雨は降らず、彼は濡れず
暗い室内の一角を淡く照らすディスプレイから男が目を離したのは、不意に雨音が聞こえてきたからだ。顔を向けた先にあるブラウンのカーテンをずらせば、彼は一層暗さの増した夜空から降り注ぐ雨を見ることができたかもしれない。
どうあれ男は外の様子を確かめようとはしなかった。ベランダの物干し竿に掛けられている洗濯物は風が吹き始めたことに警告を発するようにはためき始めていたが、そのことに気付いているのかどうか、ヘッドホンを付けるとディスプレイへと向き直ってSNSの投稿を見つめ始めたのだ。
室内にまで聞こえ始めた雨音を邪魔するように、かちりとマウスの無機質なクリック音が響き渡る。男の趣味はSNSの鑑賞だった。ジャンルを問う事もなければ話題になっているかどうかも関係なく、ただ他人が何かを吐露し、どう反応されているのかを見つめ続ける。彼自身のSNSアカウントは試しに投稿した一言以外に何もなく、誰かに返信したことも、誰かの投稿に肯定のボタンをクリックしたことすらない。
ただ顔も見たことのない誰かの投稿を遠いところから、他人事でなんとなく眺めることが好きだった。
それでもその日、愚にも付かない投稿がふと印象に残ったのは雨が降っていたからなのかもしれない。
「……はっ」
男は嘲笑うように小さく鼻を鳴らすと、細まった双眸で今一度その投稿を真っすぐに見つめる。自分の思想や嗜好とは合わない投稿なら、ただ頭の中から追い出すだけの彼にしては珍しく感情的な仕草だった。
"夢のように曖昧なんだけど、もう会えないはずの誰かとここで会って、謝らないといけない人にごめんって言えたような気がする。"
真実味を持たせるためなのか、涙ぐましくもいくつかの画像が添付されているその投稿を真に受ける者は居ないだろう。そのはずなのに、その投稿には肯定的な反応が幾つかつけられていた。
一つついているだけでもおかしいのに……。男がそんな気持ちを露わにするように訝しがりながら添付されている画像をクリックすると、なるほど思ったよりは雰囲気があった。
山の麓にある集落の一部を写したらしきその画像でなによりも目を引くのは、中心に聳え立つ黒く変色した木造住宅だろう。軽い手振れと小雨によって全体的に鮮明でない画像と言うこともあってか、その陰鬱とした印象が一層強くなっている。もっとも廃屋というわけではないようで、家全体が変色しているものの窓や障子は閉じられていて、縁側には住人らしき老人が一人こちらを見つめるように真っすぐ腰かけていた。
他の画像を見渡してみると、生い茂った木々の濃い緑色に混じって変色した住宅が一つだけでないことも分かる。こういった田舎の風景画像にありがちな田んぼや畦道はないのに、水路の引かれていない妙に大きなため池があることが気に掛ったが、その理由を画像から推し量ることは出来ないだろう。
認めたくはないだろうが、じっとりとした陰鬱さを持った画像に男は少し面をくらってしまっていた。奇妙な投稿を嗤うつもりだったのに、何だか少し悔しい気持ちになってその画像について調べてみることにする。
どこからか持って来たものかもしれないし、AIなんかで出力したものかもしれない。
だが検索結果は秘密を暴いてやろうとした男の願望を拒むものだった。少ないながらも同じような風景の写真が幾つか検索に引っ掛かり、その中には先ほどの投稿と同じようにSNSに添付されているものもあった。
いや、じっとりとした陰鬱さのある画像だけではない。投稿内容もよく似ている。
"誰か知っている人の声が聞こえて、振り向いたら彼女が居た気がしたんだ。もう会うことが出来ないはずの、彼女が。"
"あの人に、何かを言わなければならなかったことだけは覚えている。私はその言葉を彼に伝えることはできたんだろうか?ただ、足取りだけが重い。"
そんな内容の投稿と画像が、偶然とは思えないほど幾つか。どのどれにも、肯定的な反応が幾つか数字として露わになっている。
――雨が降っている。ヘッドホンを強く抑えつけないと、その隙間から耳に、胃に、全身に雨音が染み込んでくるような気がする。
男は頭を振ったが、このままでは髪の毛さえも濡れていく気がして重い溜息をついた。
雨が嫌いだった。ざあざあと、しとしとと、そんな音と共に体に粘りつく湿度が逃れられないことを悟らせるように不意に思い出させてくる。
暇が出来ると画像のような、少し薄暗い静けさを持った場所によく足を運んでいた彼女を。
"夫婦生活は読み飽きた小説に共に栞を挟んでいくようなものだと思うの。だから一緒に見飽きたページを何度も捲って、しっかり栞を挟みましょう?"
