ラッキールチアーノ エピソード1
「運命の手ほどき」
ニューヨーク、1919年。雨に濡れた路地裏に、18歳のチャーリー・“ラッキー”・ルチアーノが立っていた。帽子のつばから滴る水滴を払い、煙草に火をつける。その目の前には、アーノルド・ロススタイン——「賢き賭博王」と恐れられる男がいた。
「聞いたぜ、チャーリー。最近、ちょっとした成功を収めたらしいな」
ロススタインは静かに微笑みながら、葉巻を指に挟んだ。
「ええ、まあ…」ルチアーノはわずかに肩をすくめる。「ヘロインの取引と、ちょっとした密輸でね」
ロススタインは煙を吐き出しながら、ルチアーノの目をじっと見つめた。
「それじゃダメだ」
「…なんで?」
「お前のやり方はストリートのチンピラのままだ。目先の小銭を追うような連中は、最後に路地裏で転がって終わる。それがお望みか?」
ルチアーノは口を開こうとしたが、ロススタインの視線に射すくめられた。
「俺が教えてやるよ、本物のビジネスをな。だが覚えておけ、俺のルールに従う限りだ」
鉄の掟
それからの数年間、ルチアーノはロススタインの下で学んだ。
「ギャングじゃない。ビジネスマンになるんだ」
ロススタインの言葉が耳にこびりついて離れなかった。違法ギャンブル、酒の密売、政治家や警察への賄賂の流れ——すべてが計算され尽くしていた。
ある晩、ルチアーノはロススタインと高級クラブの一室にいた。目の前のテーブルには、金を握った市議会議員が座っていた。
「これが俺のやり方だ、チャーリー」とロススタインは微笑む。「暴力は最後の手段だ。金で解決できるなら、それが最良の選択肢だ」
議員は汗をかきながら封筒を受け取り、頭を下げた。ルチアーノはその光景をじっと見ていた。
「だがな、チャーリー」ロススタインはグラスを傾けながら続けた。「時には、強いメッセージが必要なこともある」
その数日後、密輸酒の取引を邪魔していたライバルがハドソン川で浮かんでいるのが見つかった。
「慎重にやるんだ」ロススタインの声が響いた。「必要なときだけ、手を汚せ。だが、そのときは迷うな」
試練
1920年、ルチアーノはロススタインの言葉の意味を思い知らされる出来事に遭遇した。
ある夜、密輸取引の場で、仲間の一人が裏切り、FBIに情報を流していたことが発覚した。ルチアーノは路地裏にその男を連れ出した。
「チャーリー…頼む、考え直してくれ」
男は震えながら懇願したが、ルチアーノはロススタインの言葉を思い出した。「迷うな」
一瞬の沈黙の後、銃声が響いた。
ルチアーノは銃をしまい、静かに立ち去った。彼はもはやただのストリートギャングではなかった。ロススタインが仕込んだ冷徹なビジネスマンとしての第一歩を踏み出したのだ。
運命の分かれ道
「これでお前も本物になったな」
数日後、ロススタインは微笑みながらルチアーノの肩を叩いた。「だがな、チャーリー。俺の教えを忘れるな。これから先、誰も信用するな。信用できるのは、自分の頭と金、そして時々、銃だけだ」
ルチアーノは静かにうなずいた。彼の中で何かが変わっていた。
やがてロススタインは1928年に暗殺され、ルチアーノは独り立ちを迫られることになる。しかし、彼の中にはロススタインの教えが生きていた。
そして、彼はニューヨークの頂点へと昇りつめていく——冷徹な計算と、時に鋭く牙を剥く冷血な判断力を武器にして禁酒法時代の影と光
――1920-1929、ラッキー・ルチアーノの台頭
夜の波打ち際
雨がしとしとと降り続くニューヨークの夜、イースト・リバーに面した倉庫街は、かすかな波の音とともにざわめいていた。禁酒法の施行からすでに数年、違法な酒が街を支配し、それを巡る闇の勢力がぶつかり合う時代だった。
チャーリー・“ラッキー”・ルチアーノは、仲間たちとともに倉庫の中にいた。アイルランド系、ユダヤ系、シチリア系――種族の垣根を越えた密売のネットワークを築くには、交渉と裏切りが日常だった。彼の背後には、賢明なる策士、アーノルド・ロススタインの影があった。
「次の船はいつだ?」とルチアーノは訊いた。
「三日後だ。カナダからの上等なウイスキーさ」バグジー・シーゲルが答える。
「いいね。俺たちの“客”も喜ぶだろう」
その時、倉庫の隅に佇む一人の女に彼は目を留めた。長い黒髪を肩に垂らし、黒いコートの襟を立てている。静かな瞳が、暗がりの中で獲物を狙う猫のように光った。
「アンタ……どこかで見たことがあるな?」
女は少し口元を歪めた。
「あなたのことなら知ってるわ、チャーリー」
彼女は名を明かさなかったが、ルチアーノは直感した。どこかで――遠い昔、ロススタインのもとで見かけたことがある。
影の狩人たち
1928年、シチリア系マフィアの間で嵐が吹き荒れていた。ジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノの対立が、血の臭いを街に撒き散らしていた。ルチアーノは表向きマッセリアの側についたが、裏では別の道を模索していた。
ある晩、彼は密かにマランツァーノ派の連絡役と接触するために、ロウアー・マンハッタンの酒場へ向かった。そこにいたのは、またしてもあの謎めいた女だった。
「お前、なぜここに?」
「情報を売るのが私の仕事。でも……あんたは、買う側じゃなくて、作る側ね」
ルチアーノは煙草をくわえながら、じっと彼女を見た。彼女は一体、何者なのか?なぜ、いつも自分の進む道の先にいるのか?
