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休みの日でも木下の朝は何時もと変わらない。
「にーにー」
だが、それは昨日までの話だ。
「やべ、寝てた!!」
昨晩、力尽きてフローリングで寝落ちをしてしまった木下は耳元で鳴く仔猫の声で目を覚まし、スマートフォンの時間を見るときっちり2時間で目を覚ましていた。子供の事になると体内時計が正確だ!とどこかで読んだ記事に、世の母親ってスゲェはと関心した。
「ちょっと待っててなー」
目覚めの一服と思ったが、先にこの体内時計があまりにも正確な仔猫の腹を満たしてからやなと、台所へ再び代替ミルクを作りに起き上がった。
「ほれ、って、腹空いてへんのか?」
「にーにー」
ガーゼに染み込ませたミルクを口元に持って行くも、イヤイヤと言っているかのように頭を左右に振る仔猫に、何でや?と。だが、仔猫にとって食事と同じ位大切な事がもう1つある事に気が付いた。そして昨晩、猫保護団体の内田からのメールを読み返した。
「えーっと、ティッシュどこ行った?」
そう言いながらティッシュを数枚取り仔猫の肛門に当てがった。
「飯は当たり前やけど、トイレまで誰かにしてもらわなあかんとか......お前も難儀やなー」
数回トントンと叩き無事、排泄が終わった仔猫に再びガーゼに染み込ませたミルクを口元に持って行く。すると、齧り付く勢いで用意した量の半分程飲むとウトウトしだし、木下の手に顔を押し付けて寝てしまった。
「だーからー、窒息するって!」
そう言いつつカップ焼きそばの容器に横向きに置き、そっと上からタオルを掛けた。
「さぁ、今日は忙しくなるで」
と気合を入れ、子猫が寝ている間に外出の準備を始めた。
「木下さーん、どうぞ、中にお入りくださーい!」
やたらテンションが高い看護士に呼ばれ診療室に入ると、木下と差程歳が変わらない獣医がいた。
休日でもしている動物病院に予約を入れ、運良く1番に診てもらう事が出来た。木下は受診が終わる位にミルクの時間だな、それ迄は大人しくしている筈と安心していた。だが、獣医が仔猫を持ち上げた途端、この世の終わりだ!!と叫んでいるかの様な声で鳴き始めた。
「よしよし、大丈夫だよ、怖くないからねー」
必死に鳴く仔猫をこれまた必死にあやす獣医と看護士の姿を離れた所から眺めている木下は、
「コイツ、ホンマに産まれたてなんか?」
とボヤいていた。
「えぇ、この子は紛れも無く生後1週間程ですよ」
「あ、そーなんですね」
木下のボヤきが聞こえたらしく、何とか診察が終わりカルテの記載に取り掛かっている獣医が応えた。
「にしてもこの子、本当に野良だったんですか?」
「え、と言いますと?」
未だに鳴いている仔猫をタオルに包み膝の上に乗せると、鳴くのを止め大人しく眠った。
「いやぁ、昨日拾われたとお聞きしたので、軽い脱水症状が見られる筈なんですが、脱水症状も無く、身体も清潔に保たれているので......」
「あぁ、ちょっとそう言うのに詳しい人がいまして」
「そうだったんですね!」
木下は、SNSのダイレクトメールで聞いたと何故か言えなかった。
その後獣医から今後について詳しく聞き、無事帰宅するも仔猫は疲れたのか未だに寝ており、カイロを取り替えカップ焼きそばの容器に入れそのままベランダに出た。
「はぁ、何か色々と面倒くさくなってきた、かも」
本日初の煙草に火を付け、ゆっくりと吸い込み吐き出すと、木下は日に当たっている仔猫に視線をやった。
これからこの小さな生き物が無事に大人になるまでは、今までの生活が180度変わってしまう。そうなると、仕事も......と思考を巡らし、ハッと気が付いた。
「せや、仕事どないしたらええんや?」
カレンダー通りの休みの木下は運良く今日から三連休であり、先日上司からあまりにも有休を取らなさ過ぎる!と言われ、三連休に加え有休消化でもう1日休みになった。本当はこの三連休に加え4連休取って!とお願いされたが流石に大事なプロジェクトを抱えている為、無理です!と断り、取り敢えず有休消化を1日に抑えたのだ。
