『休憩』のお誘い
うららはドスドスと地面を踏み抜きそうなほどの激しい音を立てながら騒ぎの中心へと近付いていく。そして、今にも至に掴みかかりそうな男の身体を勢いよくエントランスの壁に追いやった。
「⋯⋯ッ!?」
受け身が取れずにバンッと壁に肩を打ち付けた男。突然の衝撃に理解が追いつかないのだろうか、目を白黒させている。
一瞬の間の後、『ユミ』と呼んでいた彼女の声でハッと我に返った男は、ギッと鋭い目付きでうららを睨み付けた。
「いきなり何なんだよ、お前!!」
「ハァ⋯⋯? 何なんだよはこっちのセリフなんですけどォ~?」
「いきなりでしゃばって来やがって! 関係ねー奴が邪魔すんじゃねーよっ!!」
「関係ならありますけど? っていうかさァ~⋯⋯? そういうのは家でやれよ。こんなくだらない事で至センセーの手を煩わせんな」
うららは自身のこれまでの行いは棚に上げて男の胸ぐらを掴み、ガンを飛ばした。そのあまりの迫力に男はブルブルと震えている。
そして、うららの顔を見た男はハッと何かに気付いたようすで口を開いた。
「ヒィッ⋯⋯! まっ、まさかお前は⋯⋯っ、壁ドンのっ⋯⋯⋯⋯!!」
「はァ⋯⋯? 壁ドン?」
先程までの威勢はすっかり鳴りを潜め、今では情けなく震える男が発した言葉にうららは全くと言って良いほど身に覚えが無かった。
「せ、先月⋯⋯昼休み、廊下で⋯⋯っ!!」
「⋯⋯!」
先月、昼休み、廊下————。
男がたどたどしく言ったその3つのワードで漸く合点がいった。
(⋯⋯⋯⋯憎ッき夏川と会った日だ)
あの日はただ陽葵に関する情報を聞き出しただけなのだが、男の様子を見るにどうやら噂は随分と誇張されて広まっているようだった。うららはそれならば好都合だとニヤリと口角を上げる。
「⋯⋯だったらさぁ、分かるよねェ? 今すぐセンセーの言う事聞かないとどうなるか」
「ひッ⋯⋯ヒイィ⋯⋯!!」
男は先程から声にならない声を上げるだけで、すぐ近くでことの成り行きを見守る彼女の存在も忘れてしまっているようだ。
(これじゃああたしが虐めてるみたいじゃん⋯⋯)
怯えるカップルを見て多少胸が痛む気もしたが、これ以上至との時間を削られるわけにはいかないとうららは心を鬼にする。
「何がとは言わないけど潰されたくないなら今すぐセンセーに謝れ。そして、速やかにこの場を去れ」
耳元で囁くようにそう言った。
「ヒ⋯⋯ッ!」
男は一層激しくぶるりと身体を震わせると、「すみませんでしたアァァァァア!!」と言い残して走り去って行く。
後に残ったのは彼女のみ。ユミはギッとうららを睨み付けると彼氏の名を叫びながらその後ろ姿を追うのだった。
✳︎✳︎✳︎
「なんだか君には助けられてしまいましたね。今回は僕だけでは穏便に解決する事は出来なかったと思います。⋯⋯教師として情けない限りです」
うららは至の声に弾かれたようにくるりと振り返る。その顔は先程までの凄んだ表情から一転して、恋する乙女の表情へと変貌を遂げていた。
「そんなことないよっ! いつもあたしの方が助けられてるから少しでも恩返し出来てよかった⋯⋯!!」
うららは男との会話を至に聞かれていなかった事にホッと胸を撫で下ろす。
「何はともあれ助かりました、常春さん。ありがとうございます」
「⋯⋯ううん、いいのっ♡」
「怖かったでしょう?」
「うんっ、ちょっと怖かったけど大丈夫だよ♡」
猫なで声を出しながら上目がちに至を見つめる。実を言うと、全く怖くは無かったのだが、少しでも至に好かれようと、思わず守ってあげたくなるか弱い女の子を演出するうららだった。
「それはそうと⋯⋯君は何故こんなところに居るのですか?」
「えっ⋯⋯!?」
その一言でうららはたじろぐ。
先程までのふわふわした幸せな心地から打って変わり、冷や水を浴びせられたようにサァッと全身の血の気が引く。
この作戦を決行したは良いものの、目先の欲に囚われるばかりで口実などは一切考えていなかったためだ。
「う、う~ん⋯⋯なんでだろ? そっ⋯⋯それよりもセンセー! あたし、ちょっと疲れちゃったなぁ⋯⋯?」
うららはしどろもどろにそう言いながら、目の前に佇むラブホテルを見やる。
「あっ⋯⋯! ここに『休憩』って書いてるよ? ね、センセー! ちょっと休憩していこうよ!!」
「⋯⋯⋯⋯」
「何ならあたしは宿泊でも⋯⋯♡」
「⋯⋯⋯⋯」
壁に取り付けられたプレートに刻まれた文字を指しながらそうのたまううららを、至はじいっと無言で見つめていた。
「⋯⋯常春さん、この場所は君にはまだ早いです。さあ、僕が送りますからゆっくり帰りましょう」
「!!」
(さすがにこれはダメかぁ⋯⋯。でも、センセーと一緒に帰れるっ!!)
多少の想定外はあったものの、概ね作戦通りに至との2人きりの時間を作ることに成功した。うららは心の中でガッツポーズを作る。
(やっぱり、あたしは正しかったんだ⋯⋯!!)
しかし、喜びも束の間、至の言葉を思い返してみると引っかかるフレーズがある事に気が付く。
(っていうか、センセー! あたし《《には》》早いって何!? ここにうらら以外の女と来た事あるってこと⋯⋯!?)
新たな不安が生まれたうららは悶々とした気持ちで至の隣を歩くのだった。
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