ゴーストライター
わたしの祖父はおもしろい人だった。
豚は木をのぼるし、魚は空を泳ぐ。ここではない世界のことを幼いわたしに話して聞かせた。
それは小さな子供向けの作り話だったのだろう。
だけれど、小さいわたしにとってそれは本当にある世界だと信じた。なぜなら、祖父が語る世界はとても魅力的だったから。
父や母にはりきって教えると返ってきたのは苦笑。わたしは本当にあるんだと声高に主張したが、「おじいちゃんはしょうがないな」と言われただけだった。
その影響なのか。わたしはファンタジーなどの創作物をよく好むようになった。いつか自分の書いた物語を祖父に聞かせたいというのが目標になった。
しかし、自分で書いてみると創作への難しさを知った。目標への道のりは遠いらしい。それでも、驚く祖父の顔が見たかった。
そんな祖父が亡くなったと知らされたのは二日前のこと。
祖父の通夜が終わるが、まだ意識はふわふわと宙をただよっていた。相続のための話し合いをする父や叔父たちの声から遠ざかるように祖父の部屋に入った。
祖父がいないその部屋は小さかった。幼い頃の自分にとってはもっと広く感じていた。祖父が話し出せばそこは無限の世界を広げる空間となっていた。
祖父との思い出にひたりながらぼんやりとながめていると、ふと目に止まるものがあった。
一冊のノートだった。角が丸くなり、なんども開かれた跡がのこっている。
ぱらりと開くと見慣れた文字が見えた。ノートに書かれた字を追っていくと、祖父とは異なる筆跡が目についた。
綴られた文章の横には日付がつけられ、二種類の筆跡が交互に続いている。
交換日記。祖父にそんな相手がいたのかと意外に思った。
悪いと思いながらも書かれた内容を追っていく。
少しして自分の勘違いに気がつく。そこに書かれたものは日記ではない。物語だった。
ノートの中には祖父ともう一人が創造主となってつくりあげられた世界ができがっていた。
今時、文通なんてと思う。ひとつのノートを送りあってのやりとり。なんとも気長な話である。物語が完結するのにどれぐらいの月日が必要なのかわからない。
ページをめくっていくが、案の定、物語は途中で途切れていた。最後の日付は祖父が亡くなった前日。
ノートは送られることなく手元に残された。
机の中を探すとノートが入るほどの大判の封筒を見つけた。すでに送るための準備は終わっていたようだった。
宛名を見ると少し古臭さを感じさせる女性の名前だった。
もしかしたら、相手は返事がくるのを今か今かと待っているのかもしれない。
ペンを手に取った。祖父の筆跡を真似てノートの上につづっていく。祖父の口調を真似て、祖父をこの時間だけ限定で蘇らせる。
意味のないことなのかもしれない。それでも、この物語を終わらせることが、もしかしたら祖父への供養になるのかもと思った。
それから、交換日記もとい交換創作はつづいた。
わたしは祖父の幽霊となって、祖父の使っていたペンを走らせる。
物語の内容は単純なものだ。男の子と女の子の二人の冒険。旅に出てたくさんの場所を見て、たくさんの人に出会うというあらすじだった。
最初はこの物語をどう終えればいいのかと悩んだ。しかし、その悩みはいつしかどうしたらおもしろくなるだろうかというものに変わった。
相手の返事がくるのを心待ちにするようになっていた。祖父の家は電車で駅からはなれた場所にあった。毎日、自転車で通ってはポストをのぞいた。
「まだかなぁ~」
きっと、祖父もこんな気持ちだったのかもしれない。
だけど、ある日から返事がこなくなった。送ったノートが戻ってこなかった。
そうか……、と察する。
相手も祖父と同じ年代だったのだとしたら、来るべき日が来てしまったのだろう。
わたしの気まぐれは相手を満足させられたのだろうか。祖父という言い訳をしながら、封筒に書かれた宛名書きをたどって、見知らぬ文通相手の元に向かうことにした。
