11 黒猫
互いに腰に手を回したまま腰を反らせ、少し離れて自然と見つめ合う。見上げる格好のエリーはじっと上目遣いにこちらを見る。
彼女の潤んだような瞳に、わずかに開いたみずみずしいその唇に、ついつい目が行ってしまう。そして先ほどの男爵の言葉が、不意に脳裏に浮かぶ。
あなたのそれは、まさに女の魔性のそれですね――
いやいやいや、周りに仲間もいるんだぞ。ああでもダメだ。抗えない何かが、確かにそこにある……! そんな時だ、ふいに引っ張られる感覚に、意識が引き戻される。
「のうのう、主よ。我の登場タイミング。絶妙だった気がしておるんじゃがのう?」
みるとクロエが袖を引っ張ってドヤ顔を見せている。助かったー! クロエに答える格好でエリーと離れる。彼女の表情が少し不満げに見えたが、見なかったことにする。……見なかった!
「いやあ、まさに阿吽の呼吸って奴だよ、ホント助かった。ありがとな、クロエ」
途端にクロエの表情がニマーっと笑顔になり、得意気に話し出す。
「そうじゃろう、そうじゃろう。むふー、なにせ我は主が何をやっとるのか手に取るように判るのでな! ほれほれ、もっと誉めそやしても、良いのじゃぞ?」
「さすがだな! こちらの様子がわかるとは、契約というのはやはり便利……」
ん? こちらの様子がわかるってのは、なんでも見られているということ、なのか?
「なんじゃ急に黙り込んで。いかがしたのじゃ?」
「いや様子がわかるということは、俺が普段やっていることは……?」
「うむ、大体知っておるぞ。ただ……」
「う、うわあああああ!!」
行動のすべてが見られている……だと!? あんなこととか、こんな事とかも!? 嘘だろ、これは恥ずかしすぎて死ねる。
「な、なんじゃ突然。心配せんでも我が意識を向けておらなんだら様子などわからん! お主が娘と夜中にこっそりイチャイチャしようが何しようが知ったことではない! ……興味が無いと言えば、嘘になるがの」
そ、そうか。四六時中見られるわけじゃあないんだ。ならセーフ、か? ……ん?
「ちょっと待て。今の流れでなぜ俺が夜中にこっそりイチャイチャしてるって話題になるんだ?」
「ん……? それはー、その。……そう! 物の例えじゃ」
「のぞき見は、あまり趣味がいいとは言えないぞ? クロエ」
「わ、わざとじゃないんじゃたまたまなんじゃ! 夜中に散歩に行ったから何やっとるのかなって気になっただけなんじゃあ」
こいつ、夜中のエリーとの散歩を覗き見しやがったな!?
「やっぱりお前あの夜のこと……!」
「ふえっ、許してたも。……っていうかたまには我のことも褒めよ! 今は我にちやほやして、よしよしする時間なのじゃあ~!」
ここで逆切れかよ。
「わかった、わかったから泣くなよ……」
ったく、今の事実が衝撃的過ぎて、こっちが泣きたい気分だよ。
覗き見防止の道具とかあるはずだ。絶対準備させよう。俺のプライバシーのために。
次はエルザとライザに向き直る。彼女たちだが今はすっかりもとに戻り、しょんぼりと床にぺたんと座り込んでいる。珍しい様子だからか、ビルも先ほどからライザから離れようとしない。
「さて、お次はお前たちだが……」
「ご、ごめんなさいご主人様……」
ライザが泣きそうな表情で見上げ、謝ってくる。なんだよ珍しいな。いや、そもそも多分彼女たちに過失はないと思っているから、そんなに恐縮しなくてもいいんだが。
二人の前にしゃがんで目線を合わせる。
「そんな謝らなくていいぞ。ただ、気が付いていたら二人が倒れていた状況だったからこっちも困惑してな。一体何があったんだ?」
「そ、それがルーレットをしているときにボーイから飲み物を受け取って、美味しいねってお姉ちゃんと話したところまでは覚えてるんだけれど……」
「気づけばあの有様でした。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません、ご主人様」
エルザも珍しく気落ちした様子で頭を下げる。
竜種をも短時間で昏倒させる代物が存在するということか? 後で生きてる連中を締め上げて吐かせよう。