愛した女性であり、共に過ごした妻であり、もう会うことの叶わない離婚相手。
栞は、水溜りの中に落ちて取り返しのつかないほどに濡れてしまった。
久々に送られてきた妻からのメッセージは短く、しかし切実なものだった。男はブラウンのカーテンを開けて窓の外に目をやると雨の勢いを確かめるように手を伸ばし、少しして二本の傘を手に玄関を開いた。
目的の駅まではわずか十数分。けれど強まる雨音が短い時間さえも鬱陶しく感じさせてくる。勢いよく走る車の飛ばす飛沫を避け、水溜りを一息に飛び越えて、転んでびしょ濡れになって後悔しながらもまた挑む。そんなふうに泥塗れになれたのは小さい頃だけだった。
子供が居れば、一緒に水溜りを飛び越えることもあるのかもしれない。だが男と妻の間に子供は出来ず、彼は一人きりで深くなった街の影を歩いていた。
妻との会話は、お互いに皺が増える程に少なくなっていた。それが当然なのかも知れないが、沈黙は妻の年収が自分より多くなるほど重みを増していくように感じていた。
働く時間は妻の方が長い。それでも食事を用意してくれる彼女に感謝しつつ、出来ることはその背中を見つめることだけだ。あなたが何かをすれば苦労が増えるだけ、と言われているような拒絶を日々長くなる沈黙から男は感じていた。
傘を持って駅まで迎えに来て欲しい、ただそれだけのメッセージなのに久しぶりに頼られたようで――男は駅に佇む妻を見つけてほっと安堵の息を吐く。
「悪い、遅くなった」
男がそう言って謝ると、妻は穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「ううん、ありがとう。迎えに来てくれて、嬉しいわ」
喜ぶ妻を見たのはどれくらい前の事だっただろう。男はそう思いながら傘を、自分が差しているそれとは別の傘を妻に差し出した。もしかすると自分がそう感じていただけで、こうやって妻の力になろうと努力すればその笑顔はいつでも見られたものなのかもしれない。
「あっ……!」
男がそう思っていると、不意に妻が驚くような声を上げた。
傘には穴が開いていた。ほんの数センチの小さな穴だったが、そこから落ちて行った雨粒が妻の額で跳ねるのを見た男はもう、彼女に向き合うことが出来なくなってしまっていた。
「ご、ごめん!ちゃんと確認してなかった……濡れるといけないし、もうタクシーで帰らないか?」
男がそう提案すると、妻は傘の穴から落ちて来る雨を気にする素振りは見せず、ただ彼を少し見つめた後で小さく返した。
「……そう。あなたはそれでいいのね?」
そうやって、ほんの一滴の雫が落ちただけで、それまで辛うじて輪郭を保っていた大切な何かはあっけなく溶けていってしまった。男から答えが返ってこないことを悟った妻は、傘を閉じて雨夜に身を晒しながら歩き去ってしまったのだ。
男は傘を差したまま、大雨と混ざり合うまでに遠くへ行った妻の背中を見つめることしか出来なかった。
あの時、どうすればよかったのか。ちゃんと傘をチェックすれば良かったのか、それとも一人でタクシーで帰るように返信すれば良かったのか――かつて妻だった女性が不慮の事故で亡くなった今となってはもう答えは出せない。
雨音は一層強まっていた。もうそれが自分の記憶の中の物なのか、それとも外から沁み込んできたものなのか男には分からなかった。
ただ何か、どうしようもなくなってしまった何かを取りもどさなければ、この雨音がどこまでも自分を追ってくるような気がして、焦燥が息を詰まらせる。
暗い部屋に放置されたゴミ袋の数々。うだつが上がらずに上司の怒声を聞く毎日。このままで良いのだろうか?何かをやろうと体を起こすたびにあの時のことがフラッシュバックし、息が詰まるような無力感に苛まれては力が抜けていく。
あの雨の日に失った何かが決定的な破滅をもたらすまで、こうやってゆっくりと腐っていって良いんだろうか?
愚にも付かない、と思いながらも男はディスプレイに表示されている画像を食い入るように見つめ続ける。強まる雨音から意識を逸らすように。
似たような投稿に、同じような場所の画像。会えない誰かに、会えるかもしれない場所。
もし画像の一つからその集落の名前が刻まれた木製の看板を見つけなければ、彼は諦めていたかもしれない。
「……雨座村……」
けれどこの日、ついに雨音は止まなかった。
薄霧の中で目的の腐食した看板を目にした男は、両肩を一度弾ませて背負った大きなリュックサックを整えた。
湿り気を帯びた土と枯れ果てる前の僅かな生気を持った木の皮が混ざり合った、少し鼻につく独特の匂いがする。雨座村を目指して歩き始めてからその匂いは強くなっていき、今や男を嫌がるかのように濃くなっている。
雨座村の情報は簡単に見つけられた。ネットの黎明期に作られたのか文字と絵文字ばかりで構成されたホームページすらあって、残念ながら更新は止まっているものの、載せられている地図は簡単に男をこの場所まで辿り着かせた。
いっそこの匂いのこともホームページに書いてくれていたら、と思いながら男が看板を通りすぎると、少し先の霧の中で小さな影がもぞりと蠢く。まさか本当に会えないはずの何かが居るのか、と思う間もなくそれは間延びした声を上げた。
「おんやまぁ」
男が不可思議な何かかと思わされたのは一瞬のことで、その正体が腰の曲がった老婆だったことがすぐに分かった。しわくちゃの顔でも老婆が温和な表情を浮かべていることは見て取れたが、彼女は不思議なことに男を見た後でしばらく天を仰ぎ見ていた。
釣られるように男も空を見てみたが、特におかしな何かはない。週間予報ではしばらく快晴で、天気を気にする必要もない。ただ老婆はじっと空を眺め続けている。
「あの……?」
気まずさを打ち破るように声を掛けると、老婆は顔を降ろして柔和な声で男に話しかけた。
「すまんねぇ。ちぃとばかりお天道様が気になって。折角こんな辺鄙な場所にお客人が来てくれているのに、変なところ見せてしもうたねぇ」
「あ、いえ。気にしないで下さい。ちょっと興味本位で立ち寄らせて貰っているだけですので」
「あははは、実はそういったお客人が多いんだぁ。そんなに珍しいもんかい?どこにでもあんのになぁ」
老婆の厚ぼったい瞼は男の方を向いて二、三度瞬いたが、会話はどこか噛み合っていなかった。
きっと耳が遠いのだろう。そう考えた男がどう尋ねるべきか迷っていると、老婆は手招きしながら続ける。
「でも今日いらしたお客人は重そうな荷物を持っているねぇ。どれ、荷物を置ける場所まで案内すっから、幾らでも雨宿りしていきなされ」
「え……はぁ……?雨宿りですか?」
辺りは薄霧に包まれているが、青空に雨雲どころか雲すら少ない。おてんとさんが気になると老婆は言ったが、年の功で雨が降る予兆でも感じ取れるのだろうか?
