タイトル未定2025/07/03 15:58
1
陽子は、もう何年も介護をしていた。
母は脳梗塞の後遺症で、ほとんど寝たきりだ。
トイレも食事も、声をかけても反応がない日もある。
それでも毎日、母の手を拭き、髪を整え、好きだった歌を流す。
「おかあさん、今日もいい天気だよ」
返事がなくても、それが日課だった。
そんなある日、近所の同級生・佐野が言った。
「俺んとこも去年、親父が倒れてさ。ようこ、すごいな。よくやってるよ」
「やってるだけ。何もできてないよ」
そう返しながら、陽子は自分の心が少しずつ、削れていく音を聞いた気がした。
2
春が来て、桜が咲いた。
母の好きだった桜並木まで、久しぶりに車椅子を押して出かけた。
風がやさしく吹いて、母の髪が揺れた。
陽子は小さく笑って言った。
「ねえ、覚えてる? 昔、ここでお弁当食べたね」
母の目が、ふと空を見た。
それだけだった。
でもその視線の先を、陽子も一緒に見上げた。
空が、青かった。
まるで、何もなかったみたいに。
何も変わらなくても、今日という日は、確かにここにある。
陽子はふっと、笑った。
「……生きてるだけで、いいよね」
3
夜、布団に入ると、また不安が押し寄せた。
明日も同じような一日が来て、何も変わらないかもしれない。
誰にも褒められず、誰にも気づかれず。
それでも陽子は思った。
桜の下で、母が空を見たこと。
あの、ほんの一瞬のまなざし。
「何もできなくても、ちゃんと見てるんだ」
涙が、ひとすじこぼれた。
でも、次に目を開けた時には、陽子は前を向いていた。