少ない小遣いをはたいて電車をのりついでたどり着く。目の前にあるのは年代を感じさせる木造一階建て。
インターホンの前に立ったまま上げた腕はそのまま、押すことはためらった。いったいなんていって説明すればいいのかわからない。
回れ右して帰ろうかと思ったとき、不意に玄関が開いた。誤魔化してその場を後にしようとも思ったけれど、でてきたのは同じ年頃の男の子。
丁度いいとおもって聞くことにした。
「サエさんはいますか?」
封筒に書かれていた名前を口にした。
男の子は少し警戒しながら、聞き返した。
「サエは祖母の名前です。あなたは?」
男の子は華奢な感じがする細い首を横に傾けた。
「ノートが送られてきませんでしたか」
わたしは正直に祖父のことを話した。祖父が亡くなっていること。祖父が行っていた交換創作のこと。それと、わたしがしていたこと。
事情を話して、祖父のノートを遺品として引き取りたかった。
わたしの言葉に、男の子は驚いた顔をしていた。
待っててという言葉を残して家の中に引っ込む。すぐに戻ってきた。その手には見慣れたあのノートが握られていた。
「祖母が亡くなったのはもう1年前です」
「え?」
それは祖父が亡くなる以前の日付だった。
「ボクも同じなんです。もう騙し続けるのをやめようかと迷っていました」
その言葉でようやく理解する。幽霊の正体を。
どうやら幽霊はわたしの他にもう一人いたらしい。
文通を続けながら形のはっきりしない何か、伸ばしても手の届かない微妙な違和感があった。
思えば、手紙の言葉遣いもどこかとってつけたような感じだった。まるで子供が無理に大人っぽい言葉遣いをしているように。それは、おそらく相手にとっても同じだったのだろう。
お互いの事情を知ると、『なんだ、そうだったのか』と二人で笑いあった。
そうすると、共通の秘密を持つ者同士ですこしおかしくて、すこし切ない気持ちを共有した。
「ねえ、あなたのおばあちゃんに会わせてもらってもいい?」
男の子に連れていってもらい彼の祖母の墓の前に立った。彼はおかしそうに今日の出来事を報告していた。
楽しげに話す彼の横顔を見ながら、会ったことのない彼の祖母の人柄をしのんだ。
「うちの祖母は変な人でした」
「そっか、うちのおじいちゃんも同じだったよ」
二人で笑い会い、それっきり別れた。
ノートはわたしの手元に戻った。
一週間後、また祖父の部屋を訪ねた。
机の上にノートを置く。惜しむらくはノートに書かれた物語が完結しなかったことだった。
「ねえ、おじいちゃん、聞いてよ……」
わたしは語る。幽霊と幽霊が出会った話を。おかしな祖父と祖母を持った女の子と男の子の物語。
これが供養になったのかはわからない。でも、わたしの物語を祖父に話すことができた。
「これでこの話はおしまい」
ノートを置き去りに部屋を出ようとしたときだった。視界の端に誰かの姿が見えた。
「……おじいちゃん?」
祖父の背中が机の前に座っていた。
戸惑い、迷いながらも、じっと見る。
祖父はノートの前でペンを握ったまま動かない。
『ねえ、お話のつづき聞かせてよ』
わたしがせがみ、祖父が答える。なつかしい、昔はこうだった。
祖父が振り返る。そして、にこりと笑う。わたしの記憶にあるそれと寸分たがわない笑顔だった―――
「え、あれ……?」
部屋の中にはわたししかいない。机の前には人影もなく、ノートと祖父が愛用していたペンがあるだけだった。
わたしは一体何を見たのだろう。幻覚、白昼夢、もしくは妄想ということなのだろうか。
正直、なんでもいい。
わたしはしばらくなにもしないでただじっと部屋の真ん中で立っていた。
一ヵ月後、自宅でわたしの部屋には祖父が使っていた机が置かれていた。なんでそんなものをと、形見分けの最中に机とペンをほしがったわたしを両親は不思議がっていた。
「よし、できた」
ペンを握っていた手をとめる。
封筒を手に取りポストに向かう。
宛先にはあのとき会った男の子の名前。
送り主にはわたしの名前を書いた。