「そうだぁ。この村はよく予報外れの雨が降るんでねぇ。少し前に他のお客人が来た時も、それはもう降られて降られて」
「そんなに雨が降るなんて、大変ですね」
「いんや、みんなもう慣れっこだから。それにこの村じゃ、雨が人間を正してくれているって信じているんよ。お天道様の代わりになぁ」
「雨が、ですか?」
「そうだぁ。水に流すって言葉があるよなぁ。雨が降れば、汚いもんがみんな流れて落ちてく。んでも……出て行っても本当になかったことにはなんねぇ。流れたもんは、どっかに溜まってく」
老婆は村の中央で粘つくように揺れる水面を一度見やると、湿った地面に深く足跡を残した。
「溜まって、溜まって。それが目に付いたら人は、真っすぐ向き合わなきゃなんねぇ。お天道様は汚いことをさせないようにすっけど、雨は汚いものをちゃんと見つめる機会をくれるって、この村のもんはそう信じてるんよぉ」
老婆に言い返しこそしなかったが、男は眉を顰めた。
雨に打たれれば汚いものが流れ落ちていく?馬鹿らしい。雨なんて有害なものが色々混ざっている。むしろ浴びれば汚れるものだろ?
男にとってそれは暗く恐ろしいものだ。折り畳み傘の入っているリュックサックのサイドポケットは、いつでもすぐに取り出せるように軽く開いていた。
老婆が男を連れてきた先は、この村の住宅と変わらない外観をした一軒の家だった。家の壁は渇くことがないように黒ずみ、SNSの画像で見たよりも暗く不気味だった。
そんなに雨が降る地域なら、腐食の激しい木造よりもコンクリートの方がいいんじゃないか?男はそう思いながら改めて村を見回したが、やはりそこに建っている建築物はどれも木造で統一されている。そこにあるのは無言の圧力なのか、それとも雨に対する信心のようなものなのか。ただ得も言われぬ重さが男を湿り気を帯びた壁から遠ざけさせた。
「ここん家は今ぁ誰も住んどらんから、好きに使いなさいな」
「えっ?あの」
こんな湿っぽい家を使いたくはない、とはっきり言えない男は、迂遠に断るための言葉を選んだ。
「この家の管理者の方なんかがいるなら、その人に話を通さなくていいんですか?色々と不用心じゃあ?」
「はは、ええからええから。村長も分かっとるんよ。ここは、外から来るお客人のための場所だから」
仕方なく進められるままに男が家の入口を開けると、一気に慣れ親しんだ臭いが鼻を突いた。と同時に男は、村に到着する直前に感じていた嫌な匂いに未だ慣れないことに気が付いた。
爛れた生活がもたらす堕落の臭いは、管理が完全には行き届いていない無人の家の臭いとそれ程変わりがないのかもしれない。それでも男にとっては村全体の匂いよりも、不思議と馴染みのあるこの家の臭いで肺を満たす方がどこか好ましかった。
「古いけん居心地は良くないかもしれんけど、腰をつける場所があるのは悪かぁないよ。そう、荷物を降ろして一息付いてみんのは悪かぁない」
少しくどい言い方に男は内心辟易したが、一応は同意して見せた。
「そう……ですね。ちなみに鍵なんかは……」
男がそう言うと老婆はそれ程大きく開かない瞼を、それでも分かるくらいには持ち上げて見せた。
「ああ、そうだわなぁ。この村に住むもんは家族みたいなもんだからなぁ。鍵は村長が持ってっから、お客人が用心のために必要なら村長に会いに行くとええ」
「随分驚かれているようですけど、他のその……この空き家を利用させて貰ったこれまでの客人は、鍵を気にしたことがなかったんですか?」
「だなぁ。これまで不思議と聞かれたことはなかったよ。あんたが初めてだ」
何故だろうか、特段責められている語調でもないのに男は不快だった。
この村全体が家族と言うのはともかく、これまで外からやって来た人間は本当に一度も鍵のことを気にしたことはないんだろうか?そんなこと、あり得るのだろうか?
SNSに奇妙な投稿をしていた彼ら全員が?
