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木下は今日もいつもと変わらない朝を迎えた。勿、こんぶと共に。
連休の間はいつも隣人の瀬戸内と一緒に過ごしていたが、今日から仕事の木下はどこか浮かない顔をしながら遅めの寝起きの一服を味わっていた。
「にーにー」
「何や、こんぶ?」
「みゃぁ」
「うーん、何もあらへんのやけど.....」
煙草の煙が直接当たらない様に、こんぶとは反対の方向に煙を吐くともう一度、みゃぁと鳴くこんぶに、猫らしい鳴き声になったな-と、小さな頭を撫でる木下の掌に、もっと!と頭を押し付けて来た。
「今日から、仕事で昼間はおらへんのやで、ちゃんと瀬戸内君の言う事を聞くんやで?」
「にー」
頭を撫でながらそう言う木下の言葉を理解したのか、最後に自ら頭を押し付け数回頭を左右に振ると、大人しくカップ焼きそばの容器に敷き詰めてあるタオルの中に頭だけを潜り込ませ、そのままの状態で寝に入った。
「はぁ、初めてや、こんなに仕事に行きたくないって思うんは......」
そう言いながら木下はタオルからはみ出しているこんぶのお尻にもタオルを掛け、もう一度煙と一緒に深い溜息を付いた。
「ほな、よろしくな」
「はい、行ってらっしゃい!」
8時15分に瀬戸内が来た事をチャイム音が教えてくれた。そして、木下は軽くこんぶについて話すと家を出た。
いつもの眠たさと戦いながら通り過ぎていた何気無い通勤路の土手沿いの桜が、満開になっているのが視界の端に映った。スマートフォンの時計を見てまだ時間に余裕があるのを知ると、木下は数十メートルの距離をゆっくりと歩いた。すると、目の前を1匹の野良猫が横切るのをフッと足を止め、木下の方を振り返りジッと見てきた。
「......てんぷら?」
「にゃー」
猫はひと鳴きすると足早にその場から去って行った。どうしてこの名前が出て来たのか考えた。だが、朝から深く考え事をするのも疲れると思ったが、チラリと視界に入ったスマートフォンの時計が、急がないと遅れる時間になっており、まだまだ続く桜並木を全力で走った。
「木下さーん、起きてますかぁ?」
「え、うん、起きてる」
これで何回目なんですか?と黒木は自席に座りながらボヤくも、木下の耳には届いていなかった。
木下はスマートフォンを常に目の届く範囲に置き、10分に一度は瀬戸内からの報告が着ていないかを確認していた。だが周りからすれば、
「黒木さん、あれは何してるんや?」
「さぁ、何なんでしょうか?」
「あぁ!!もう4月だもんね、木下君にも春が来たという事かな!?」
「えぇ!?部長、それ絶対に私以外の前で言っちゃダメですからね!?」
「あ、あぁ、分かった分かった」
とまぁ、30半ばの彼女無しの独身男性が引っ切り無しにスマートフォンを見ていれば、彼女からなのか?と疑われても仕方が無い。だが、黒木が何度も念押ししているという事は、何か他に事情があるのか?と不思議に思うも佐藤文哉はあまりにも必死な黒木の顔を見て聞くのを諦め自席に戻った。
「黒木さん、全部聞こえとったで?」
「あはは、素直に謝るので、お願いですからその素敵すぎる笑顔を直してください!」
スマートフォンを顔の高さで持ち、口角だけを上げた木下が自席に戻って来た黒木を待ち構えていた。たまにしか見せない木下の笑顔は黒木含む部下達には恐怖の対象なのだ。
黒木のお願いを素直に聞き入れた木下は、彼女とはちゃうからな!と言いつつも再びスマートフォンに視線を戻した。
「じゃ、何で先程から何回もスマフォを見てるんですか?」
「あぁ、連絡待ち」
他部署の木下狙いの、しかも同期が来ていた事に黒木は気付き、彼女さんから?と言いそうになったのを止めた。横目で同期をチラチラと見ながら木下を観察していると一瞬、本当に一瞬だが木下の顔の筋肉が緩んだのを見逃さなかったが直ぐに席を立ち何処かに行ってしまった。そのせいで、木下に詳しく聞く事が出来なかった。
「ゆーいー?木下さんって本当に彼女さん、居ないんだよね?」
「の、はず......いや、さっき本人がいないって、はっきりと言ってた!」
