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木下は盛大な溜息を吐いた。
「若いもんが、なーに辛気臭い!」
「あ"痛い!!」
パシン!と読んでいた雑誌で頭をひと叩きする老婆改め、駄菓子屋しーちゃん屋の店主でもある鈴木静代は、再び溜息を突こうとする木下の頭をもう一度、パシン!と叩いた。
「しーちゃん、何べんも叩いたら、アホになる!」
「お前さんが、辛気臭いからやろう!?」
丸めた雑誌を頭上に掲げる鈴木に、堪忍やってー!と自身の頭を守る木下に呆れ顔で、どないしたんや?と再び雑誌を読み始めた鈴木に、
「いや、何もあらへんのやけど......」
「嘘付け、何もあらへんのやったら、そんな特大な溜息なんか突かへんやろう?」
「まぁ、そうやけど……」
木下は瀬戸内について当たり障りない程度に話すと、鈴木は雑誌を横に置き話を真剣に聞きに入った。
先週の事もあり今週はこんぶと家で留守番をしている瀬戸内について話していくにつれて、木下の表情は徐々に曇って行き次第に話すのを止めた。
「けんちゃんにとってその、大輝君?はどんな子なんや?もし、けんちゃんにとって大切な子なんやったら、無理強いはしたらあかん。勿論、その反対でもや」
「……うん」
「何でけんちゃんは、大輝君をここに連れて来たいんや?」
どうしてと聞かれても直ぐに答えが出て来ない木下に、はぁと鈴木は溜息を吐いた。
「理由が無いんやったら、尚更、無理強いはあかん!」
そう言うのと同時に、しーちゃん!!と近所の児童達がやって来た。そうなれば鈴木とゆっくりと話す事は、困難になるなと木下は店を出ると、1人の女児呼び止められた。
「けんちゃん、この前な一緒やった兄ちゃんは?」
「あぁ、家でお留守番しとるで?」
この駄菓子屋に来る年代の幅は広いが、児童達にとって木下は親しみ易い大人と言うより兄的存在な為、兄的存在の木下が、知らないしかも木下よりも大きい人を連れて来た事は、児童達にとって興味を持つなと言われる方が難しいだろう。そして、木下に話し掛けてきたこの女児もまた、瀬戸内が居ない事に肩を落とし、あからさまに、残念やはーと言った。
「もしかして、お留守番の理由って、うちの事ちゃう?」
「何で?」
先程まで溌剌とした声が急に、今にも泣き出しそうな声で、縋り付いて来た女児に木下は焦るも、何でなん?ともう一度聞くと、
「この前な、外に居ったから一緒に中入ろって言って服、引っ張ったんよ。そしたらな、そん時の兄ちゃん、めっちゃ怖い顔、しとって......うちが無理矢理、服、引っ張たから......やで、うちの事な嫌いになって、来いひんようになったんとちゃうんかな?って......ごめんなさい」
最後に謝罪した女児は、完全に下を向いて小さな身体が更に小さくなり、小刻みに震え出した。
「謝らんでええよ?何も悪いことなんてしてへんのやで、な?」
「でも!!」
「服を引っ張られたなんて、一言も言ってへんかったし」
「......うん」
木下が言った事は本当の話だ。瀬戸内がここへ来る事を拒んでいるのは違う事であって、今目の前であまり納得していない女児に対してでは無い。
「まぁ、謝っとたで、とは伝えとくはな?」
「うん、お願い」
そう言うと木下は女児の頭を優しく撫でた。
一方、昼前に駄菓子屋に行くと言って出掛けて行く木下を送り出した瀬戸内は、目を覚ましたこんぶに今週から始まった離乳食を準備していた。最近行動範囲が広がったこんぶが、飯はまだか?と台所に立つ瀬戸内の脚を登り、あっと言う間に脇の下まで来ていたが、それに驚く事もなく脇にぶら下がった状態でそのままリビングまで移動すると、やっとご飯にありつける!と自身から飛び降りた。
「流石、猫やね」
「にゃぁ」
せやろ?とドヤ顔をするこんぶの頭をひと撫でする為に手を伸ばそうとする前に、離乳食に飛び付く勢いで食べ始めたこんぶにやや呆れ顔の瀬戸内がいた。
「まだ、始めたばかりなのに、美味しい物には目がないってか?」