勝手に彼らと自分を分かつ線を引かれたようで、だがその線が何のためのものなのか理解は出来ない。ただまだ自分にとって僅かに安心できそうなこの空き家の入り口を跨ぐとき、彼は自らがその線を引いてしまった気がして一瞬足が強張ってしまった。
そもそもどうしてこの老婆は自分の目的がこの村であるかのように行動するんだろう?通り道かもしれないのに。
そう疑問に思いながらも男は家の中へと、線の先へと足を踏み入れた。
線は引き直すことができる。小学生の頃、野球をするために引いたラインのように。折しも梅雨の時期に引いたその線は翌日にはすっかり地面と混ざり合って台無しになってしまったが、グランドの状態が良くなってはすぐに引き直して友人たちと日が暮れるまで汗を流したものだ。
今ではすっかり身が重くなってしまったが、そうできるのだと男は信じたかった。
だが結局、男はふと胸中に沸き上がった昔日の記憶を、その滑稽さを笑い飛ばす。
線だのなんだの、何を考えているのだろう。自分が跨いだのはたかだが空き家の玄関だ。何を重く考えているのだろう。
そうだきっと、陰鬱とした村の雰囲気に自然と飲み込まれていたのかもしれない。そう納得させながら。
老婆の言う通り、鍵は村長から借りることが出来た。どこにしまったのかを忘れた村長が押入れの大捜索を始めたり、村長が鍵を探しているあいだ彼の妻が洗濯物を取り込んでいたり、そういったことを傍目で見ていた男の手の中に鍵は収められた。
鍵を渡した村長は腰を叩きながら座布団に腰を降ろした。幸いなことに村長は客人と話す気があるようで、男の前に出されている湯呑を指してもう一杯いらないかと聞いてきた。
男が遠慮すると村長は気を悪くするでもなく、そうか、と呟いてから話し出した。
「何か聞きたい事があるんじゃないかね?」
これまでに何度も同じことを言ってきたような気軽さで、けれど核心には触れないように言葉を濁して。
男は戸惑った。と言うのも"会えない誰かに会えると聞いてこの村に来たけど本当か?"なんて大人が言葉にするには愚かしかった。とは言え村長の口ぶりは、常識では考えられない愚かしい何かを尋ねられるような含みもある。
聞こうか聞かまいか迷っていると、意外そうに村長が口を開いた。
「この村に来る外の者はいの一番に聞いてくるんだよ。もう会えない人と会うことが出来る村だと聞いているが本当か、とね。もしかしてあんたは違ったのかね?儂が早とちりしてしまったんかの」
先に村長に言われると、男は今度は言わなかったことが何だか恥ずかしくなってしまう。
「いえ、そうですそうです。その噂を見つけて、この村に来たんです」
「そうよなぁ!そうでなきゃ、こんな田舎にまでこないよな!随分物好きがいるんだなって驚いちまうところだったよ」
"会えない誰かに会える村"と知って訪れる客を物好きとは言わないんだろうか?あるいはそれが、この村や村長にとっては普通なのかもしれない。
男がそう思っていると村長は居住まいを正し、湯のみに口をつけた。
「……まぁでも、言えることは多くないんだよ。儂が言えるんは、外から人が来た日には雨が降ること。そんで、雨が降った次の日に彼らがこの村から出て行くこと。ただそれだけだ」
それだけ。
それが言葉の終わりだとしばらく男は気が付かなかった。まだ村長が何か続けるのかと待っていたが、本当にそこで終わりのようだった。
「えっと……あの、それだけですか?」
「うん、それだけ。悪く思わんでくれ。この村の者はみんな、見ちゃいけないものがあるんだってことを弁えているんだ。それはな……怖いだとか、気持ち悪いだとか、見ると目が痛むだとかそんなことじゃない。配慮だ。誰だって自分の汚いもんを、他人に見られたくはないだろ?」
「はぁ……?」
「それが時たま、人の形として現れることがあるのやもしれん。あるいは本当に、会えない誰かの遺志が蘇るのかもしれん。水は流れ、気化し、雨として降り注ぎ、また流れてゆく。それはどこか輪廻のようじゃろ?もしくは、会えない誰かが生前流したものが混じるのかもしれん。考え方は色々あるが結局は本人が見つめるべきもので、儂らはそれを邪魔したりはせんし、その観客になったりもせんのよ」
一笑に付すような話なのにそう出来ないのは、村長の語りがどこまでも自然なものだったからだ。
「よく分からないのですが、それ、と言うのは見つめなければいけないものなんですか?」
そう問うた後で妙に居心地が悪くなって、男は汗でじっとりと濡れた手を強く拭った。
「どうだろうな。儂らは他人のそれを見たりも聞いたりもせんから、人次第なのかもしれん」
もし"それ"が誰かの姿だと言うのなら――そう思って男は軽く目を伏せた。
どうして彼女は一人で雨の中を歩いて去ってしまったのか……未だに答えは出ないが、謝罪は何度も心の中で繰り返して来たのだ。
「……ちょっと話すぎてしまったかな。まぁ、こんな老人の話なぞ信じる必要も気に留める必要もない。この村はお客人を歓迎するし、引き留めたりもせん。だが雨は、そうでないかもしれん。それだけのことだよ」
村長宅を辞した男は目を細めて空を仰ぎ見た。
渇いた土と青々しい草が水に濡れたような、嫌な匂いがじめりと一層濃く漂ってくる。
