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結局、飼い主は帰宅したままの格好で、ソファで寝落ちしてしまった。
「にゃぁ」
流石にお腹が空いたこんぶは、寝ている飼い主を起こそうと必死に鳴くも、空腹が襲う中いつもの元気な鳴き声を出す事が出来ない。それでも気が付いて欲しくて最後の力を振り絞って飼い主の顔に小さくても鋭い爪を突き立てようとした所で、もう1人の飼い主の声が聞こえた。
「こんぶ、ただいま、って!!」
嬉しさと驚きでソファから落ちそうになり、もう少しで床に当たる寸前で、受け止められた。
「危ない、どうやって登ったの?......って、あぁ」
何か1人で納得した飼い主は、ソファで寝ているもう1人の飼い主の姿を見て、こんぶに人差し指を唇に当てて、静かにしようね?と微笑んだが、空腹のこんぶにはそんな事よりも、ご飯が先で今出せる最大限の声で、
「にゃぁ!!!」
と鳴いた。
「ちょ、こんぶ静かに!!」
「にゃぁ、にゃぁ!!」
焦る飼い主など知るか!と言っているかの様に泣き続けるこんぶに、やっと何を求めているのか理解した飼い主は急いでご飯の準備し、やっとご飯......と言ってもミルクだが、にありつけた。こんぶは哺乳瓶のニップルを引きちぎる勢いであっと言う間に飲み干し、まだ毛の生えていないお腹は今にも弾けそうな程パンパンに膨れ上がっていた。
「我、満足じゃーてか?」
大きくなったお腹を上に向け、今にも落ちそうな目をしているこんぶを、飼い主はそっと持ち上げカップ焼きそばの容器に下ろした。そして、今だにソファーで寝ているもう1人の飼い主をどうしたものか?と声に出して悩んでいると、モゾモゾと動いたかと思えば急にムックっと起き上がり、
「ごめん、寝とった」
気怠そうに、まだ眠たいのか頭が左右前後と船を漕いでいた。
「けんさーん?」
「んーん」
「起きてますか?」
「んー」
瀬戸内に返事をするも、木下の目は開いておらず、今だにソファーの上でゆらゆらと身体を揺らしているだけ。このままそっとしていた方が良いのかもと思い、その場を離れようと木下に背を向けた瀬戸内だったが、ドンッ!!と物凄い音がなり直ぐ様後ろを振り返ると、先程までソファーに座っていた木下がラックの上で、いてぇと自身のお凸を押さえながら座っていた。
「ちょっと、ケンさん!大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄る瀬戸内に、相当痛かったのか涙目になっているにも関わらず、まだ眠気が覚めていないその涙目は、いつもの半分も開いていなかった。
「落ちたー、打ったー」
「え、は、はい」
「なぁ、痛い」
「でしょうね」
そう言いながら瀬戸内は保冷剤を取りに台所へと足を向けると、待った!と言って有り得ない力で裾を引かれ危うく木下の上に倒れ込むのを耐えた。
「な、何ですか!?」
「なぁ、なんで居らへんかったん?」
「……へ?」
「いっつも帰って来たら、おかえりって言ってくれるのに、何で言ってくれへんの?」
絶妙なバランスを保つ瀬戸内は取り敢えずソファーに座り、木下が少し上を向いた事によって前髪が左右に落ち、少し腫れ上がったお凸が丸見えの状態をいい事に瀬戸内はそっとその箇所を触ると、
「い、った!!」
「あ、ごめんなさい!!」
どうして自分がその箇所を触ているのかすら理解していなかった瀬戸内は、木下の声で我に返り、今度こそ邪魔される前に急いで台所へ保冷剤を取りに走った。
「ホンマに、痛い」
瀬戸内が持って来た保冷剤をお凸に当てるも、余りの痛さに、少し当てては離すを何度か繰り返していると、片膝に何か違和感があると思い下を向くと、いつの間にか容器から出て木下の膝に必死に登ろうとするこんぶ。木下の視線に気が付き、今にも前足を片方あげて挨拶する勢いで短く、みゃう!とひと鳴きすると、再び膝を登り始め、足の付け根まで辿り着いた。すると、1度木下の方を見上げるも何かを諦めたかの様に、ふぅと深く鼻から息を吐き出した。
「痛いで、こんぶ!!」
