ずれている男
「僕は未来に生きているんだ!」
彼の名前は田中知失。正直言って、良い名前とは言い難いが、虐待というわけ
ではない。
本当は『和矢』と名付けられるはずだった。しかし、役所に提出した出生届の
字が微妙にずれており、そのまま登録されてしまったのだ。
改名することもできたはずだが、両親も彼自身も「まあ、このままでいいか」
と思った。
そう、彼は筋金入りの『ずれた』男なのである。
彼のずれは、生まれた瞬間から始まっていた。他の赤ん坊が泣くところで彼は
笑い、笑うところで泣いた。ただ、前述の改名の話のとおり、両親もどこかずれ
ていたため、彼のずれは生まれる前から始まっていたのかもしれない。
彼が成長するにつれて、そのずれはさらに際立つようになった。ランドセルは
前に背負い、国語の授業では必ず一行ずれて教科書を読んだ。歌えば音痴で、歩
けば隣の人と微妙に位置がずれ、エスカレーターでは堂々と真ん中に立っていた
。
日常会話もどこかずれていた。「今日が何曜日か」と尋ねれば必ず一日ずれた
答えが返ってくるし、レジで「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれると
、「財布は家にあります」と返した。困惑する店員が「ではお支払いはどうされ
ますか?」とおそるおそる聞くと、彼は「笑顔で!」と言って、にっこり笑った
。犬を猫と呼び、猫を狐と呼び、「ニャーンって鳴いてよ」と頼むと、「はあ?
」と返す。
周囲は成長すれば直るだろうと楽観していたが、その見立てこそがずれていて
、彼のずれはむしろ悪化していった。
そんな彼も奇跡的に一般企業に就職することができた。面接官が、彼のずれを
ジョークだと勘違いしたのだ。その面接官もまたどこかずれていたのだろう。
「おはよう、田中くん」
「おはようございます、部長」
「課長だよ」
「間違えました、ありがとうございます」
「いや、そこは『すみません』だろう」
「せむみそわ」
「え?」
「ああ、一文字ずれちゃいました」
「よくわからないけど、なんだか怖いな……」
「ああ、それで課長。この間の 件なんですけど」
「えっと、ん? どの間? え?」
「 どうし
ましたか?」
「いや、君、何か変だぞ。まあ、今に始まったことじゃないが……」
「変でしょうか?」
「いや、ちょっと待ってくれ」
「はい」
「いや、だから待ってくれよ」
「はい、待っていますけど」
「そうじゃなくて、行かないでくれよ」
「私は目の前にいるじゃないですか」
「いや、そうなんだけど……うーん、なんだか気分が悪くなってきた……」
そのうち、周囲との会話が成り立たなくなり、結局、彼は会社を退職した。
さすがの彼も周囲とのずれを感じ始めた。遅すぎる気もするが、それもまた
彼のずれのせいである。
思い悩んだ彼だったが、あるとき気づいた。自分は単にずれているのではな
い。このずれには理由があったのだ。
そして、確信を持った彼はこう言った。