血の洗礼
1929年、ルチアーノは生涯最大の危機に陥った。敵対するギャングに誘拐され、拷問を受け、顔をナイフで切り裂かれた。しかし、奇跡的に生還し、彼は「ラッキー」の異名を得ることとなる。
病院のベッドで目を覚ました彼の横には、あの女がいた。
「なぜお前がここに?」
「ロススタインからの借りを返してるだけ」
彼女の正体は結局、明かされることはなかった。しかし、ルチアーノは知っていた。影の中で動く者こそが、この街を支配するのだと。
影の盟約
1931年、ニューヨーク。
禁酒法の終焉が迫るこの年、アメリカの裏社会は大きな転換期を迎えていた。五大ファミリー制が確立され、ルチアーノ、コステロ、ジェノヴェーゼらが新たな秩序を築こうとしていた。暗闇の中、ルチアーノは静かにシガーに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。彼の周囲には忠実な部下たちが集い、全米の犯罪組織を統括する「ナショナル・クライム・シンジケート」の誕生を祝っていた。
だが、その場にはもう一人、影のように佇む人物がいた。
シルヴィア・ヴォーン。
彼女はアーノルド・ロススタインの元部下であり、現在はCIAの前身である秘密組織「ブラック・リッジ」に所属していた。彼女の任務はただ一つ――「裏社会を監視し、必要ならば利用し、あるいは潰す」。
誰も彼女の正体を知らなかった。ただ、ルチアーノだけは違った。
「ルチアーノ、君はこれからアメリカの闇を動かすことになる。」
シルヴィアは琥珀色のウイスキーを軽く揺らしながら囁いた。彼女の言葉にルチアーノは薄く笑みを浮かべた。
「俺はすでに動かしてるさ。」
彼の目には自信が宿っていた。しかし、シルヴィアの視線は鋭かった。彼女は知っていた――ルチアーノの敵はマフィアの内部にだけいるわけではない。FBI、政府、そして裏社会に巣食う別の勢力が、すでに彼を監視していることを。
「お前が俺を見張るためにここにいるってことは、やっぱり政府も俺に興味があるってわけだな?」
ルチアーノはシルヴィアのグラスに酒を注ぎながら言った。
「興味というより、警戒しているのよ。」
シルヴィアは静かに応じた。
「私が言いたいのはね、ルチアーノ。あなたはここで止まらない。シンジケートはアメリカを越えて、世界に広がる可能性を持っている。でも、あまりにも大きくなりすぎれば、必ず誰かが潰しにくる。」
ルチアーノはシルヴィアの言葉に耳を傾けながら、シガーをゆっくりと灰皿に押しつけた。
「俺の敵は、マフィアの中にも、外にもいるってことか。」
「そうよ。マフィアだけじゃない。政府も、FBIも、時には私たちのような影の組織さえも、あなたを利用しようとする。あるいは、消そうとする。」
「面白いな。」
ルチアーノは笑った。その目は鋭く、まるで次の一手を考えているチェスプレイヤーのようだった。
ニューヨークの亡霊――それはこの街の歴史に埋もれた影の存在を意味する言葉だった。ルチアーノもまた、その一人となる運命にあった。
運命の夜
その夜、ルチアーノのクラブ「ハバナ・ルーム」では盛大なパーティーが開かれていた。ニューヨークの有力なマフィアたち、政治家、実業家が集い、新たな秩序の成立を祝っていた。
シルヴィアはクラブの隅で静かにバーボンを口にしながら、ルチアーノを見つめていた。
「彼は本当にこのまま頂点に立てるのかしら?」
彼女の横に座ったのは、暗いスーツに身を包んだ男だった。
「シルヴィア、あなたがあの男に興味を持つとは思わなかった。」
男の名はヘンリー・ハリス。彼もまたブラック・リッジの一員であり、FBIとも関係を持つ影の情報屋だった。
「興味ではないわ。監視よ。」
「そうか?お前の目は、まるで彼を試しているように見えるが。」
シルヴィアはグラスを置き、ヘンリーをじっと見た。
「あなたは彼をどう思う?」
「ルチアーノか?あいつは賢い。だが、賢すぎる奴はいつか消される。」
「それは、あなたの組織がそう仕向けるということ?」
ヘンリーはわずかに笑みを浮かべた。
「我々の仕事は、バランスを保つことだ。誰かが力を持ちすぎれば、均衡が崩れる。それは政府にとっても、裏社会にとっても都合が悪い。」
「つまり、ルチアーノが行き過ぎれば、お前たちは彼を止める。」
「その通り。」
ヘンリーはシガレットケースからタバコを取り出し、ゆっくりと火をつけた。
「だが、シルヴィア、お前はどうする?お前は本当に彼を監視するだけでいいのか?」
シルヴィアは答えなかった。彼女の心の中には、ある疑問が浮かんでいた。
(私は彼を監視するだけでいいのか?それとも――。)
ルチアーノは遠くで仲間たちと笑いながらグラスを掲げていた。しかし、彼の周囲にはすでに亡霊が蠢いていた。ニューヨークの闇は深く、そして彼の運命は、まだ始まったばかりだった。