木下の足の付け根に頭をグリグリと押し付け少しするとそのままの状態で......頭を足の付け根に押し付けたまま、寝てしまった。その状況に声を出すのを堪えるも我慢が出来ず、木下は声に出して笑ってしまった。
「ケンさん、どうしたんですか?」
「ちょ、見てみー?」
丁度、台所での用事を済ませた瀬戸内は、自身の太腿に指を差して、見てみぃ?とまだ笑いが治まらない木下に促され覗くと、相も変わらず顔面を押し付けて寝るのが好きなこんぶがそこに居た。
「この寝方、好きですよねー」
「ホンマにな」
「息苦しい事ないんですかね?」
「たまに、息苦しいんか知らへんけど、目閉じとって口は開けとる時あんで?」
そう話す木下に瀬戸内は驚くも、こんぶなら有り得るかもと少し想像しすと、おかしかったのだろう、瀬戸内も声に出して笑い始めた。それに釣られて木下も再び声に出して笑い出した。にも関わらず、自身の事で笑われているなど知りもしないこんぶは、楽しそうな飼い主たちの声が届いたのか小さな耳をピクピクと動かすも、顔はうつ伏せのままだ。
「はぁ、久しぶりにこんなに笑いましたよ!?」
「俺もー!」
この後も他愛もない話で笑い合う2人は目を覚ましたこんぶに気が付かない程、話に夢中になっていた。
翌日、木下は仕事の合間に猫保護団体の内田にDMを送っていた。
【大変ご無沙汰しています、Kです。
この前、あるSNSの投稿で子猫の時期からゲージに入れているのを見たのですが、やっぱりゲージって必要なのでしょうか?
後、今週末で丁度生後3週目になるんですが、
そろそろ離乳食を食べさせるべきなのでしょうか?
質問ばかりで申し訳ございませんが、
よろしくお願いいたします】
誤字脱字が無いか確認し、そーしん!と声に出してボタンを押した後、深い溜息をついた。
何度かDMでのやり取りはしているし、それに毎日の様に取り引き先とのメールだってしている。なのだが木下にとって、まだ顔も声も知らない、それに性別すら知らない相手にDMを送る事は、この会社のトップでもある社長に直接、判子をここに下さい!と言いに行くのと同じ位の緊張を感じるのだ。
因みに、判子をここに下さい!の"ここ"が重要で、相手がどこに判子を押すのか分かっていたら失礼に値するが、もし分かっておらず先に教えなかったら、これまた失礼に値する。どちらをとっても同じなのだが......と、この話をこのまま進めてしまうと、いつまで経っても木下は煙草を吸う事が出来なくなるのでここまでにして、いつものように煙草に火を付けスーッと肺に煙を充満させゆっくりと吐き出そうとした時、
「木下君!!」
「ゴッホ、え、あ、部長」
「す、すまない」
急に名前を呼ばれ、中途半端に煙を吐き出してしまった木下は盛大にむせ込んでしまった。
佐藤は申し訳なさそうに両眉を下に下げ、すまないと木下の背中を擦って、咳き込むのが落ち着くのを待った。
「もう大丈夫ですよ」
「本当にすまないね」
そう言うと佐藤も煙草に火を付け、ゆっくりと煙を吐き出した。
「あ、そうだ!これ良かったら貰ってくれないかい?」
「......え?」
少し大きめの紙袋を木下に差し出す佐藤は、お古なんだけどね?と付け足した。
中には数種類の猫の玩具が入っていた。その中にはまだタグが付いたものや、袋に入ったままの物まであった。
「僕の家にも猫がいるんだけど、かなりのおばあちゃん猫でね、最近は動くのすら辛そうで......」
「そうなんですね、でも新品のも入ってますけど......」
「本当は、子猫を迎えるつもりだったんやけど、まきちゃん......あ、おばあちゃんの名前ね、まきちゃんを最期まで愛してやりたいって妻と決めたから......」
「......」
「で、妻に木下君が子猫えーっと、こんぶちゃんと暮らしてるって言ったら、今朝コレを渡されて」
「ありがとうございます!」
「良いんだよ、あ、それと妻からなんだけど"何があっても最期まで家族として過ごしてあげてね"って」
そう言うと、いつも部下達に向ける優しい笑顔とはまた違う柔らかい顔で佐藤は微笑んだ。
木下は佐藤夫妻と共に過ごしているまきちゃんみたいに、こんぶもヨボヨボの老猫になっても一緒に過ごしていきたいな、と思った。