少し遠くの空に分厚い雲が見える。青空の一部を奪い去ったそれは、村長の言葉を肯定しているようでとても薄気味悪い。
その光景から逸らすように視線を下げると、今度はそれを待ち構えていたようにため池が視界に飛び込んでくる。
水路も堰もない、ただそこにあるだけのため池。半分近くまで満たされている少し濁った水の中は、生物は愚か水草の一本すら生えていない。
ふと、その底から何かに見られたような気がしたが、茶色の濁りの中には何も映らない。映っているのかもしれないが、見えない方がマシだと思った。
予報外れの雨は本当に、夕暮れと共にやって来た。
老婆や村長が言うものだからどれだけのものかと思えば小雨で、けれどしばらく続きそうだった。
夕暮れ前からやんわり吹き始めた風は勢いを増している。そのせいで破れた障子がはためき、ぴらぴらと目障りなその光景の先で外の様子が窺える。村のまばらな家々から漏れ出る生活の明かりはどれも異様に淡く、陽の落ちた辺りに重い暗がりを作り出そうと同調しているかのようでもあった。
雨音を避けるように男が付けたヘッドホンからは、いつも通りの音楽が漏れ出ている。ネットに繋がらないスマホも、聞き飽きたプレイリストを流すくらいの役割は持てていた。ぴかぴかと時々明滅する電灯さえ正常ならより居心地は良かったが、贅沢はいえないだろう。
破れた障子に背を向けてカップラーメンにお湯を注いだ男は、僅かに生まれた手持ち無沙汰な時間を嫌うようにリュックサックに手を伸ばす。別に何かを取り出したいわけでも中身を確認したいわけでもない。ただ老婆や村長の話を、雨を意識してしまいそうになってじっとしてはいられない。
彼らも、そしてこの村も、本当に降って来た雨も、それが必然だと言わんばかりだ。当然そうなるのだと、外堀が埋められていく様だ。
会えない誰かに会える、なんて起り得るはずがない。現実的に考えろ。男はカップラーメンの蓋を剥がしながらそう自分に言い聞かせる。
だが――だがその馬鹿みたいな話をSNSで見つけて、万が一を思ってこの村に来たのではなかったのか?なのに、どうしてヘッドホンで両耳に蓋をして、食べ飽いたカップラーメンをただただ啜っているのだろう?
ここまで来て、どうしていつも通りのことを繰り返しているのだろう?
ぽとり。ぽとり。
反射的に眉を顰め、ヘッドホンを手で撫でる。水気はない。そもそも、音楽に混ざって水音が聞こえてきていいはずがない。
「……」
黒く変色した天井は、小雨すら防げなかったのかもしれない。だが、男が天井を見上げても水が垂れている様子はなかった。
少々雨音に過敏になっていたのだろう。だから、音楽の中から似た音を拾い上げてしまったんだ、きっと。
けれど。
雨音は男が信じ込もうとしてたことを嘲笑うように、ヘッドホンで守っていた耳の奥で再び重く弾けた。
「!?……何だ?何なんだよ……!?」
反射的にヘッドホンを外した男の耳朶を、小雨が地を叩く音が打つ。だが、それだけではない。男が咄嗟に息を殺して固まったのは、さあさあと降り注ぐ雨に混じって、何かがぬかるんだ地面に足を着けたような音がしたからだ。
静かで、落ち着いていて、そして一人だけで去ってしまったあの足音が。
「まさか本当に……本当にそこにいるのか……?」
破れた障子から侵入して来る生温い風に応えるように、外に出て全身を雨に晒せば彼女に逢うことが出来るのだろうか?
男は何度となく、もう二度と会えなくなった彼女に何と言えばいいのかを考えて来た。だがそれは所詮想像で、その中でさえ彼女が男の言葉に頷くことはない。
けれど、外に本当の彼女がいるのなら。それなら、もしかしたら。あのとき間違えてしまったことを、どこまでも心に積み重なる澱みを洗い落とすことが出来るのかもしれない。
男がじっとりと汗ばむ首筋を拭う間に、足音は小さくなって雨音の中に消えて行く。あと数歩前に踏み出して、襖を開けるだけでいい。何なら、空いた障子の穴からその足音の正体を確かめるだけでもいい。
しかし男が意を決したのは、足音が聞こえなくなってからだった。そこでようやく、障子の穴から外の様子を覗き込んだ。
その刹那の間に見たのは、あの日と同じスーツ姿の背中だった。疲れ果てたように丸まった細いその後ろ姿は、はるか遠くの雨の中にあって。
そしてそのまま溶けたかのように消えてしまった。
村長の言った通りに雨が降り注いだ翌日の村は特段変化があるわけではなかった。ただ、うっすらと漂う朝霧と好ましくない匂いが混ざり合って鼻腔に入り、靄がかかっていくようで男は頭を振った。
一夜明けて陽の差した今、男は昨夜の出来事が幻であったのか現であったのか確かめる覚悟が出来た。だから彼は一瞬彼女が見えたその場所に立ち、証拠を見つけるために地面をじっと見つめる。
思ったよりも地面は渇いていた。雨が降ったはずなのに男の足裏から伝わる感触は、この村に足を踏み入れたその時よりも固い。もっともその感触こそが男にとって好ましいものなのかもしれない。
地面にはその感触の他に何も残されていなかった。足跡や髪の毛などもない。もっとも、物理的な証拠が残りそうにないことは男も薄々分かってはいたのだが。