「なぁ、お前も一緒に職場に来るか?」
「にー」
「はぁ、やんなぁ」
問い掛けに、嫌だ!と言っているかの様に仔猫は鳴き、それに対して木下は、どうしたものかと頭を抱えていると、
「あ、猫!!」
と、隣のベランダから声が聞こえて来た。
「あ、どうも」
「こんにちは!」
木下は仕切り板を挟んで隣に声を掛けると、若く張りのある響きの強い男の声が返って来た。
「もしかして、煩かったですか?」
「いえ、ただ猫の鳴き声がしたもんで」
隣人はひょこっと木下が居る方へと顔を覗かせて、もう一度お互いに挨拶を交わすと先程まで寝てい仔猫が起き、ミルクの催促が始まった。
「あ、ちょっとすいません!」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
木下は隣人に一言詫びを入れると、動物病院の帰りに購入した仔猫用のミルクを急いで作りに台所まで走って行った。
「あはは、キミは催促が上手なのかい?」
ベランダに取り残された仔猫に隣人がそう語り掛けると、知らない声に一瞬驚く素振りを見せた。
「ごめんやでー」
「にーにー」
「はいはい、ちょ、待ってや!」
バタバタと走って来る足音に仔猫は前足をジタバタと動かし、早く早く!と木下の帰りを待っていた。
やっとミルクにありつけた仔猫は、いつものガーゼでは無い事に気が付き一瞬動きを止めるも、空腹には勝つことが出来ず哺乳瓶のニップルに齧り付いた。
「やっぱりこっちの方が飲みやすいんかな?」
「......?」
「あ、えぇっと、昨日この子を拾ったんですよ。で、哺乳瓶の代わりにガーゼで......」
「あぁ、なるほど!」
仔猫の授乳が珍しいのか隣人は未だに身を乗り出して見ていた為、木下は落ちたら危ないよな......と思いうも、朝から忙しかったのもあり頭がボーッとしだした。
「こっちに着たらどうですか?そのうち、落ちま、す」
「......え?」
そう言い終えると、木下はスイッチが切れたのか哺乳瓶を持つ手を下に下ろしてしまった。
「おいおい、嘘やろ!?」
隣人の呼び掛けに全く起きない木下の身体は次第に傾き、後もう少しで椅子から落ちそうになった所で、隣人に受け止められた。
「危ねー!!」
人間と言うものはいざっという時、恐怖心を抱く余裕が持てなくなるのか、3階建てマンションの3階のベランダからベランダに飛び移った隣人は後になって恐怖心が出て来たのか、木下を支えた状態で少しの間その場から動く事が出来なかった。
どのくらい寝ていたのか木下は寝起き特有のボーッとした頭で考えてみるも何も思い付かず、もう一度寝ようと横になろうとした所で、猫は!と焦った声で叫んだ。
「あ、おはようございます」
「......おはよぉ」
仔猫はいつものカップ焼きそばの容器の中でうつ伏せになって寝ていた。
「あ、お隣さん、ですよね?」
「あはは、そうです、隣の人です」
隣人はそう言うと、台所お借りますね?と言って台所へ行ってしまい、ダルさが残る身体をどうにか起こし木下も着いていった。
「すいません、勝手にお邪魔して」
「いえいえ、自分が誘ったんで平気です」
その後、急に力尽きて椅子から落ちそうになった事や、木下が寝ている間に仔猫にミルクや排泄をした事などを隣人は楽しそうに話しながら、はい、どうぞ!と渡されたマグカップからはコーヒーにミルクがたっぷり注がれたなんとも穏やかな香りが漂い、木下の鼻をくすぐった。
「自分の部屋から持ってきたんです」
「そうなんですね、えぇっと......」
これ程お世話になっているのにも関わらず隣人の名前を知らない。急に恥ずかしくなり木下は下を向いてしまった。
「あぁ、瀬戸内です!瀬戸内大輝って言います!!」
木下が何を言いたかったのか瀬戸内は瞬時に感じ取り、遅くなりましたと付け足した。そして木下も改めましてと自己紹介をした。
「瀬戸内さん、色々とありがとうございます」
深々と頭を下げると瀬戸内は、頭を上げてください!とオロオロしだした。
「あの、多分ですけど、木下さんの方が俺より大分年上だと思うんですよね......なので、敬語をやめて下さいませんか?」