「あ、そうだ!木下君、こんぶちゃんの写真とかないの?」
「あー、ありますけど......」
「見せたくない派?」
佐藤はまた両眉を下げて、失礼な事を聞いてしまったかな?と言っているが、木下はそんな佐藤に自慢したい位こんぶの写真を見せたいのだが生憎、こんぶが写っている写真はどれも瀬戸内が写っているものばかりなのだ。勿論、瀬戸内に許可を貰わなくてはいけないのだが、それ以上に、瀬戸内との関係性を問われる事に木下は渋っているようだ。
「もしかして彼女さんが写り込んでいるとか?」
「いや、彼女はいませんが......」
彼女という単語が出た途端に、木下が一瞬だが顔を歪めたのを佐藤は見逃さなかった。
じゃ、今度可愛いの撮れたら見せてね?と言って喫煙所を後にした佐藤に、しくじった!と内心焦るも直ぐ様、瀬戸内に【こんぶ単体の写メちょうだい!!】とメールを送り、もう一本煙草に火を着けようとしたが受信音で一旦手を止め、スマートフォンを見ると瀬戸内から5枚の写真が送られてきた。
早すぎやねん!と再び火を着け送られてきた5枚の写真の中から厳選して1枚を選び抜くと、木下は先程出て行った佐藤を追い掛け、スマートフォンの画面を見せるも、木下が想像していた反応は返ってこなかった。
「き、木下君、その一緒に写っている方は......」
「......え?」
「いや、うん、この世の中、男女での恋愛だけなんて僕も思ってないからね?」
「部長、何言ってるんですか?」
「うんうん、そんなに素敵な彼なんやね?」
と1人で納得した佐藤は、若いって素敵やねーと言いながらどこか遠くを見ていた。そんな佐藤に何事か?と自身のスマートフォンを見るとそこには、こんぶは勿論写っていたがもう1人そう、瀬戸内が写っていたのだ。
瀬戸内の腕にしがみついて寝ているこんぶの写真を待ち受けにしていた事を、すっかり忘れていた木下は、選び抜いた写真では無く佐藤を追い掛けている間に待ち受け画面に切り替えていたのだ。
「いや、ちゃうんです!彼氏とかそう言うのではなくて!!」
「あはは、冗談やって、まぁ、落ち着きなよ?」
木下のあまりの焦り様に涙が出る程笑う佐藤に、顔を真っ赤にして黙ってしまった木下はもう一度、写真フォルダからこんぶ単体の写真を佐藤に見せた。
「うんうん、やっぱり子猫は可愛いよね」
「……はい」
「その写真は例の彼が撮ってくれたもんなんやね?」
「……へ?」
「だって、テレビに今日の日付と時間が写ってるよ?」
「あ、ホンマや!!」
瀬戸内に頼んだこんぶ単体の写真に写り込んでいたテレビ画面には、ご丁寧に日付と木下が仕事中の時間が写っていたのだ。きっと瀬戸内自身は、木下以外の人に見せる前提では撮っていないのだろう。
「たまに抜けてるよね、木下君って」
「あ、あのー」
「あぁ、彼の事は黙ってるよ?その変わり……」
木下は出来るだけ、瀬戸内の事を知られたくなかった。佐藤に知られてしまった事は仕方が無い事であっても、それ以外の人にはと言う前に、佐藤は穏やかに木下が言いたい事を先読みし、黙っている事を約束してくれた。だが、何か意味ありげな言い方をする佐藤に静かに生唾を飲む木下は、初めて自身が企画した案件が通ったかどうかいや、高校受験発表の結果を見る時と同じ位に緊張していた。
「そんな緊張しなくても良いよ?ただ、こんぶちゃんに会わせて欲しいって話やから」
「……へ?」
そんな事で良いのか?と思い拍子抜けた声を出している木下と、会いに行く時何を持って行こうかなーと1人で考え始めた佐藤に木下が、
「良いですけど、そんな事で良いんですか?」
「うん、勿論!あ、そうだ!!まきちゃんも一緒でも良いかな?」
「あぁ、はい、俺は大丈夫ですが......」
「まぁ、その時のまきちゃんの体調にもよるんだけどね?」
老猫と先程言っていた事を思い出した木下は、他人の家に連れて来ても大丈夫なものなのか?と少し不安になった。
「まきちゃん、外に出るのが好きなんだよ」
もうおばあちゃんだからあまりお出かけ出来ないけどね?と少し悲しそうな表情で佐藤は言った。