13.懐古② レイル
ああ、空とはこんなに澄んで青かっただろうか。美しかっただろうか。そんな風に感じたのは、どのくらいぶりだろう。
ひ弱なレイルは、いつも家に引きこもって、狭く褪せた世界の中で俯いてばかりいたから。
顔を上げれば、視界に飛び込んでくる色と少女は、目が覚めるほどに鮮明で鮮烈で。そんな当たり前のことすら忘れていた。
ステラリアが、弾けそうな熟れた果実みたいに屈託なく相好を崩した。
その一瞬の光景は、まるで一枚の絵画のようにレイルの脳裏に焼き付いた。
「ステラ、レイくんのこと好きだよ。だから、レイくん、わたしといっしょに好きなこと作って、自分のいいところをいっぱい見つけていこうよ! そしたらきっと、やだなーってことよりずっと楽しくなるよ!」
「……一緒に?」
「うん! だって、レイくんとわたしは、お友達でしょう?」
レイルは目を見開いた。
ふわっと。
風が吹いたかのようだった。爽やかで柔らかい、不安を吹き飛ばすほどの、一陣の風が。
「それにね、やだなーってなるの、レイくんだけじゃないよ。わたしもねー、刺繍が下手だし、男の子にいじめられたりするし、女の子らしくしなさいって、お母様によくしかられているもん」
「そうなの?」
「うん。あ、ねえ、みてみて、これ、わたしが刺繍したの! がんばったんだよ!」
「これは……」
「お花!」
「お花」
ステラリアが取り出した白い絹のハンカチの隅に、よれよれの刺繍が刺されている。赤と茶と緑の糸で作られた意匠は、花といわれればかろうじて花に見えなくもないが斬新だ。
「チュ、チューリップ、かな?」
「アネモネ!」
「アネ、モネ…………?」
難易度が高い。間違えて冷や汗をかきそうになったが、ステラリアは特に気にしていなさそうで、レイルはほっとした。
誤りはしたものの、ステラリアが不器用ながらにも、真剣に針を刺したのはよく伝わってくる。
拙くたどたどしい刺繍。でも、何故だか、レイルには眩しく見えた。
「……ステラは刺繍、嫌い?」
「ううん、好きだよ。むずかしいし、ならったばっかりでまだお母様みたく全然上手にできないから、もーっとがんばらなくちゃだけど」
「そっか……」
へへと、恥ずかしそうにはにかむステラリアは、苦手でも、下手でも、それを卑下したりしない。全身で楽しさを訴えている。
ああ、そうか。
これは、ステラの努力がたくさん詰まった軌跡だから、輝いてみえるのか。
レイルは糸をそっとなぞった。この不器用で温かみのある刺繍が、酷く愛おしいもののように思えた。
自分は、ステラが決して上手いとは言えない刺繍を腐らず取り組んだように、果たして懸命に頑張ったことはあっただろうか。
虚弱だという己の境遇を呪うばかりで、事態を改善をしようと励んだことがあっただろうか。
言い訳を重ねて、拗ねて、甘えて、諦めて、何もせずに逃げてばかりではなかっただろうか。
レイルの未来は、まだまだこれからだというのに。
「ねえ、ステラ。このハンカチ、僕にくれないかな? 絶対に大切にするから……!」
「うん、いいよ! じゃあ、お友達になったきねんに、レイくんにあげる!」
「あ、ありがとう。ステラ、僕、絶対に頑張るからね」
ステラリアにとっても思い入れのある一品だろうに、快く譲ってもらえたことが嬉しくてたまらなくて、自然とレイルの唇が緩む。
「あっ、レイくん笑った! かわいい!」
それは、わずかではあったものの、表情に乏しいレイルにとって、笑顔と呼べるものだった。
こうして迎えたその日の晩のこと。
「父上、母上、お願いがあります。体力作りも合わせて、僕にきちんと侯爵家の教育を受けさせてください。最初は、へとへとに疲れたり、倒れたりするかもしれません。でも、どうしても頑張りたいから、見守っていて欲しいのです」
そう決意表明をして、普段食の細いレイルが料理を頬張り始めた姿に、両親がそろって目を丸くしたのは、今でもイングラム家で話題にのぼる定番だ。
両親は急に成長を見せ、毅然としたレイルに喜び、全面的に教育のバックアップをしてくれた。
