36 利害の一致と隠れた思惑
――私は一体、何を聞いているというの?
これは夢なのではないのかしらと何度も疑った。しかし今、扉の向こうから漏れ聞こえてくる内容は幻想でも、幻聴でもなく紛れもない現実だった。
パトリック様に会いたい一心で深夜に部屋をこっそり抜け出し彼の部屋に来たものの、扉の隙間から漏れ聞こえてくる内容は普段の彼の仕事とは似ても似つかないものだった。
「マルテル閣下は確かにそのように?」
パトリック様の声。マルテル閣下とは……? 我が国にマルテルなどという貴族や軍属は居なかったはず。「閣下」と言っている以上、その辺のいち兵卒のことを指していないことは明白だ。
「ええ。リチャードソン大尉……や、宮廷伯殿。次の作戦終了後の参謀会議にて、伯の昇進が推挙されることとなっております。ただ……」
「大尉」? 少なくとも我が国の官職にそんな役職はない。一体どういうこと? 次の作戦? 何のことを言ってるの?
「ただ?」
「いや、なに。伯の能力を疑ってはおりませんが、此度の作戦が仮に失敗することがあれば、当然この話は無しです」
「何を言うかと思えば。北鷹騎士団を実質瓦解させた時点で大勢はほぼ決しているではないか。あとは蛮族の流入を喧伝し危機感をあおったうえで議会内を……」
良く聞こえないと思ったのがいけなかった。扉に近づいた拍子に袖が扉に触れ、衣擦れの音を立ててしまった。
「誰だ!?」
パトリック様が鋭い声が掛けた。間を置かず扉が勢いよく開く。きっと私は間抜けな表情を浮かべていたことだろう。
「あ、あ……パトリック様。ごきげんよう。遅くまで軍議ご苦労様です」
ようやく発した言葉がこれ。白々しいったら。
「タリン姫!? こんな夜更けに。いやそれより、今の我らの話を?」
驚いたような表情も素敵だわ、と思ってしまった。こんな時にもそんな感想がでるとは。自分の浅はかさを恨む。
「え、ええ、申し訳ありません。ちょっとだけ。あの、騎士団を瓦解させた、とは」
余計な事を! パトリック様の表情がわずかに歪む。ご機嫌を損なってしまったわ。いやそれどころか、少しまずいことになるかもしれない。
「ふたりきりで少し話さないか、タリン」
「え、でも。よろしいのですか? お忙しいのでは」
「いや話はもう終わったんだ。……ご苦労。下がっていいぞ」
同席されていた男性の文官が一礼をするとスルリと部屋をあとにした。そうやって見ると普通の文官の足運びではない、かもしれない。
招き入れられるままに、部屋に入ってしまった。
彼は静かに扉を閉めるとこちらを振り返った。いつもの優しい表情のパトリック様。
身体に障るだろうとベッドに腰掛けるよう促す。私が座ると彼はその隣に腰掛ける。揺れるベッドにドキリとさせられる。直後彼から情熱的なキスを受けた。
ひとしきり確かめ合った後、ゆっくり離れる。腰を抱かれ耳元でささやかれるのでとてもくすぐったい。そして身体の芯から熱くなってくる。
「久しぶりに会えたね、嬉しいよタリン。お腹の子は順調かい?」
「わたしも嬉しい。もちろん順調ですわ。……ところであの、先ほどの会話は」
その言葉に表情を曇らせる。やはり良い話ではないのでしょうね。
「どうしたらいいか迷ったんだけれど……やはり君には隠し事をしたくない。正直に話そうと思う。落ち着いて聞いてくれ」
とりあえずもう、頷くしかない。
「ありがとう。実は私は帝国の士官。王国の内情を調査するために派遣された者だ」
帝国。わが王国の東に国境を接するオルレーヌ帝国、その士官ですって?