全ては幻だったんだろうか?自分が見た彼女は幻で、そもそも雨すらもそうだったのかもしれない。
男の耳に聞いたことのある声が飛び込んできたのは、そんな思案を巡らせている時だった。
「お客人、おはよぉさん」
声の方を見ると昨日会った老婆がいて、彼女は皺一杯の頬を軽く緩めて笑顔を浮かべている。ただ薄目から覗ける瞳は、昨日よりも興味深げに光っているように男には見えた。
「え?あ……はい、おはようございます」
「こんな何もない場所で過ごす夜は、大層お暇じゃったろ。お客人、よく眠れましたかの?」
「……」
全部知っている。男には老婆の言葉が、明らかに昨夜起こったことを匂わせているように思えた。昨夜自分が見た何かを、そしてそれからどうしたのかも知られているような心地になる。
だから彼はしばらく黙った後、反射的に返してしまった。
「ええ、確かに暇でしたよ。どうしてそんなことを聞くんですか?」
少し語気を荒げた男の言葉を、老婆は笑顔のまま受けとめる。
「昨夜の雨がいつもより小ぶりだったもんで。昨日会った縁もあるし、お客人に何かあったんじゃないかと心配になってねぇ。けんども老人の要らんお節介だったよぉだぁ。ごめんなさいねぇ」
「いつもより小ぶり……?」
それを老婆に聞く気はなかった。頭の中で疑問として留めておくつもりだったのに、ふつふつと湧く苛立ちがそれを男に言葉にさせたのだ。
「んだぁ。外からお客人が来ると、いつもはそりゃもう空が泣いとるみたいに降りよるんよ」
「いつもって……それに泣いているみたいにって……はは、創作なんかでたまに見る大仰な表現ですね」
「そうさなぁ。んでも空には口がないもんだから、晴れたり曇ったり雨を降らせたりで伝えとるんかもしれん。人間も同じ。言葉に出来ん時は、そうするしかないんよ。けんども人間はほら、歳を重ねると中々素直には泣けんし、何のための涙なのかも分かんなくなるからねぇ」
そう言った後で老婆は男の様子を見て満足したのかどうか、軽く会釈をした後で笑顔を浮かべたまま去っていく。
男は何とも言えない不快感の中に浸っていた。それを具体的に言葉にすることは出来なかったが、村を歩いていると一層強くなっていた。
昨日は村全体から漂う雨の気配が嫌だったのだ。今やそれだけではなく、村人たちの視線や乾いているはずの地面すらも不快に感じられる。
別に村人たちから邪険にされているわけでもない。彼らが男に見せる興味深げな視線は一瞬だけで、それすら彼が過敏になっているだけかもしれない。だから、言外に大雨が降らなかった理由を自分に押し付けられているのだと感じているのかもしれない。
それでも男は村から出て行こうとは思わなかった。いや、だからこそと言うべきなのだろうか。
「大雨が降るか降らないかなんて自然の気まぐれだろう。なのに何で俺のせいだ、みたいな反応なんだよ。おかしいのは、悪いのはあんたらの方だろうが……!」
自分でそう言葉にした瞬間、男の脳裏にあの雨の日の妻の、もう会えない別れた妻の表情が脳裏に浮かび上がった。
それを思い浮かべると――いつも最悪な気分になる。自分が片付けられていない台所の、食器にこびり付いたまま黴ていった食べかす程度の価値しかないのだと言われた気になる。
ああ、最後に家の台所を隅々まで綺麗に片付けたのは何時だったか。溜まって溜まってふやけて腐ったものを水で洗い流そうとしても、流しきることは出来ない。どれだけ綺麗に洗い流してもこびり付いた臭いはそうそう消えやしない。腐敗し堕落したものが染みついた臭いは。
ただいつの間にか、気にならなくなっていくだけなのだ。
男がはたと足を止めると目の前にはため池があった。昨日よりもより深く暗くなった水面を湛えた溜め池が。
おや、と首を捻る。じっくりと見はしなかったが、昨日このため池の水位は確か半分ほどだったはずだ。なのに、昨夜小雨が降ったのに、水位が低くなっている気がする。
おかしなところはそれだけではない。風が吹いても暗い水は少しも揺れない。そしてそれはいつまでもここにあって、そして一人でに膿んでいくだけなのだと、男にはそんな気がした。
それはとても、真っすぐ見てはいられない。
男はすぐにため池から離れる。
もう何もかもが腹立たしかった。老婆は雨は汚いものをちゃんと見つめる機会をくれる、と言った。村長は雨が降った次の日に彼らがこの村から出て行く、と言った。
馬鹿馬鹿しい、と何度心の中で言葉にしただろう。だが本当に予報外れの雨が降り、幻かもしれない彼女の姿を見てしまった。けれど雨は小ぶりで、だからなのか彼女に直接頭を下げて謝ることは出来ていない。そのことを、世間から見れば異質な価値観を持った村人たちはきっと知っていて自分を馬鹿にしている。
結局、こんな場所まで来ていつも通り何一つ上手くいきやしない。
男は空を見上げた。まだ朝方とは言えほとんど雲のない空も、借りている家にあったラジオで聞いた天気予報も、これから雨が降る可能性が低いと示している。
いいだろう。
ここの村人たちが思うような大雨が降れば、せめてこの一時は落ち着けるかもしれない。大雨が降ればため池のかさもまして、あの見るに堪えない暗い水も溢れて出て行くかもしれない。
そんな期待をしながら。
