言わないです」
先ほどまでの態度からは想像のできないか細い声で、いじめていた男子は答えた。
「いい返事を期待しているよ」
そう言って、観音は去っていった。
微笑みの余韻が強く残った。
廊下にも集まっていた人たちが、声にならない声をあげていた。
そうして、驚きと羨望の入り混じった大量の目が、富士雄に注がれていた。
富士雄は何となくいたたまれなくなって、教室を出た。
そこに行こうという意思は全くなかったのだが、足は自然と屋上に向いていた。
この学園では、屋上は自由に使うことができるのだ。
富士雄は全力疾走していた。
ドアを開けて屋上に出ると、温かな日差しと抜けるような青空があった。
富士雄の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。