「いや、未知の品ということならお前たちばかりを責めるわけにはいかない。気にするな。そんなことより、みんな無事だったんだから問題なし! ……っとそういえばミミは」
「ここにいるよ~、みんな大変だったっぽい?」
彼女はひらひらと手を振るとこちらに近づいてきた。
「完全に他人事だな」
「それちょっとヒドくない? ウチは斥候だから、そもそも表に出ることがダメっしょ。ガチンコ中は役に立たないから引っ込んでるし」
ミミは腰に手を当てながらぷう、と頬を膨らませる。彼女の役割からすればむしろ自然か。
「確かにそうか、すまん。で、首尾は?」
今度は肩をすくませながら苦笑いを返す。
「麻薬がらみの流れはわかる帳簿、っていうのかな。そういうのはあったよ」
「歯切れが悪いな。じゃあそのほかがイマイチってことか」
「正直、あんまり。用心深いヤツって言うんだろうね、他に目立った物っていうのが逆に無いんだよね……机の下からこれ見つけただけ」
そう言ってピッ、と取り出したのは一通の封書……の封筒だけ。
「……ん、オルレーヌ語、か? しゃ、しゃのあ? なんだ?」
「シャノワール。黒猫って意味ね」
覗き込んできたエリーがさらりと答える。ふわっと漂ういい匂いに心がざわつくが、同時にちょっとくやしい。
しかしここでも帝国か。送り主はそれだけ。真っ白な封筒に、ありふれた封蝋が施されている。
「封書の類は他には?」
「結構数あったよ。持ってくるの面倒だったから後でもいいかなって。ただそれだけやたら上質だったから、気になって」
そう言われて見直してみると確かに真っ白で肌触りがやたらいい、ヨレてもいない厚めの紙で作られている。ピンと張った封筒の角が、造りの丁寧さをも示している。普段使うであろう他の物と比べ、その質は明らかに抜きんでていた。
「オルレーヌ語圏の送り主に上質の封書……」
先の子爵に続きここでも帝国の影、か。
「あとはギルに調べさせよう。特に封蝋は帝国の主要な家のものも併せて。……恐らくどの家の紋にも該当しないだろうが」
「なんでそう言い切れるのダンくん?」
「仮に秘密にしたい通信なら、ここに関係を匂わせるものは残したくないでしょ? だから仲間内でだけ通用するシーリングスタンプを使っていると考えるほうが自然よね。つまりどの家にも該当しないということは、秘密の通信に使われていた可能性が高いと言える……ということでしょ兄さん?」
「その通りだエリー。……ま、そんなこと、あって欲しくは無いんだが」
翌日。男爵が死んだことを受け、縛りが無くなった近衛が続々と街に入った。街の暗部を知る者は固く戸を閉じ、表に生きるものは見世物のごとく騎士たちに歓声を上げる。
俺たちが逗留する宿を、ギルバートが訪れたのは夕刻になってからだった。一通りカジノと男爵、そして麻薬の件の報告を受ける。証拠もしっかり押さえられたということで、販路の摘発に乗り出すとのことだった。
「ただ、上流側……仕入れ先については秘匿されており難航が予想されます。封筒の件も、やはり該当する家紋は王国、帝国内それぞれに該当するものはありませんでした」
「予想できたことだ、残念だが。まずは麻薬流入が止められたことを喜ぼうじゃないか」
「そうですね、大変な成果かと。男爵についての報告は以上です。次に公共投資……橋の件についての報告をさせていただきたいのですが」
同じような規格で同時多発的に提案されている橋の件か。財務卿が気をもんでいるようだがいったい何が飛び出すやら。頷くとギルバートは別の資料を取り出し報告を始める。
「こちら、結論から言うと限りなく黒に近いグレーです。見た目は若干異なりますが、構造材の規格は全く同じ。工法も然りで、上部の意匠のみ変えているようです。単なる目くらましですね。予算価額は適正、もしくは少し安価かと」
「ここまでだと別にいいじゃないか、という話になりそうだな」
「ええ。次に仕入先と施工業者です。これらは各貴族で異なりますが、上流をたどると一つの商会にたどり着きます」