そんな瀬戸内のボヤキなど気にせずに、目の前のご飯に夢中になっているこんぶを眺めていると、瀬戸内はある日の晩の出来事を思い出した。
それは先日、木下がいつも以上にテンションが高く少し興奮気味に帰宅した。いつもの様に玄関に出向いた瀬戸内に、顔の前でレジ袋を掲げた時は、またコンビニスイーツの新作でも見付けて買ってきたのだろうと思い、ありがとうございます!とお礼を言ってから木下からレジ袋を受け取ろうと手を伸ばすと『今日から、離乳食始めるぞ!!』と二カーッと効果音が今にも鳴り出しそうな笑顔で言った。薄らとレジ袋越しに猫の顔が見ており、一瞬にしてこんぶの餌だと理解した瀬戸内は恥ずかしさでもう一度、おかえりなさいと小さな声で言うのが精一杯だった。
と急に思い出してしまい、再び羞恥に襲われ誰も居ないというのに赤面した自身の顔を近くに置いてあるクッションで隠し、恥ずかしい!!と声に出して叫びたい気持ちをグッと耐え、心中で何度も叫び倒した。
「にゃうん?」
こんぶは離乳食を完食し、もし食べなかった時用にと別で用意していたミルクもあっと言う間に完飲し終え顔を上げると、飼い主が可笑しな行動を取っていた為なのか、人間が疑問に思った時、無意識に首を傾げる行為を誰に教わったのか知らないが、これ以上は首が回らない所まで傾げているその姿を、瀬戸内は残念ながら見る事が出来なかった。
「はぁ、さて、掃除でもしますか」
叫び疲れたのかそれとも落ち着いたのか、クッションから顔を上げた瀬戸内はキョトンとした顔のこんぶを真新しいゲージの中に戻し、少し煩くするけど......と言って掃除機をかけるも、その音に驚きもせず怯えもせず、何食わぬ顔で自身の寝床へと行くこんぶの姿に、もしかして耳が聞こえていないのかも!?と最初は2人して焦っていたが、名前を呼ぶと返事をするし、鈴の音にも敏感に反応する為、もしかして気にしていないのか?と2人で思う様にした。だが、流石に急に大きな音が鳴ると驚く事もあり、一応、掃除機など予め分かっている物に対しては、一言必ず言うと2人で決めた。
そして、掃除機をかけ終え、フーっとひと息突いた所で木下が帰って来た。
「ただいまー」
「おかえりなさい!!」
平日の日中は瀬戸内が木下の家に居る為、散らかってはいないが、どうしても綺麗に掃除をしなければならない理由があったそれは、
「部長さん、何時頃に来られます?」
「14時頃って言っとた」
「じゃ、10分前に戻りますね?」
「ホンマに、ごめんやで?」
先日、猫用玩具のお礼に佐藤にこんぶを会わせる約束をした木下は、瀬戸内に経緯を話すと、じゃ、俺は一度戻りますね!と木下の気持ちを察してなのか、たまたま瀬戸内が極度の人見知りなのか知らないが、木下は自身から言わなくて良かったと内心ホッとしていた。
それではまた!と言って瀬戸内が帰って直ぐに、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、お待ちしてました」
玄関ドアを開けると、いつものスーツ姿では無く私服の佐藤と、その一歩後ろに立つ佐藤の妻の佐藤文乃が、夫が挨拶を終えると木下に軽く会釈をしそして控え目に、にゃーと鳴き声がした。
「もしかして......」
「そう、この子がまきちゃん」
ハード系の猫用キャリーケースの中に居たのは、緑の眼をした茶トラ猫のまきだ。
佐藤に紹介されるとまきはもう一度、木下を見詰めて、にゃおんと挨拶の一鳴きをした。
木下は佐藤夫妻をリビングへと案内し、自身は台所へ瀬戸内が予め用意していた茶菓子を取りに行き、史也(今は佐藤が2人居るので下の名前で)はソファー横からジッとこちらを見ている視線に気が付いた。
「君が、こんぶちゃんかい?」
「.....」
「あはは、知らないオジサンなんて怖いよねー」
「......?」
ゲージに近付く史也と、距離を縮めない様に少しづつ後退りをするこんぶが、あまりにも可笑しいのか文乃は笑いながら言うと、私にも見せて!と言っているかの様に、アオン!とまきはケースの中から鳴いているが、文乃は木下が戻って来るまで待ってね?と伝えた。すると、理解したのか鳴くのを止めたので、お利口さんねとケースの蓋を開け、頭を撫でた。