男は雨が嫌いだった。妻と離婚したきっかけとなったあの日の事を、上手くいかない日々の鬱屈を見つめさせられる雨が。
しかし今、男は雨を望んでいた。昨夜の様な小雨ではなく、村人たちが納得するような大雨を。
その願いが届いたのかどうか。夕暮れごろから突如現れた雲は薄いものではあったが、それに見合わない大雨を地面に打ち付け始めた。
男は一度大きく安堵の息を吐き、それからヘッドホンに手を伸ばした。大雨さえ降れば村人たちはきっと勝手に納得するだろうから、わざわざ嫌いな雨音を聞く必要はないのだ。
だが。
ぼとり。ぼとり。
昨日と同じように、いや昨日以上に漏れ出したような雨音が聞こえてきて男は伸ばした手を止めてしまった。
湿っぽくはあるが、変わらず借り家から水漏れしている様子はない。なのに、音はどうしても耳奥にこびり付いているように離れない。
そうして彼女の足音は大雨であっても変わりなく、昨日と同じ響きを伴ってやって来た。
「……大丈夫。もしそうしなくちゃいけなくなっても、ごめんって、悪かったって謝ればいいだけだ。村長の話が本当なら、別に俺のことを恨んでいるから出てきたわけじゃないんだろうし」
胸を押さえた手から、激しく律動する心臓の音が伝わってきそうだ。荒い吐息が雨音に混ざることなく口から出て行き、男が立ち上がっても唇を引き締めてもその隙間から漏れている。
男は咄嗟にリュックサックから折り畳み傘を取り出した。大雨が相手では頼りないし、外に出る気はなかったのにどうしてだか目に付いたのだ。
そうして障子の穴から吹き抜ける風を前に、男は立ちすくむ。昨日はここから一瞬彼女の姿が見えた。では、大雨が降った今日は?
何が起こるのかと身構えていた男の耳に、不意に柔らかな声が聞こえて来た。
「こっちに来て、あなた。私もあの時のことが心残りだったの。だから、雨の下で一緒にあの時の栞を挟み直しましょう?」
それは別れた妻の声だった。別れた夫と一緒に心残りを無くそうと誘う、亡き妻の声だった。
もう、一生聞くことが出来ないと思っていた声が耳の奥で弾けて――
襖を開け、傘を広げて飛び出すと、少し遠くにあの日の妻の後ろ姿が見えた。大声でもなければとても声なんて届きそうにない程に距離は開いていたが、そんなことはもうどうでも良かった。
「待ってくれ!」
男は彼女は必ず待ってくれるのだと言う不思議な確信をしていた。そうして互いに顔を合わせて逢えば、真摯に謝ればきっと赦してくれるのだと。
走って、走って、距離が縮まっていくその実感を男は長い間忘れてしまっていた。だが今日この時、溜め池を前にして男は遂に遠く離れていた妻の手を掴むことが出来たのだ。
嘘のように勢いを無くした雨の下で、男は妻を掴んだ手に力を籠める。彼女の手はとても冷たかったが、雨の中で野ざらしになっていたとは思えないほど乾いてもいた。
「ようやく、私と向き合う気になってくれたのね?」
そう言って振り返った別れた妻との邂逅は、この夜の深い静けさに似つかわしい重い衝撃を男にもたらした。
亡くなった彼女が、あの雨の日の記憶の中のそれと何一つ変わらずに目の前にいる。そしてそれは自分にとって、全てを変え得る最後の機会なのだと男は直感した。
もしも、なんて意味のない想像の中で考え出した何十もの謝罪の言葉は頭の中からとっくに消え失せていた。ただ男は片手に傘を握ったまま、深く頭を垂れる。
「すまなかった。本当に、すまなかった!」
雨の遠のいたこの場でただ一つ降り落ちた頭に、妻の手の冷たい感触がそっと伝わっていく。言葉の代わりに与えられた赦しが、ただしばらく男の頭を数度撫でた。
「あなたがあの日のことをずっと引きずっているのを見てきたわ。自分を見捨てた様な生活。なにもかもを諦めたような生き方。もう、いいの。私のことは忘れて、ちゃんと前を向いて生きないとね」
「……ああっ……!」
もう存在しないはずの彼女の手が、すっと頭から離れていく。ようやく頭を上げた男の双眸に薄い笑みを浮かべた彼女が刹那映り、そして泡沫の夢のように消えて行った。
「ああっ……!」
涙が溢れ出したのは何時ぶりなのか男には分からなかった。ただ雨の止んだ空は彼の心を映し出したようで――例え忘れることが辛くても、前を向いて歩き出すための一歩を与えてくれているようだった。
そうだ。もう自分を責めるような怠惰な暮らしを止め、他人となあなあの会話ですまさずに真っすぐ向き合っていかなければ。
男はそう決意して、そして。
――再び大嫌いな雨は落ちて来た。
ぴしゃり。ぴしゃり。
息を呑む。それは終わったはずの、終えたはずの赦しに冷や水を浴びせるような水を蹴る足音だった。想像の中では知っているようで、けれど現実には忘れていた足音。先ほどの彼女とよく似ていて、けれど少し違う足音。
「嘘つき」
背後から聞こえて来た声に、男は総毛立った。
その声もつい先ほど淡く消えていった彼女とよく似ていて、けれど違うものだ。またしても降り始めた雨のように冷ややかな声音の持ち主は、男の首筋に吐息が当たるほど近くに寄って立ち止まった。
まさか。いや、まさか。彼女は自分を赦してくれたはず。優しく、笑いかけてくれたはず。
なのに背後から自分に近づく気配はただただ不吉で仕方がない。