「そ、そのような者が我が国に」
頭の隅で想像はしていたけれど、本人の口から言われるとやはりショックだった。けれどきっと訳があるんだろう。私は彼を信じたい。
「まずは私の話を聞いてくれタリン。帝国は長きにわたって王国と敵対していることは知っていると思う。ちょうどいい機会だから君にだけ話しておきたい」
「敵国の者の話など」
思わずベッドから浮く腰を彼の腕ががっちりと抑えている。そのまま強く抱きしめられて心が大きく揺れる。
信じたいけれど敵国人。一体どういう目的で私を……。
「待ってくれ。これは私たちにとってとても大事なことなんだ」
「大事な、こと?」
「ああ。近いうち、帝国は大規模な軍を率いて王国に攻め込む算段をしている」
「なん、ですって……?」
パトリックはまっすぐに見つめる。その瞳に偽りの色は見えない。
「現状の戦力差では正直いって王国に勝ち目はない。だからこそ今、君に話している」
「どういう、ことですの?」
「私は君を失いたくない。確かに私は帝国の軍人だ。しかしそれ以上に、君と添い遂げたい、そう思っている」
「それは私も、想いは同じでございます。けれど」
「私が今この話を君に話した意味を考えて欲しい。このまま帝国に攻め込まれてしまって、もし君が囚われるようなことになれば。かなりの確率で命を落とすになる。それはわかるね」
「確かに敗戦国の王族の末路など、想像するまでもないことはわかります。でも」
「そうだね、君が家族を大事にしたい気持ちもわかる。だけど今の王国の政治はどうだい? 無能な議会に文官、使えない騎士ども。腐敗も蔓延して……とてもいいとは言えない。違うかい?」
「それは……」
「聡明な君ならわかっているはずだ。この国はもう持たないことを。生まれ変わる必要があるということを」
「た、たしかに……。もしかして、それをパトリック様が主導を?」
「ああ。帝国は現王政を打倒したあと、新たな王を立てようとしている。それが君だ」
「私を、王に? でも私にできるかしら」
「大丈夫。私が支える。それにお腹の子はボクとの子。帝国の属国になるというのなら、これほど頼もしいこともない。君は何も心配する必要はない。だから協力してくれ」
お腹の子という言葉に冷や水をかけられたような気になる。そんな子はもうどこにもいない。もしパトリック様の言うとおりの状況になって、お腹に子がいないと知れたとき私は無事で済むのだろうか。
――しかし同時にこのプランは非常に魅力的でもある。なにせあの姉たちを完全に出し抜くどころか亡き者にできるのだ。常に私を見下し蔑んだ二人の姉。あれらの泣きっ面も拝めるということ。
さらに私が王位につけばそのほかの気に入らない連中も併せて排除できる。まさに私にとって最良のプランなのかもしれない。
考え込んでいるところを逡巡しているかのようにとらえられたのか。パトリック様が抱きしめてくる。
「どうしたら信じてくれる? 肌を合わせれば、君の不安も消えるだろうか」
「あ、だ、だめですパトリック様。侍医から止められております」
「ごめんタリン。君の不安を消す方法を他に思いつかなくて。それにこうして君と二人きりだと、どうしても君のぬくもりを感じたくなる」
「でも……いけません」
「少しくらいなら大丈夫さ。激しくしない。約束する。だから」
その時黒い考えが頭をよぎる。また妊娠してしまえばすべて問題ないのでは――?
灯が落とされた部屋。
恋焦がれた夫となる人の腕に抱かれ、けだるい身体を横たえる。先ほどまで求め合った熱がいまだ冷めやらぬ中、しっとりと汗がにじむ頬を撫でながらパトリック様が微笑みかけてくれる。
「ありがとうタリン。とても素敵だった。ずっと一緒だよ」
「うれしい、パトリック様。いつまでもおそばに」
しばらくそのまま髪をなでられたりゆるりと抱きしめられたり触りあいっこしたりと幸せな時がつづく。
久しぶりの二人だけの時間。夢のような時間。
そんな折、不意に彼が声を出した。
「そうだ。実は君に頼みたいことがあったんだった」
「なにかしら? 私にできることならば。……もしかして、もう一回?」
「ははっ、それもすごく魅力的な提案だけれど。これも君にしかできないことだよ。北鷹騎士団の首脳と顔をつないでほしい。いざとなった際に君を守るようにお願いをしておきたいんだ」
「そこまで私のことを……うれしい。団長のギルバート? それなら明日にでも」
「そうだな……この件は副長がいいかもしれない。ほら、団長はいま蛮族掃討で大変だろうから」
「確かにそうね。この間は尻尾を巻いて逃げてきたって話だから、次はないものね。必死にもなるわ」
二人してシーツを被りくすくすと笑う。くすぐったい時間。とても好き。
「頼んだよ、君だけが頼りだ」
「任せて。あなたのためなら、なんだって頑張れるわ」
その言葉に彼はにっこりと微笑みかけてくれて――もう一度やさしく愛してくれた。