「......」
「俺、こんなんですけどまだ、大学生なんですよ?」
「......はぁ!?」
木下が驚くのも仕方が無いのかもしれない。なんせ瀬戸内は社内で一二の長身、183cmの木下よりも頭ひとつ分も大きく、年の割には外見が大人びているのだ。
「あはは、昔から老け顔って言われるんですよ!!」
豪快に笑うと瀬戸内は、まだ湯気が立つカフェオレに息を吹き掛け必死に冷まし一口飲んでは、あっちぃ!!と何度も繰り返した。瀬戸内のそんな姿を見て改めて木下は、若いなーと実感した。
そして、立ち話も......とソファに座るのを勧める木下に、ここで良いですよとフローリングに座る瀬戸内が急に何かを思い出したのか、マグカップを置き、姿勢を正すと勢い良く頭を下げてき。
「すみません!先程は俺より大分年上だって言って!!」
「......は?」
「だって、そのー、えーっと......」
先程の勢いが徐々に鎮火していき、恥ずかしさが沸き起こっているのか瀬戸内の耳が赤くなっていた。
「あのさ、別に俺は女でも無いし、それに20前半の子にオッサンって言われても、ホントの事やから大丈夫やで?」
そこまで話すと、仔猫がジッと木下を見ている事に気が付いた。実際、生後1週間程の仔猫はまだ目が見えていないのでこの場合は......
お気に入りのうつ伏せ状態で寝てたが息苦しさを感じ、まだまだ重たい頭を必死に上げるも、頑張って上げ過ぎてしまい容器の縁に顎が引っ掛かってしまい、動くに動けなくなった所を木下に見付かった。
と言う事にしとく方が良いのかもしれない。
「......ミルク?」
「木下さんが起きる5分前に飲んでいるので、まだかと」
仔猫を抱き上げる木下にそう伝えると瀬戸内が、この子どうするんですか?と尋ねてきた。
「え、飼うで?」
「あ、そうなんですね」
瀬戸内はあまりにも即答過ぎた木下に少し驚いた。だが、良かったね?と仔猫の額を優しく撫でている姿を見て何かを決意した木下は、深呼吸をし、
「あのさ、昼間この子を預けれそうな所、知らへん?今週火曜日までは俺も休みやで家に居れるんやけど、そのー、仕事が始まったらその間、この子一人やから......何や?」
仔猫を撫でる瀬戸内の手が離れ行くのを、少し残念やねと内心で仔猫に語り掛けていると、その手がピシッと挙げられていた。
「あの、俺1年ほど余裕があるんです!なので、俺が昼間子守りします!!」
「お、おう。ほな、頼んだで?」
「はい、任せてください!!」
木下は瀬戸内の勢いにおされてしまった。
「ところで、この子の名前は?」
「.......瀬戸内君、君が名付けて?」
「駄目ですよ!木下さんがこの子の親なんですよ!?親が名付けないと!?」
悩んだ、木下は仔猫の名前を付けるより、凄く悩んだ。なにせ、ネーミングセンスは幼い頃より、破滅的なのだ
「あぁ、駄目だ!俺に名前付けられるこの子の将来がぁあぁ!!」
「ちょっと、落ち着いて下さいよ!取り敢えず、今思い浮かんでいるのはなんですか?」
と仔猫に、すまんのこんな親で!と嘆いている木下に、落ち着いて!と瀬戸内はもう一度言うと、何かを真剣に考え込み始めた木下に安堵した。
「今日の晩御飯、鍋にするつもりなんやけどさ、バタバタしとって昆布買い忘れたんよ」
「......はぁ!?え、今それ言います?」
「うーん、せやな!お前の名前、こんぶにするは!そしたら夕方までには買い忘れへんし!!」
「いやいや、流石にこんぶって......」
「何でや?瀬戸内君が、今思い浮かべてるもんって言ったんやろ?」
「まぁ、そうですけども」
こんぶーと仔猫に呼び掛けている木下を見て瀬戸内は、自分が付けたらよかった......と心の内で盛大に溜息を付いた。
そんな瀬戸内を気にも止めず、忘れる前に!と猫保護団体の内田にダイレクトメールで動物病院で言われた事、協力者ができた事そして、仔猫の名前をこんぶと名付けた事を鼻歌混じりで打つ木下の膝の上で、こんぶと命名された仔猫は、またうつ伏せで幸せそうに寝ていた。