「なるほど。その商会が規格を統一して単価を下げた、と言えなくもないな」
「おっしゃる通りですがここからが本題です。これらの橋、各貴族から出されているためわかりにくいのですが、地図に落とすと一目瞭然です」
そう言ってギルバートは王国の地図を広げた。申請のある橋の位置を淡々と並べていく。やがて考えたくない結果が机上に現れた。
「これは……帝国国境から我が王都までの最短ルートばかりじゃないか?」
「さようです。今回の橋の件、諸侯が意図的なのか提案のまま計画したのかはともかく、何処かの意思が介在していると考えて間違いありません。そしてそれを主導しているのが仕入先の頂点に立つ商会――」
「――ヒルソン商会……か」
ヒルソン商会。それは双子の実家。つまり俺は、これから彼女たちの生家を調べ――そして恐らく廃さなければならない。
「いかがされますか? まさか手心など」
「無論、無用だ。いつも通りに行く。いいな」
ギルバートは一礼をして部屋を出ていった。
一人になって考える。この報告を聞いてもなお信じられない気持ちと、やはりか、という思いがないまぜとなっている。このことを双子にどのように伝えるべきか。
「ありのまま、伝えるしかないだろうなぁ……」
立ち上がり、窓の外を眺める。カジノの灯が落ちたリヒハイムは、ひどく寂しい。
◆◆◆
近衛長のスペシェから、会談相手が死亡したと聞かされたのは驚きだった。が、続けて死因が愚王に討たれた為と聞かされたことの衝撃に、しばらく言葉が出なかった。
「では、男爵家は」
スペシェとベリータは膝をつき、頭を下げている。
「はい、シルヴェーヌ皇女殿下。残念ながら、即刻御家取りつぶしとのことです」
「頭を上げてください。……しかしなんてこと。先日のトラントフ卿といい今回といい、愚王は愚かなだけでなく暴虐でもあるのですね。……それで、フックス卿の取りつぶしの理由は?」
「なんでも王家に逆らったから、ということらしいのですが詳細は。男爵家の者はことごとく死亡、あるいは騎士団に捕らえられているため、情報が入ってきません」
本当に情報が無いのだろう。突然の出来事だったに違いない。逃げ出してきたものも居なかったということは、愚王は徹底的にフックス卿をつぶしにかかったのだろう。
カジノは確かに良い物とは思わないが、必要悪と捉えてもよいのではないのかと考えている。さらに税収も見込めるのだから、排除する理由には程遠い気がする。
……ただ本当に気に入らないという理由で、というのも納得感が増す。
「そうですか……。気に入らないとなれば容赦なく切り捨てるとは、どこまでも度し難い。……スペシェ殿。今後は後れを取らぬよう。可能であれば先んじて賛同者の保護を。いいですね」
「御意」
「しかし妙だと思いませんか?」
「妙……とは、いかがされましたか」
「トラントフ卿の街の民のことです。翌日街を巡りましたが、領主が居なくなったというのにあの喜びよう。違和感があります。何か裏がありそうな気がするのですが……。どうしました、スペシェ殿」
私が話すうちに表情がどんどん険しくなって、何かしら考えごとをしているようなそぶりを見せていた。声を掛けるとハッとこちらを見ると慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません。つい考え事を」
「よいですよ。しかし、どうやら計画も急がねばならないようですね……」
一通り打ち合わせが終わると近衛長とベリータは一礼し、部屋を後にした。
しんとした部屋。一人窓際に立ち空を見上げる。ため息を一つ。空には私の気持ちを代弁するかのような、どんよりとした雲がたれこめている。
そういえば先日のノーウォルドの商人。名をダンと言ったか。あれほどまっすぐな性格だと、さぞ商売もしにくいだろう。この街での商談はうまくいったのだろうか。
「ダン……様」
囁くように彼の名を口にしたとたん、胸がほんのり暖かくなる。
「あのようなお方が、王国にも増えればよいのですが……」




