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普通な生活とは人それぞれだと思う。
例えば、朝早くから自分の時間を犠牲にして家族の為に家事をこなす母親とか。
例えば、誰もしたがらない事をこの職に就いてるからと何食わぬ顔でいってみせる、従事者とか。
例えば、学生だからと皆と同じ方向を向いて毎日何時間も大人の話を聞く学生とか。
そんな普通な生活を退屈な生活と人は言い換えて、刺激たっぷりな世界へと走って行く。
だが、木下 健一はそんな刺激たっぷりな世界へと走って行く人々を、スタート地点で眺めているだけでと言うよりも、見向きもしていなかった。
「そんな無駄な事をよくやるよ」
そう呟く木下にスタート地点に立った若者がこちらを向いて、つまらない人と言い放ち走って行った。
若者の背中が徐々に見えなくなったと思うと同時に再びスタート地点に立つを、何度も繰り返すその姿が昔の自分だと分かった。
木下はそのうち諦めるなと、どこか呆れた様な表情で眺めていると、若者ははじめてスタート地点に立った時よりも覇気が無く衰弱しきっていた。
「ほら、言わんこっちゃない。どんなに走ってもあの世界に行けるのは、極わずか。新しい事なんて、どうせ決められた人しか行けないんだよ?」
自分の足元で膝を抱えて座る若者にそう言うと、
-じゃ、君は?
と誰かに問われ木下は顔を上げると、
『君は、そのスタートラインを超えた事があるのかい?』
木下に問い掛けて来たのは、背中辺りはキジ柄で胸からお腹にかけて白い毛並みの黄緑色の大きな目の、猫だった。
「何度もあるさ、けど結局は無駄な事だって知ったんよ」
『無駄って勝手に決め付けているだけじゃないのかい?』
「ふん、君に何が分かるのさ!就職したら色んな事に挑戦したいって思っていたさ、でも何一つ出来ひんかった。残業残業、残業で!!退職したくても、先延ばしにされて結局、今の所で5年!!普通な俺に何が出来るって言うん?何の才能も無い普通な俺が、このライン超えた所でどうせ直ぐにここに戻ってくるんや!!」
『怖いだけなんだろう?才能が無いって決め付けてしまったから』
「......」
『羨ましいよ、君が。僕には何も出来ないんだから!!』
威嚇するように耳を伏せ、猫が木下を思いっ切り睨み上げるも直ぐ元に戻し、
『最初の1歩くらい、踏み出してみたら?』
クルっと方向転換し、猫は刺激たっぷりの世界へと走って行く人々と共に走り出した。
ピピピピッーー
木下は何時ものアラーム音で目を覚ました。
そして、軽く伸びるとベランダに出て煙草に火を付けると深く息を吸い込み、ふっと丸テーブルの上に置いてある煙草の箱に視線を移した。箱の中には煙草が2本も残っていたのだ。
「......何で?」
いつもは、朝のこの1本で無くなるはずなのにと疑問に思うも、手元に置いてあるスマートフォンを見ると、次の行動に移らないと出勤時間に間に合わない時間になっていた。
取り敢えずと木下は2本入った煙草の箱を仕事用のカバンに仕舞い込み、少し早歩きで台所に向かい10分で朝食を作り食べ始めようとした所で、
「・・・マジかよ」
朝食前に飲んでいるインスタントコーヒーの粉が無いことに気が付き、最悪の朝食となってしまった。
取り敢えずSNSでお気に入りのアカウントの動画を見つつ気分を切り替えようとするも、本日2回目の、
「マジかよ!」
動画によく出ていた何気にお気に入りだった保護猫が、讓渡され里親の所に行く事が決まったと動画で紹介され、嬉しい報せのはずなのだが、木下にとったら少し寂しい気分になった。
そんな木下の最悪な出来事はインスタントコーヒーで済まされることはなかった。通勤で使っている自転車が何故かパンクしており確実に出社時間には間に合わないと分かったからだ。会社に電話をすれば同期の荒田 尊が、ドンマイ!と笑いながら対応し、気を付けてな!と言って電話を切ってしまった。
「絶対、アイツ俺の事バカにしてる」
同期だが荒田とはそこまで仲が良い訳ではない。どちらかと言えば木下にとって苦手なタイプだ。荒田は、木下が仕事でミスをすれば真っ先にからかい、その事について1日中バカにしてくる。最悪な場合は次の日まで持ち越される。逆に荒田がミスれば木下だって反撃に出る。だが回りの社員に、お前が言うな!という視線を浴びてしまう。初めの頃は気にせずにしていたが、最近はそれすらアホらしくなり、今では荒田が何かを言ってきても無視を決め込むようになった。
「はぁ、最悪や......仕事、休んでやろうかな」
このまま出社した所でどうせ他の社員からまた嫌な目で見られる。それならいっそ休んだ方が楽な気がする、と思うもこのまま休めば次の日にどうせ嫌な目で見られてしまう。なら今の所を辞めてしまえば良いだけの話なのだが......と、思考を巡らすもそこで止め、最寄りの駅まで歩き始めた。
