記名式
好きになれそうだと思った、
久しぶりの淡い感覚をくれた、
あなたとの思い出はたぶんそれで十分だ。
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柔らかな髪が、車窓の海の風に揺らされる。
右手の薬指につけられたシルバーリングが、わたしの心に染みを落としたけれど見なかったことにした。
「ねぇコンビニ寄っていい?」
軽くて柔らかくて人好きのする声と喋り方で運転席の彼は言った。
「いいよ、なに買うの」
わたしの声は無意識のうちに甘さを温存してしまっている。
彼の軽さに合わせて、わたしもそういう人間でいようとしているんだ。
黒い革張りのシートの座り心地は今までの誰の隣より最高だし、彼の軽さが重くなりがちなわたしには心地いい。
ウィンカーをつけながら、水買う、と彼は楽しそうに呟いた。
彼と会うのはこれが最後になる気はした。
隣にいても、何をしていても、ぴったりとはまりすぎてしまう感覚が逆に違和感を引き起こさせたのだ。
わたしが買おうとした500mlの炭酸飲料を横からひょいと奪ってレジに持ってくところとか、彼がおいしいからと言って買ったお菓子の最後の一口は絶対わたしにくれるところとか、玄関から出るときは必ずわたしの靴を履きやすいようにしてから玄関を開けてくれるところとか。
愛してしまわないわけがない。
落ちないはずのない恋にまんまと落ちた、
右手の薬指に必ず指輪をする男に、
ピンクのLINE画面のトーク履歴の1番上に知らない女の子のいる男に、
彼に依存する女の子がいることをわたしが事前に知ってしまっている男に。
知っていて罠にかかって、
知っていて心も体も明け渡した。
愛されたかった。
優しさと暖かさと軽さの同居した男に。
わたしは素知らぬ顔をして、
知らぬふりをして、
白いSUVの助手席に乗っている。
たぶんわたしが家に帰ったら、
夜中までLINEは返ってこない。
次の連休の約束は、きっと他の女の子との予定に負けてしまう。
ちょっと買ってくるね、と
車から降りながら笑った彼に、
いってらーと適当に笑いながら返す。
車を降りた途端スマホの画面を確認して歩き出す姿を横目に見ながら、早くわたしなんか捨ててくれと願う。
早く切り落としてくれ、
他の女の子の姿を映しながらわたしのことを宝物扱いしないでくれ。
窓越しのサイドミラーに映った自分が視界に入る。
スクエアネックのトップスの端から隠せない皮下出血の痕が覗いていた。
至る所に残されたテリトリーの印は、わたしを他の男から遠ざけるマーキング。
目を瞑ってただ真っ白くなるわたしに、かわいいかわいいと嘯きながら自分のものにした証だ。
わたしよりひとまわり大きな手で宥められたあの夜を、一生わたしは忘れないだろう。
ごめんなさいと泣く私に、どうして泣くのと困った顔で笑いながら、ただ彼の厚い胸板にわたしを押し付けた。
ごめんなさい、
昨夜鈍い光の狭い部屋で自分の思わず溢した言葉と涙を反芻してしまう。
ごめんなさい、その後に続く言葉は彼には言えなかった。
あの子より上手にできなくて、
あの子みたいになれなくて、
あの子みたいに愛してもらえなくて。
わたしの精一杯の甘さをあなたにあげるから。
あなたがコンビニから戻ってきたらすぐに、わたしはわたしの中にあなたとの誤差を作るよ。
じんわりと沁みてくる熱を、ここで全て乾かして帰ろう。