「まきちゃんさん、お利口さんですね?」
リビングに戻ってきた木下に、史也はまきをケースから出しても良いか問うと、木下は二つ返事で了承した。外に出れたまきは、初めこそ当たりを伺う様にケースから顔だけ出して、キョロキョロとしていたが、近くに自身の飼い主達が居る事に安心し、ケースから軽やかにポンっと飛び出し、2人の方へと1歩前進しようとした時、木下と視線が合いその場で固まってしまった。
「あはは、まきちゃん、この人は木下君っていう人だよ?」
「......っ!」
史也のその言葉で何を思ってか、ハッ!と驚いた顔をしたまきに木下は、こんにちはと言うとまきは自身の行動が恥ずかしかったのか、再びケースへ戻ろうとした。その時、にゃぁと子猫の鳴き声に反応した。
「こんぶもちゃんと、挨拶できるんやね?」
先程までゲージの奥の方にいたこんぶが、まきの姿に興味を持ち、ここから出せ!と木下に訴えていた。その姿に人間達は各々に笑い声を上げたが、こんぶの訴えは激しさを増し、挙句の果てには最近生えてきた小さな歯でゲージを噛みはじめた。
「落ち着き、今出してやるさかいにな?」
やっとゲージから出れた筈なのに、木下の手の中で急に大人しくなってしまったこんぶの視線は、まきを見ており、まきもまたこんぶを見ていた。
「え、さっきの勢いどこ行ったんや?」
「初めて自分以外の猫を見るから、緊張しているのかな?」
「にしても、まきちゃんとそっくりね!」
まきの目の前に下ろされたこんぶは、ジッとその場から動く事はなく、見続けていたがそんなまきはこんぶの身体中の匂いを嗅ぎ始め、次第にはこんぶの顔を舐め始めた。こんぶはと言うと、これこそ借りてきた猫状態で、まきの行為に大人しく従っていた。
「まきちゃんは、母猫でもあるんだよ。だから、こんぶちゃんを見てると母親だった頃を思い出したんじゃないかな?」
まきの行為の意味が不思議だった木下に史也は、アログルーミングって言う猫の愛情表現だよ?と付け足した。
気持ち良さそうに、人生初のグルーミングを受けているこんぶの顔が幸せそうに、目を閉じるその姿に木下は、良かったなと小さく声に出していた。
その後、こんぶもお礼だと言わんばかりにまきにグルーミングをし、互いに疲れたのか今は陽のあたる場所で身を寄せ合って寝ている。
「まきちゃんさんが、社交性抜群で良かったです」
「こんぶちゃんもね?」
そんな2匹を眺めながら、3人の人間達は他愛も無い話で盛り上がっていると、どこからとも無く着信を知らせる音が鳴った。
3人は自身のスマートフォンを見るも、誰一人鳴っておらず、不思議に思っていると、
「けんさん、すみません......」
と自身の家に帰った筈の瀬戸内が申し訳なさそうに、リビングのドアを少しだけ開けていた。
「だ、大輝、どないしたんや!?」
「いやぁ、実はスマホを忘れちゃって」
先程の着信音を鳴らしていたのは、瀬戸内のスマートフォンだったのだ。
突如現れた瀬戸内に、佐藤夫妻は驚いたが親しく話す2人を見て史也は、あぁこの子が!と納得し文乃は、どちら様?と隣にいる史也に聞くと、木下君の大事な人だよ?と穏やかな表情で言った。
「すみません、大輝が......」
「大丈夫だよ?寧ろこちらがお邪魔しているんだから、居て貰ったら?」
「そうね、わざわざ外に出なくても」
自身の家に戻ろうとした瀬戸内に佐藤夫妻は、居ても良いよ?と引き止めるも、瀬戸内は木下がどこか気まずそうにしていた為、やんわりと断ろうとした時、
「大輝、お前が嫌じゃなかったら......」
「......え?」
「いや、お前が気まずいんやったら、無理にとは......」
そうは言ったものの、語尾が徐々に小さくなっていく木下に、これ以上無理はさては駄目だと思い、もう一度断ろうとした時、足元でにゃぁと同時に鳴いたこんぶとまきに引き止められてしまった。
「あはは、お邪魔でなければ!?」
瀬戸内の足に絡み付いているこんぶを抱き上げ、佐藤夫妻にいつもの人懐っこい笑顔で言った。