「あ、昼飯買わな」
いつものコンビニで、いつものおにぎりを2個買うと店員がレジ横にある500ミリリットルのペットボトルを差し出してきた。どうやら今日から指定のおにぎり2個買うと無料で貰えるキャンペーンが始まったらしい。
木下は、ありがとうと言いそのペットボトルを受け取ると、店員は少し驚いたが笑顔を見せてくれた、多分。マスクをしていた為、多分だ。
「あっれー?朝から災難な木下君がご出勤ですよー」
「......」
出社すると待ち構えたかのように荒田がフロア全体に聞こえる声で言い放った。だが、木下は今日も無視を決め込む。それなのに、荒田は何で無視するん?としつこく後を追ってきた。勿論それに対しても木下は無視を決め込んだ
「木下さん、荒田さんね、心配してたんですよ?」
「そうなんやね」
「今日の部長、朝からめっちゃ機嫌悪くて、遅れて出社してくる木下さんが怒られないか......」
「怒られましたけどね」
「あはは......」
自身のディスク前に座ると隣席の部下、黒木 唯がパソコンを触る手を止め、わざわざ木下の方に身を寄せて小声で話して来た。だが木下は、それが?と言いたくなるのをグッと我慢した。
木下ー!と上司に呼ばれ行くと、今取り組んでいる企画の取引先の担当が変わり、新しい担当が来ると聞き木下は心の中で大きくガッツポーズをした。
取引先の元担当は相手を見下すタイプだった為、木下以外のチームメンバーが約1ヶ月で3人も変わった位、木下も苦手だった。だが、担当が変わると知って今までよりかはやり易くなるのでは?と期待をしていた。
案の定、木下の期待は裏切ることも無く、今まで以上に企画はスムーズに進み、他のメンバーからも凄くやり易い!と好評価だった。
「木下ー!」
「......何?」
ある程度の話し合いが進み、一旦休憩を挟む事になった。喫煙所に行くとそこには荒田が手を振っていた。
「何なん?担当変わって気分ええんとちゃうん?」
「お前の顔見たら、気分下がった」
「えー、なんか酷ない?」
荒田は、健一君、ひどーい!と笑いながら言っている為なのか、木下はいつもの無視を決め込み、煙草を咥えて先程の話し合いについて忘れてしまう前に、スマートフォンのメモに打ち込んでいった。
「まぁ、ええけど、てか、木下って両手打ちなん?」
「......」
「俺なんて片手......って、ローマ字打ちかよ!?」
「......」
「なぁ、いつまで無視、決め込むつもりなん?」
一方的に話すのがつまらなくなったのか、荒田は木下に返答を求めるも木下は、ちょ、待て!と言って文字を打ち込むのに専念した。
「ほなそれが終わるまで俺、独りで話しとくわな?」
「あのさ、木下って毎日何が楽しくて生きとん?いや、別に深い意味は無いんやけど......お前って今彼女おらへんのやろ?仕事終わって飲み誘っても来んし、休みの日だってどうせ家におるんとちゃうん?」
「荒田、お前さ何か悩みでもあんの?」
「......へ?」
木下は打ち終わり、スマートフォンはいつの間にかズボンのポケットに入っていた。そして、煙草の煙を思いっきり吸い込みゆっくりと吐き出した。
「別にさ、楽しみが無くても生きなあかんから生きとるだけや、そりゃ、毎日つまらへんで?だけど、いつも朝には吸い終わるはずの煙草が残っとたり、たまたまその日がキャンペーンで無料の飲み物が貰えたり......そんな事でも俺は生きとって良かったって思うで?」
「......」
「お前にとったら小さい事かも知れへんけども、俺にとったら大きな事なんや。幸せは人それぞれや」
そこまで話終えると、あのーと声がした方を2人で見ると、木下のチームメンバーの1人がどうやら帰りが遅い木下を呼びに来たらしい。直ぐ行くよとだけ言うと荒田に向き直り、
「ま、何かあったみたいやけど、人間は嫌でも寿命が尽きるまでは生きなあかんのやで、つまらん事を話してたまに笑って、時間を潰すしかねんだよ。そしたらあっという間やで!」
そう言い放つと木下は足早に喫煙所を後にした。
「木下、お前ってやっぱり、スゲェは」
荒田は誰もいない喫煙所に座り込み、そう呟いた。
「はい、では今日はここまでにしましょう」
木下の一言で他の部署の社員は各々に挨拶をし、会議室を後にした。
取引先の新しい担当者に木下と数名の社員が、今後もよろしくお願いいたします!と言うと、相手もよろしくお願いいたしますと同じように返事をし、会議室を後にした。
「ふー、疲れた」
「あれ?木下、終わったん?」
「あぁ、荒田、うん、今終わった」
