もう少しだけ、このままで。
暫しの沈黙の後、思わず顔を背けたくなるほどの真剣な表情で呉羽は言った。
「なあ、うらら。⋯⋯俺が好きな人、本当に分からない?」
「⋯⋯⋯⋯っ!」
真っ直ぐにうららを見つめ、そう言い放つ呉羽。彼の真意に気付かないほどうららも鈍くはなかった。
再び、薄暗い室内を支配する静寂。
隣の部屋から漏れ聞こえるバラード調の曲に乗った歌声と、テレビに映るアーティストたちの賑やかな話し声————。
それらが遠くの喧騒に聞こえるほど、うららの胸の鼓動はバクバクと激しく脈打っていた。
まるで全身が心臓になってしまったと錯覚してしまう程に耳元で心悸が煩く鳴り響き、身体中の血液が沸騰する。ザワザワと落ち着きなく騒ぎ立てる心胸に思わず耳を塞ぎたくなった。
うららはギュッと目を瞑る。呉羽は一向に答えようとしないうららの顔を覗き込むようにして、更に距離を詰めて来た。
「うらら⋯⋯?」
「うっ、うるさい⋯⋯っ!」
うららは動揺と羞恥心からそんな呉羽に思わず心ない言葉をかけ、力の限りに彼の身体を押し返した。
「⋯⋯⋯⋯!」
「⋯⋯あ⋯⋯っ」
ハッと我に返ったうららは、直ぐに呉羽を見やる。
うららの反応に一瞬傷付いた顔をした呉羽。しかし、直ぐにまた口を開こうとする。
「なあ、うらら⋯⋯俺は————」
「わーーーーーーっっ!!!!」
それからの事はよく覚えていない。ちょうどその時、5分前を知らせる電話が鳴った。うららはこれ幸いとその電話に飛び付き、伝票を持って急いで部屋を出る。
そして雷光の如く一直線に会計まで駆けた。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
建物を出ると、春の冷たい夜風が頬を撫でる。
気不味いながらも家が隣同士のため、共に帰路につく二人。
うららは呉羽の言葉をそれ以上聞きたくなくて、必死に話題を絞り出す。呉羽も何かを察したのか先程の一件に触れる事はなかった。
✳︎✳︎✳︎
「どうしよう⋯⋯⋯⋯」
うららは自室の机に頬杖をついて悩ましげにため息を漏らした。
『なあ、うらら。⋯⋯俺の好きな人、本当に分からない?』
気を抜けば幾度となく、カラオケでの事が頭を過ぎる。
真っ直ぐにうららを見つめ、そう言い放った呉羽。その真剣な顔と言葉で彼が言わんとしている事が分かってしまった。
「これから、どうすればいいの⋯⋯」
うららは再び大きなため息を吐く。
(呉羽の気持ちは正直嬉しかった。でも————)
うららの答えは既に決まっている。
しかし、それを今すぐに呉羽へと伝えるのは憚られた。
それは、長年培って来た幼なじみという心地よい関係を壊したくないという、うららの身勝手さであり臆病な本心。そんな自分にほとほと嫌気がさした。
今はまだ、呉羽が決定打を口にしない限りはこの生温い関係を続けて行きたい————。
(⋯⋯っていうか、呉羽知ってるよね!? あたしが至センセーを好きだってことっ!!)
一度好きになってしまえば、たとえどんなに見込みが無いとしても気持ちは止められない。それはうららが一番分かっていた。
しかし、追い詰められたうららの怒りは理不尽にも呉羽へと向いてしまう。
(至センセーとのことでもいっぱいいっぱいなのに⋯⋯呉羽のバカっ!!)
最近は至とも上手くいっていないところに新たな悩みの種がもたらされ、うららの心はぐちゃぐちゃだった。
「今日はもう寝よ⋯⋯」
気持ちの整理をする為に頭を休めようと就寝の準備を始める。煌々と頭上で輝く電気を消し、布団に潜り込んだ。
しかし、瞳を閉じても意識が暗闇に呑まれることは無かった。
時間が経った今でもありありと思い出す呉羽の真剣な表情や息遣い、砂糖菓子のように甘ったるい声。
(今までずっと弟みたいに思ってたけど、呉羽もやっぱり男の子なんだよなぁ⋯⋯)
ボンっと音を立てて真っ赤になったうららは忙しなく、ベッドの中で幾度も寝返りを打つ。
「ゔぅ~⋯⋯⋯⋯」
うららは時々唸り声を漏らしながら、もんもんと眠れない夜を過ごすのだった。