黒木の同期は木下がいなくなるとすぐ様、黒木に近付き確認しするも、あまり納得していない顔で自身の部署に戻って行った。
「もしもし、どないしたんや?」
喫煙所に着くなり煙草を加え話しながら火を付け、自身を落ち着かせるために、深く息を吐いた。
【すみません、お仕事中に】
何かあれば直ぐに連絡をする!と言うルールを決めた張本人がそんなに謝らなくてもと、木下は心の何処かで思う。が、あまりにも切羽詰まった様子の瀬戸内が心配になり先を急かした。
【さっきミルク後に少しだけなんですけど、戻しちゃったんです。今から病院に行こうかと思ったんですが、かかりつけの病院が分からなくて......】
「あぁ、リビングの引き出しの2段目に診察券が入っとるし、病院は○○店の裏道通りにある」
【了解です!また、結果メールしますね!】
気を付けてな!と言う前に電話は切れてしまい、こんぶの事が心配過ぎて今は仕事に集中する事が出来んと、吸い終わって直ぐに新しい煙草に火を付けた。
その後も、仕事は全く手につかない木下をいつもは同期の荒田が揶揄うも、長期休暇中の為いない。隣席の黒木は3時間も粘り強く声を掛けていたが佐藤に、諦めなさいと言い木下を喫煙所に呼び出した。
「木下君、今日はどないしたんや?」
「......え?」
「朝からずっと、上の空だから」
「あぁ、実は午前中にミルクを飲ませた後に吐いたって連絡があって、直ぐに病院には行ってる筈なんですけど、連絡来なくて......」
そこまで話すと何故か驚きを隠せていない佐藤の顔を、木下は不思議そうに見た。
「そ、それは心配やな!1人で子守りするんはめっちゃ大変やし、せや、今日は早退しぃ!?」
「はい?」
「それに、ミルクってまだ小さいんやろ?もしかしたら、吐いたのも何かの病気とかやったら、絶対に1人では耐えれへんよ!?」
「ちょ、部長、誰の事を言ってるんです?」
1人でアタフタしている佐藤に、取り敢えず落ち着きましょう?と木下が言うも全く落ち着く気配が無い。諦めた木下は最後まで話を聞く事にしたが、話を聞けば聞くほど佐藤が言っている事がおかしいと木下は思った。
「そうだ、妻に聞いてあげるで?小児科の良い先生が居る所とかめっちゃ詳しい......」
「部長!!俺は、子猫の話をしてるんですよ?」
「へ!?こ、子猫の?だって、ミルクどうのうとか話てへんかった?」
やっぱり佐藤は木下に子供が、しかも新生児がいると思い込んでいたみたいだ。
木下は、はぁと上司には失礼だが大きな溜息を付き、こんぶについて佐藤に話すと、恥っずと言いながら出来るだけ木下の顔を見ない様に煙草を吸い出した。そんな佐藤を気にすること無く再びスマートフォンを操作し始めた木下は、安堵の溜息を吐いた。
「ど、どないしたんや?」
「え、あぁ、こんぶ何ともなかったらしいです」
「良かったなー」
まるで自分の事の様に喜ぶ佐藤の姿を木下は少し嬉しく思っていた。
家で誰かが迎え入れてくれると分かっていると、嬉しいと思うのは、ひとり暮らししていれば誰でも思う事だろう。しかも、会社という戦場で約8時間も戦った後の疲れで歩く速度は全く違う。
今日の木下は、部下の尻拭いから始まり上司の佐藤の大きな誤解を解いた後に、立て続けの会議をこなしたと思えない程、歩く速度が早い。
「ただいま!」
いつもは黙って入る玄関も今日は声に出して帰りの知らせを言うとリビングから、おかえりなさい!と返ってきた。だが、声の主は姿を現さなかった為、木下はリビングに入ると丁度こんぶの授乳中で瀬戸内はもう一度、おかえりなさいと首を捻らせて言った。
「もう少し待って貰えますか?」
「ええよ」
やはり、誰かにおかえりと言って貰えるのは嬉しいのか木下は帰宅後は必ずソファー直行をしていたが、それをせず、いつも後回しにしてしまう事(部屋着に着替えたり、洗濯物を回したり......)を片付け、台所に立ち晩御飯を何にするか考えていると、お待たせしましたー!と少し焦った様子の瀬戸内が来た。
「うん、おおきにな?今飯作るし、待っといて?」
「その事なんですが......」
「あ、ごめん、急いどるよな?」
「いや違うんです!その......」