今日はよく会うなと思う。だが、先程の話を思い返すと何だか気まずくなり、荒田に背を向けて煙草に火を付けた。すると、ほれ!と背中に何か投げ付けられ、何やねん!と振り返ると下見ろ!とジェスチャーで伝えて来た。木下は素直に下を見ると、自分が吸っている真新しい煙草が足元に落ちていた。
「さっきは、ありがとうな、お陰で少し気が晴れた」
と言って荒田は喫煙所を出て行った。
その後、木下は部下の黒木から、
「荒田さんのお母さん、今朝亡くなったみたいなんですよ。しかも、今まで取り組んでいた企画も駄目になったみたいで......」
「へぇ、そうなんや」
木下は声に出さずに、お悔やみ申し上げます言うと退勤の準備を始めた。
朝から最悪な事と良い事が交互に続いたからなのか、それとも不思議と言えば良いのか、取り敢えず木下はいつも以上に疲れた顔で、日がすっかり沈み暗い道を歩いていた。すると、道の真ん中でこの道唯一の街灯に照らされ蠢く黒い何かを見てしまった。
「え、何!?」
少し離れて様子を見ていると向かい側から車が来るも、その黒い何かを目の前にして一度止まり、徐行運転に切り替え黒い物体を踏まない様に進んで行った。
「......嘘やろ」
車が完全に通り過ぎたのを確認してから近付き、胸ポケットに入れたままのペンで突くと、その黒い何かがピックと動き消えそうな声で、
「......にぃ」
「ね、こ?」
その黒い何かとは、まだへその緒が付いたままの仔猫だった。
「確か母猫が......」
木下は保護猫団体が経営しているSNSで【子猫を見掛けたら】という動画の事を思い出した。だが、そのまま置いておこうとするも、この道は夜は車の交通量は少ないが朝になると猛スピードで走る車が多い。それに近くにはゴミ捨て場もあり、明日は回収日。朝になれば猫の天敵でもあるカラスだって多い。
そこまで考えを巡らせ、鞄からハンドタオルを取り出し仔猫を直接触らない様に包み、
「ごめんやで、母親と離れ離れにしてまうけど、許してや?」
とハンドタオルに包まれている子猫に一言詫びを入れ、足早に家へと向かった。
家に着くなり木下は直ぐに、洗浄したカップ焼きそばの容器にその辺にある部屋着を敷き詰め、その上にハンドタオルに包んだままの仔猫を置いた。そして、今年の冬に使い切れなかったカイロを引っ張り出し、直接仔猫に当たらない様に置くと直様に今朝見ていたアカウントへダイレクトメールを送った。
【初めまして、何時も動画を拝見しております、Kです。
突然のDM申し訳ございません。
どうしてもお聞きしたい事があり、こんな時間に送らせて頂きました。
先程、まだへその緒が付いたままの仔猫を保護したのですが、今後も自分で面倒を見ようと思ってます。
今、直接当たらない様にカイロで暖を取っている所なのですが、この後どうしたら良いのか教えて頂けませんでしょうか?
よろしくお願いします】
そう打ち終えると、フーっと深呼吸をし、そっとタオルを捲ると、何かを探しているのか前足を動かし消えそうな声で、にーにーと鳴いている仔猫。
「腹、減ったよなー、仔猫って何飲むんや?」
便利な世の中やなと、ボヤきながらスマートフォンで検索を掛けると【代替ミルク】と記載されている記事を見つけた。そこに記載してある通りに代替ミルクを作り、必死に泣いている仔猫の口元にガーゼでミルクを染み込ませ持って行くと、はじめは舐めるだけが次第に弱いが吸うようになった。
「美味いか、良かったな」
「......」
「にしても、元気やな」
1時間掛けて作ったミルクを全て飲み終えた仔猫はミルクを飲んでいたそのままの状態で寝てしまい、窒息しないようにと木下は静かに仔猫の顎の下にタオルを弾き、息がし易いようにしてやった。
「せて、返事は明日や......え、もう着とる、早っ!!」
スマートフォンの画面には後数分で日付が変わる時間の下にSNSからの通知の報せが映っていた。木下は急いで確認をすると先程の木下の内容よりも倍の長さが返って着ていた。
【Kさんへ
はじめまして、猫保護団体ニャン吉の内田です。
今回、仔猫を保護して頂きありがとうございます!
そして、仔猫と一緒に生活して下さると言う事で......
本当にありがとうございます!!
早速ですが、今後の事についてお話します.......】
木下は内田からの指示通りに確認を行い、
【明日、休日ですが1件だけやっている動物病院を見付けたので行ってきます】
と返事を変えし再び仔猫の様子を見ると、また鳴き始めた。そして、少し多めに作っておいた代替ミルクをガーゼに染み込ませ飲ませた。
結局、仔猫に2時間おきにミルクを飲ませ、幾ら徹夜慣れしている木下でも朝方になるとそのまま意識を失うかの様に眠りについた。
閲覧ありがとうございます!!
1話1話長いですが、
どうぞ、最後までお楽しみください!