07.密談 ステラリア
怒涛の一夜が明け、翌日。
ステラリアは、自分が平静でいられるか自信がなかった。目が冴えて少しばかり眠れなくてふらふらしたものの、緊張感を胸にどうにか学園に辿り着く。
「おはよう、ステラリア嬢。昨日、うちに扇を忘れていったよ。テーブルの下に落ちていたみたいだ」
しかし、レイルは何事もなかったかのように、いつもの完璧王子様姿で、真顔のまま挨拶をし、扇を差し出してくる。
昨日のことは、本当に自分が見た夢だったのではないかと思うくらいに。
それもそのはず。あのような姿をステラリアに見られただなんて、レイルは知らないのだから当然だ。
「……おはようございます、レイル様。まあ、私ったらうっかりして。ありがとうございます」
だから、ステラリアも、肩の力を抜いて扇を受け取り、とりあえず普段通りに振舞うことにした。
* * *
内密にと屋敷に招いたマクベスは、可哀想なくらい顔を青ざめさせて、応接室の椅子に腰を掛けた。
さすがに侯爵家ほどとはいかないが、それなりに品のある落ち着いた内装は、母親による采配だ。窓からはのどかな中庭が伺え、ステラリアの好きな花が植えられている。
ジャスミンが紅茶を配膳し、ステラリアの背後に立つと同時に、マクベスはがばりと頭を下げた。
「この度は私の失態で、我が主のあのようなお姿をお見せしてしまい、誠に申し訳ございませんでした!!!」
床に膝をつき額をこすり合わせんばかりの勢いに、ステラリアもジャスミンも目をぱちくりと瞬かせてしまう。
「落ち着いて、落ち着いてください、マクベス様。頭を上げて? 別に咎めようと思って呼んだわけではないのです」
「……そうなのですか? 私の落ち度のせいで、お二人の間に亀裂が入らないかと気が気でなくて……!!」
そろそろと面を上げたマクベスは、このまま腹でもかっさばきかねないほどに鬼気迫っていた。
マクベスとも長らく顔を合わせてきたが、あのレイルの意図を汲み、的確なサポートをしている忠誠心溢れる有能な側近が、ここまで狼狽える様もなかなかない。それほどまでに、彼にとっては手痛い失態だった。
学園でレイルに付き従っていた時も、マクベスは死刑判決を待つ罪人のような顔をしていた。だいぶ気に病んでいたらしい。
まあ、さすがに送り出した令嬢が、まさかひっそり屋敷に戻ってくるとは、誰も思わないだろう。ステラリアの方こそ、何だか申し訳ない気分でいっぱいだった。
「むしろ、レイル様のお心が聞けて、私こそほっとしてしまったくらいなの」
マクベスを落ち着かせる意味も込めて、ステラリアはそっと微笑んだ。
スラックスをきつく握りこんだ手はそのままに、彼は力を抜き、は、と一つ息をついた。一瞬逡巡したそぶりを見せた後、マクベスは唇を開いた。
「……本来なら私からこのようなことを申すべきではないのですが、レイル様はずっとステラリア様のことを大切に想っておられます」
マクベスの真っ直ぐな視線が、ステラリアを貫く。そこには、主としてだけでなく、古くからの友人として、レイルを大事に想う気持ちが窺えた。
もちろん、レイルの気持ちに最早疑いはないので、ステラリアは静かに頷いた。
さすがに、ステラリアに対するあんなにも情熱的な咆哮を耳にしてまで、今更自分がレイルに好かれていないとは思わない。随分細かいところまで見てくれているのだなと、驚いたほどだ。
「ただ、昔からどうにも表情筋が動かず、感情を表現するのも不器用なお方ですから……」
「ええ……存じております」
「ステラリア様のためにありとあらゆる努力を重ねてきたものの、貴女に対してだけ上手く立ち回れず、想いをなかなか表すことができぬ歯がゆさが募り、とうとうパッションを炸裂させるようにベッドローリングして愛を叫ぶようになりまして」
「パッション炸裂」
「ベッドローリング」