「本当は大して悪いとも思っていないくせに。一人よがりの生ぬるい地獄に浸り続けていれば、それが贖罪になるとでも思ったの?そしてそれすら、自分が上手くいかない理由の全てを私に押し付けているだけ」
そっと肩に乗せられたその手は、恐ろしいほどに濡れていた。言葉にならず、唇ばかりが空回りする男に対してそれは深く突き刺す言葉を続ける。
「本当の事を教えてあげましょうか?私があの日一人で帰った理由は、あなたが自分だけは雨に濡れたくないと思っているのが透けて見えたからよ。ううん、あの日だけの事じゃない。その前から、何度も何度も他人なんてどうでもいいから自分だけは守りたいって、損をしたくないって、そんな姿を見てきたからなのよ」
男は肩に置かれた手を振り払おうとした。振り払って、逃げようとした。
だが死んだはずの女の力は強く、男は一歩も動けなかった。代わりに言葉が衝動的に放たれる。
「違う……違う!お、お前はあいつじゃない!あいつは死んだはずだろ!それに死んだ奴に俺のことなんて、俺の気持ちなんて分かるはずがない!」
それは先ほどの穏やかな表情を浮かべていた彼女をも否定する言葉だったが、それを憐れに否定するのもまた彼女だった。
「そうね。そうやってこちらを見ようともせずに否定するところ、あなたらしくて心底呆れるわ」
「う、うるさい!大体あの日、傘を忘れたのはお前じゃないか!わざわざ迎えに行ったのに、なのにどうしてこんな風に責められなきゃいけないんだ!?」
「……別に私は良かったの。多少濡れても一つの傘の下で一緒に歩ければ。ううん、傘なんて棄てて一緒に雨に濡れてくれても、私を追いかけてくれるだけでも良かった。でもあなたはそうはしてくれなかった」
語る言葉はどれも本当に別れた彼女が言いそうなもので、それもまた男の心を逆撫でる。
「止めろ!どうせお前もこの村の訳の分からない何かが見せてる幻なんだろ!?もういい加減にしてくれ!」
「さっきの自分に都合の良いまがい物は受け入れていたのにね。本当に都合の良い人」
「それはっ……だって……!」
あいつなら。本当のあいつなら赦してくれると思っていたから。
そう言葉には出来なかった。言おうと言おうとするほど、後ろのそれは男を追い立てて来る。だから男が黙る事に決めたのを感じたのか、それは冷ややかに告げた。
「別れた後、私はあなたに何の未練もなかったわ。今わの際でさえも思い出さなかった。ただ、あなたの言い訳として利用され続けるのは嫌なの。それを伝えに来ただけよ」
男はたまらず身を捩って否定の声を上げたが、それまでの大雨がまやかしだったのかと思うほどの激しい雨音によって掻き消されてしまった。
ただその冷たい手が男の肩から離れると同時に強い風が吹き荒れ、男は手から飛び出た傘を強く掴み取った。それは激しい風雨によって捻じれ歪つになりながらも男を守り続けている。
どこまでも、いつまでも。女がいつの間に消えた後でさえも。
彼は雨には濡れなかった。
目を開けて反射的に上半身を起こした男は、幾つものしわくちゃな顔に一斉に覗き込まれて肩を震わせてしまった。
何があったのか、それともこれから何か起こるのかと戸惑う男に村人たちは、ただ彼がため池の近くで倒れていたことだけを告げる。
けれども男が訝し気に首を捻るしかなかった。
男が覚えていた最後の記憶は、仮家でカップラーメンを食べている時のものだった。どうして自分があの気味の悪い溜め池の近くに倒れていたのかはとんと思い出せない。
村人たちの共謀ではないかと考えもしたが、けれどもそのため池に対して消えないものもあった。
その近くで会えない誰かに会えたような、そんな奇妙な感覚。その邂逅が楽しいものだったのか、辛いものだったのかすら分からないのに、その感覚だけは確かに男の中に残っていた。
心配する村人たちをよそに、男は立ち上がるとすぐに村を出て行く。
相変わらず、この村の視線と匂いは嫌いだった。
マンションに帰ってデスクトップに電源を入れ、男はようやく戻って来たのだと実感した。整理整頓の出来ていない机の上や汚れのこびり付いた台所を見ると、何故だか安心出来たのだ。
男は他人の投稿を眺めるために開設したものではなく、久しぶりにSNSの本アカウントにログインした。
説明は出来なかったが、あの村で感じたことや写真を投稿したくなったのだ。ただ旅行先の景色や体験に感動してその気持ちを誰かに共感してほしいわけではなく、もっと何か別の、言い訳のようなものだったのかもしれない。
"何だかよく分からないけど、この場所で会いたくない誰かに会った様な気分になってしまった"。
それでも男には、少しだけ期待しているところもあった。あの村に関する投稿のどれにも、何故か幾つか肯定を示す反応が付けられていたからだ。
別に同意して欲しいわけじゃないけれど、と思いながら男はしばし本アカウントを見つめていた。
だが、どれだけ待っても反応は一つもない。翌日やらかした仕事の後始末をし、ようやく家に帰ってこれたその時になってもその独り言は独り言であり続けた。
男は軽く舌打ちした後で本アカウントからログアウトした。それから別のアカウントにログインすると、自分の投稿のハートマークを一度クリックしてヘッドホンを被ったのだった。