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第一話 後半 「新当主の帰宅」 【翔密 視点】

帝宮からの帰り路。


牛車(ぎっしゃ)の車輪が凍てつく京の小路に軋む音だけが、やけに鼓膜に響いた。


膝の上に置いた両手は、まだ微かに強張っている。


数百の飢えた視線の中で「当主」を拝命した時の感覚が、呪縛のように皮膚の裏に張り付いていた。


 (……越えたのだわ)


私は今日、母に守られる娘であることを辞めた。


これからは私が赤鳳の長として南方の山々を血で守護し、そして何より、あの子の

「絶対の盾」とならねばならない。


牛車が私邸の門を潜ると、聞き慣れた賑やかな声が冷たい風に乗って届いた。


「母様! お帰りなさいませ!」


車を降りた私を待っていたのは、三人の娘たちだった。


七歳の長女・翔姜しょうきょう、六歳の次女・翔松しょうまつ、そして私の裾に縋り付く四歳の三女・翔栗しょうりつ


赤鳳の濃い血を引く彼女たちは、幼いながらも武門の娘としての教育を受け始めている。


その無邪気な瞳には、今日から「当主」となった母への、眩しそうな憧憬が混じっていた。


「……ただいま。皆、お利口にしていたかしら」


私は張り詰めていた表情を一度だけ解き、母の微笑みを浮かべた。


けれど、視線はどうしても彼女たちの背後――奥の対屋たいのやへと向かってしまう。


「吉祥丸は?」


「はい。明日の準備を終えられ、今は……」


侍女の答えが終わるより早く、小さな人影が渡り廊下の向こうから姿を現した。


明日、五歳になる息子。


深い紺地に、赤鳳家の象徴である鳳凰が深紅の糸で刺繍された柔らかな衣を纏い、教えられた通りの静かな足取りでこちらへ歩んでくる。そ


の姿は、三人の活発な姉たちに囲まれていても、どこか別の清らかな空気を纏っているようだった。


「母様。大役、お疲れ様でございました」


吉祥丸が、小さな手をついて深く一礼した。


その所作には、五歳児とは思えぬほどの淀みがない。


本来なら私の胸に飛び込んできてもおかしくない齢だというのに、彼はすでに、自分が何者であるかを、そして今日という日が家族にとって何を意味するかを察しているようだった。


「近う寄りなさい、吉祥丸」


私が手招きすると、彼は顔を上げ、ほんの少しだけ子供らしい安堵を見せてすり寄ってきた。


その小さな手を握る。温かくて、ひどく柔らかい。


明日には、この手を離さねばならない。彼は私のものではなくなり、帝宮の奥深く、福宝宮に住まう「国の宝」となるのだ。


「吉祥丸。……明日から、寂しくなるわね」


押し殺したはずの母の情が、声の端から微かに零れ落ちた。


私の言葉に、三人の娘たちも一瞬、寂しげに表情を曇らせた。


この呪われた国において、弟という存在は、姉たちにとっても「命に代えても守り抜くべき尊きもの」だ。


姉弟として無邪気に笑い合える日々が今日で終わることを、彼女たちも本能で悟っている。


すると、吉祥丸は私の手を、きゅっと握り返した。


「母様。僕は、寂しくありません」


真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳だった。


「母様のように、僕も、僕も頑張るだけです」


その澄んだ声に触れた瞬間、私は息を呑んだ。


彼は気づいているのだ。自分がこれから「型」の中に生き、数多の女たちの理想を背負う偶像いけにえになることを。


そして、それが母である私を、ひいてはこの豊倭国を安泰にさせる唯一の道であることを。


(ああ……この子は、もう『癒やす側』の人間になろうとしているのね)


「……そうね。貴方は、強い子だわ」


私はこみ上げる熱いものを必死に奥歯で噛み殺し、彼を抱きしめた。


最初で最後。


これから彼が「天つ御子」として崇められる前に、ただ一人の息子として抱きしめられる、最後の夜。


娘たちも、無言でそっと寄り添ってくる。


外は、いつの間にか冷たい雪が舞い始めていた。


赤鳳の血という高い壁に守られた、このささやかな温もり。


明日、私は自らの手でこの壁の一部を壊し、この宝物を外へと差し出さねばならない。


あの子がいつか、万人の心を救う「真の器」へと育つために。


私はこの夜の温もりを生涯の業火とし、彼を守り抜く冷徹な当主であり続けようと、静かに心に誓った。

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