瀬戸内にだって用事くらいあると言うのに、木下はさぞ当たり前のように晩御飯を食べて行くもんだと勝手に思い込んでいた。だからなのか急に恥ずかしくなり、急に疲れが身体を襲い今日はコーヒーだけにしようと、愛用のマグカップに1人分のインスタントコーヒーを入れ始めた。だが、瀬戸内もまた何か言いづらそうに言葉をを濁した。
「あの、晩御飯作ったんです......」
「......え?」
「いや、こんぶが寝ている間、何か出来ないかなーと思いまして......」
そう言うと瀬戸内はガスコンロの上に置いてある鍋を指さし木下が中身を確認すると、味噌汁が入っていた。
「......味噌汁?」
「はい、鯖入りなんですが、大丈夫ですか?」
蓋を開けた途端に漂ってきた味噌の香りと共に鯖独特な匂いが木下の鼻をくすぐり、急に空腹を知らせるかの様に腹の虫が、ぐぅーと盛大になった。一瞬お互いの顔を見合せてから涙が出る程に大笑いをし、一通り笑い終えると目尻に溜まった涙を拭いながら瀬戸内は味噌汁を温め直し始めた。
「「いただきます!」」
今晩のご飯はいつもより豪華だと思いつつ木下は鯖入りの味噌汁を1口飲むと、仄かに生姜の香りと共に身体の芯まで暖まり、肩の力が一気に抜けたのかお椀が離れるとほっこりした顔になった。その顔を見た瀬戸内は、心の内で安堵の溜息を吐いた。
何気無い、本当に何気無い食卓の会話と言うものはどうしてこう、満たされていくのだろうか?誰かと食卓を共にしていなければきっと、味わう事は出来ないだろう。
「何かええな、誰かと一緒に飯食べれるっていうんは」
食後の一服をしている木下は後片付けが終わりベランダに出て来た瀬戸内に背を向けて、
「二十歳になって直ぐにこっちに出て来て、十五年もひとり暮らししとると、誰かにおかえりって言って貰える事もなく、飯を一緒に食べる事も......なぁ、これからもたまにでええから、こんなおっさんと飯、食べてくれへか?」
そう言いながら、申し訳なさの中にどこか悲しさを漂わせていた表情に瀬戸内はどんな言葉を返したら良いのか分からず、勿論!と持ち前の明るさと人懐っこい笑顔で答えると、おおきにと木下は言った。
よく自分以外の子供の成長はあっという間だと驚かされる事が多い。それは猫だって例外では無いのかもしれない。
「ほれ、頑張れ!」
「そうそう、上手上手!」
こんぶと出会って早2週間が経った日曜の昼下がり。木下と瀬戸内は木曜日以外の晩は共にご飯を食べ、木下が休みの日はこうして2人でこんぶの世話をしていた。
今日もまた朝から木下の部屋で何気無い会話をしたり、最近は4本の足を使って歩き始めたこんぶを応援するのが2人のマイブームとなっていた。
「みゃぁ、みゃっう!」
子猫に限らず猫は高音は微妙な違いも聞き分ける事は出来る。だが、低音になると半音の違いを判別するのがやっとな為、2人は出来るだけ高音でこんぶに話し掛けてはいる。だが、どんなに頑張っても声変わりを終えた男性が出す高音に限界はある。木下なんて高音またの名を裏声を出し続けた結果、週末にもなると声がガラガラになっており、最近何かと部長の佐藤に龍角散を貰う率だ増えた。瀬戸内に至っては元の声が高い為、木下の様に裏声を使わずとも高音が出せていた。
「はぁ、またケンさんですか」
「こんぶー、流石や俺の息子!」
「みゃぁ」
「今日は絶対に俺やと思ってたのにー!」
「あはは、大輝には、こんぶはやれん!!」
30センチ程離れた所からこんぶがどちらに来るのかで昼食作りを賭けていた。
だが、それは1回だけと二人で決めていた。まだ、生後2、3週間の子猫は大半を睡眠時間に費やしている為、こんぶに無理をさせないように!!と内田から釘をさされていたのだ。
「お、寝た」
賭けに負けた瀬戸内は昼食の準備に台所に立っていると、木下のその一言でいつもよりも小さめの声で話しかけようと思った時、
「なぁ、こんぶ寝てる間にちょっと散歩せーへん?」
未だにカップ焼きそばの容器の中で寝ているこんぶを起こさない様に、撫でている木下が、瀬戸内にいつもの音量で話しかけてきた為、ケンさんしー!と人差し指を自身の唇に当てて、幼い子供を叱る母親みたいにい言う瀬戸内に笑いそうになるも音量を下げて、すまんと謝った。