「いわゆるストレス発散みたいなものです」
「き、気持ちはわからなくもありませんが、レイル様ともあろうお方がどうしてそんなことに……?」
遠い目をしながら首を捻るジャスミンに、マクベスは眉根を下げ苦笑した。
「ステラリア様にだけは格好よく見られたいんですよ、レイル様は」
ああ、何故だろう。色々な感情が、すとんと胸に落ちて。ステラリアの気持ちに、温かさをもたらす。くすぐったくてたまらない。
ふふ、とステラリアの唇から自然と笑いが零れた。
完璧だと思っていたレイルの密かな空回りが、ステラリアのためだというのであれば、それは何て可愛らしくて、愛おしいのだろう。
「マクベス様」
「はい」
「私、レイル様が打ち明けてくださるまで、知らんふりをします」
「……あ、ありがとうございます!」
「その代わり、レイル様が私のことを何て言っていたか、時折でいいのでお知らせしていただけませんか?」
「ええっ!?」
ステラリアから持ち掛けられた提案は、意外だったのだろう。マクベスは思わず素っ頓狂な声を上げ、視線をうろうろと彷徨わせている。
彼にとって、絶対的な主はレイルだ。そのレイルの情報を横流ししろというのは、いかんせん葛藤深いものだろう。しかも、要求はレイルの恥ずかしいアレである。マクベスは、苦悩でうぐぐと呻いている。
「大丈夫。何かあっても、私が全て責を負いますから」
「といいますか……ステラリア様は、引いたりしないんですか? だいぶ主の残念な発言やお姿を拝見なさったと思うのですが、がっかりしたりとかは……」
「そうですね、確かに驚きました」
恐る恐るマクベスが窺ってくる。
相手の予想だにしなかった姿を見て、百年の恋が冷める場合はままある。
しかもレイルは、普段の言動との乖離が激しい。彼の懸念も最もだ。普段の冷静沈着で王子様然としたイメージとはかけ離れた姿を見て、眉を顰める人もいるだろう。
けれども、不思議なことに、そんなレイルを見ても、ステラリアは幻滅しなかった。
「……でも、あれこそがレイル様の偽りない本音なのでしょう? なら嬉しいですし、私、こっそりでもいいから、聞きたいです。だって、私もレイル様のことが好きですから」
ずっと不透明だったレイルの心。こんなことで判明するとは露とも思わなかったがステラリアのことを真摯に愛してくれる気持ちが、あの一瞬だけでもひしひし伝わってきたから。
ふわりとステラリアが微笑むと、一瞬きょとんと呆気にとられたマクベスは、つられるように表情を崩した。
「はは……。ステラリア様はお強い」
「伊達に、あの方の婚約者を長らくやっているわけではありませんもの。逆に、マクベス様は、ずっとレイル様の素の姿を拝見してきたのでしょう? そちらのほうがズルいです」
「ズルいときましたか」
「あと本音を言うと、ちょっとだけレイル様が面白かったので……」
「……ですよね。私が覚えている限りでも、語録、凄いですよ」
「ぜひ後で教えてください!」
「差しさわりのない範囲で、とお約束いただければ。私も、側近としてだけでなく、アイツの友として、お二人が仲睦まじくいて下さるのは嬉しいですからね」
どうやら腹をくくったらしいマクベスは、にやりと笑う。
思わず身を乗り出して食いついてしまったステラリアに、彼は目を瞬かせてから胸に手を当て頭を下げた。
「私へ直接だと怪しまれるでしょうから、ジャスミン」
「はい、お任せください」
「よろしくお願いします、ジャスミン嬢。お手柔らかに」
「こちらこそ、マクベス様。ええと、こういうのを、何というんでしたっけ。……そう、共犯者!」
「共犯者! まあ、ちょっとワクワクしてしまいますわね」
ジャスミンの言葉を受けて、ステラリアはぽんと手を打ち、きゃあと楽しげに声を上げた。
こうして、密やかに和やかに、密会の幕は閉じていく。