少しずつでもいい、あの眩いステラリアに並び立てる男になりたかった。
だけど、早くしないと、魅力的な彼女の隣が他の誰かに奪われてしまうかもしれないから、そこはこっそり父に頼んで権力を行使した。ステラリアだけが、知らない秘密だ。
ステラリアはレイルをお友達だと言ってくれたが、それだけでは物足りない。恋に落ちるのは一瞬だった。
こうして、ステラリア・ガルシアに出会ったその日、レイル・イングラムは一つ大人の階段を上ったのだ。
* * *
「おや、それは、確かステラリア様が初めてレイル様に下さった、刺繍入りのハンカチですね」
「懐かしいだろう?」
「…………ポピーでしたっけ?」
「アネモネだ」
「全然わかりません……。婚約記念の侯爵家の家紋も、未だにわかりませんが」
「いいんだ、わからなくても。これはアネモネ」
誰に理解されなくても、このアネモネの花は、レイルとステラリアがわかっていればいい。
あの時、初めて感じた愛しい想いは、今もなお鮮やかにレイルの胸に咲き誇っている。
赤のアネモネの花言葉は、『君を愛する』。
アネモネは、レイルにとって特別な花になった。
「ふふ。あの頃のレイル様は、本当に必死でおかわいらしかったですね。ステラリア様の後についてちょこまか動くレイル様は、使用人の間でもひよこのようだと微笑ましく見守られて……」
「言うな……。とはいえ、ステラに釣り合う人間になりたくて頑張ったから、今の俺がある」
「はい。やや頑張りすぎたきらいはありますが」
マクベスはそう苦笑するが、自分からするとまだまだだ。
あれから、ステラリアは宣言通り頻繁に侯爵邸に遊びに来ては、レイルの体調に合わせて内に外に遊びに興じた。
レイルも体力をつけるために、幾度となくくたくたになりながらも、死に物狂いで身体を鍛えた。
虚弱を脱すると共に、遅れていた貴族としての学習やマナーにも積極的に取り組み、魔法や武芸だけでなく、様々な知識や流行を詰め込んで、涙ぐましいほどひたすら努力を積み重ねた。
ある程度の教育が済み、胸を張って侯爵家の後継者と言えるまでに1年かかったが、そこで矢も楯もたまらずステラリアと婚約を結んでもらった。
ステラリアの婚約者、という響きがあまりにも甘美で。嬉しくて、嬉しくて、枕を胸にベッドに横たわりながら、いてもたってもいられずゴロゴロと身を悶えさせた。
それが何故かしっくりきて、以来ベッドの上で転がりながら、ステラリアへの想いを叫んでいる。
当初、目を白黒させ、物凄い複雑な顔をしていたマクベスも、やがて主人の奇行にも慣れ、腹を割って話せる友であり側近になった。
彼女と一緒に見つけてきた「好き」は、これでもかというほどにあげつらえる。
学ぶこと全般を初めとして、ガーデニング、乗馬、魔術、観劇、紅茶などなど、レイルの興味は多岐に渡る。意外にも、自分は旅行を好んだ。
読書が好きなステラリアと一緒にたくさんの本を読み、彼女が素敵だとうっとり頬を染めた令嬢と騎士の恋愛小説もきっちりチェックして、ステラの好きなタイプを参考にしたりもした。マクベスに「現実と小説は違いますよ……」なんて呆れた風に突っ込まれたが、そんなの痛いくらいわかっている。実際の自分が、物語の騎士のようにスマートに愛を囁けるわけがなく、よく凹んだ。
そんな風に、どれだけ好きなものを見つけたとて、レイルのただ一つ、否、ただ一人の「好き」は、絶対に変わらない。レイルの人生に影響を多大に与え、活力になっている。
そうして自らを磨くべく打ち込んでいるうちに、いつの間にか幼少の評判なんて最初からなかったかのような、氷の貴公子という通り名がついた。不思議なことに気の合った王太子クリストファーの側近に取り立てられ、益々多くの称賛と秋波を浴びた。
けれども、そんなうわべだけのもの、レイルにとっては何の価値もない。
レイルの努力は、いつだってしるべをくれたただ一人のためだけに。
――これは、レイルとステラリアが婚約する少しの前のお話。




