07.図書室の番人
「よかったの?」
だらだらとした下り坂を並んで歩く玲子の問いかけに、黙って頷く。
第一図書室を閉館時間前に閉めたことについての問いかけだった。
膝の動きに合わせて玲子の鞄が跳ねて踊っている。両手で鞄を前に持つ持ち方は玲子の癖らしい。
まだ外は昼のように明るく、やや黄色味を帯びる夕方の光が玲子の艶やかな黒髪を輝かせ、白い頬に睫の影を落としていた。すっと通った鼻筋、ふっくらした丸い頬から滑らかな線を描いて尖る顎の輪郭。
三田村ではないが、こうして近くで見るとあらためて玲子は美少女だと思った。
それにしてもほんの少し前まで図書室の照明を消せば薄暗かったのに、いつの間にか随分と日が長くなっている。風が吹けばどことなく蒸し暑いような湿度を感じた。間も無く俺がもっとも苦手とする梅雨がやってくるが、きっとそれもいつの間にか夏へと移り変わっていくに違いない。そうこうしている内に秋が来て冬がきてあの場所はなくなる。
旧校舎がなくなったら、新しい図書室の広い書庫の一画に籠る考えでいたがあの静けさまでは本や自分が移るようには移せないだろう。それが問題だった。
その頃になっても玲子は俺の隣に並んでいるだろうか、彼女の通いのピアノ教師が訪ねてくる時間が変更になった話を聞きながらふとそんな事を考えた。
「でも、どうしてわかったの?」
「朝、玄関から出てくる時の会話が聞こえた」
「そう。あ、そういえば三橋くんが持ってるんだね」
「なにを?」
「第一図書室の鍵。職員室に返しに行ったりしないの?」
「ああ、これは個人的に預かっているものだから」
にこやかにこちらを仰ぎ見た玲子に、鍵を収めた上着のポケットに手を入れ探って取り出す。
真鍮製で柄の部分が三つ葉をかたどった古風な鍵だった。柄の穴に輪にした細い銀色の鎖が通っている。
「個人的に?」
玲子が首を傾げじっとこちらを見詰める。どういう事だとやはり大きな目が口ほどにものを言っていた。玲子の目は雄弁だと苦笑しながら、鍵を預かったいきさつを俺は話し始めた。
人に話したのは初めてだ。
理由は単純に誰からも鍵の事を聞かれたことがなかったからだった。
皆、俺が図書委員長だから鍵を持っていると気にも留めない。
「桟田先生知ってる? 倫理の」
「ええ、担任だもの」
二年生から生徒は理系と文系と芸術系に大雑把に分けられる。
玲子は三組と言っていたから理系クラスのはずだった。だから倫理なんてマイナー教科の教師は知らないだろうと尋ねたのだが、意外な答えに俺は驚いた。
一年の時は俺のクラスの副担任だったが、三組の担任になっていたのか。
*****
入学式の日に見つけた第一図書室は、時を止めたような木造校舎の中でもとりわけひっそりと堆積した時間の中で沈黙していた。
元々、外部の音が入りにくい造りだった。
隙間風を防ぐためにゴムのような樹脂を枠とガラスの継ぎ目に塗った窓は固く閉じるようになっていたし、窓が無い部分、壁の殆どは天井までの作り付けの本棚で、壁を多い尽くす本が一種の防音の役目を果たしているようだった。
生徒の勉学用に設えられた大きな机が並ぶ奥、司書部屋へ近づきかけてふと足を止め、なんとなく感じた違和感に背後を振り返り、入口すぐのスペースにおそらく本の分類であろう札の掛かった側面を見せて等間隔に立ち並んでいる高さのある本棚を眺め、深呼吸する。
埃と湿った木と紙、窓とドアの錆びた匂いと黴臭さに微かな煙草の匂いがする……煙草?
すうっと、目の前を靄のように薄い紫煙の筋がたなびいて流れていく。
煙?
こんな燃えるものに事欠かないような場所に火の気が?
不審に目を細めて煙の筋を追って立ち並ぶ本棚へと近づけば、ガタッと本棚と本棚の影になった暗がりから乱雑な物音と黒っぽい塊がもぞもぞ動くのが見えた。
誰かいると思った瞬間、黒い塊が呻るように声を上げる。
「あ~ったく、こう資料探しのたびスーツ埃だらけにされちゃたまらないな……ん?」
「……図書室で咥え煙草ですか」
「大きなお世話だ。昨日まで中坊だった奴に言われる筋合いはない」
一瞥して俺を新入生だと即座に判断した黒い塊ならぬ一人の男は、濃いグレーのスーツを着込んだ身を屈めたままで咥えていた煙草を左手に挟みふうっと煙を吐き出すと、億劫そうに立ち上がった。
スーツの胸ポケットの位置に胸章のような水色のリボンがついているところを見ると、どうやら教師のようだった。
入学式で教師は水色、祝辞を述べる来賓は黄色のリボンを胸につけていた。
「迷ったのか、新入生?」
迷惑そうな表情で下向きにまた煙を吐き出して、そのままじろりと探るような目つきで男がこちらを見てきたのでとりあえず頷く。
「ええ、まあ。けど、昨日まで中坊だったことは関係ないでしょう」
入学早々、素行に問題がありそうだとか生意気な生徒だとかそんな印象を教師に持たれていい事などない。
まだ不審そうにこちらを観察して見ている男の言葉を冗談めかして誤魔化せば、男はぎゅっと眉間に皺を寄せるように目を細めて煙草を口元に運んで、あるよとくぐもった声で言った。
「嗜好品をたしなめる資格があるのは、大人だけだ」
口の端を吊り上げ、再び煙草を口元から離して煙を吐く。
細めた目がやけに強い光を放っていた。
そういえば、この学校は個性的な教師が結構いるらしいと悪友が言っていた。目の前の男もその一人かと苦笑すると、気に食わなかったか鼻に皺を寄せた。
三十代半ばくらいの、中堅どころの教師といった風貌であった。
「桟田だ、社会科。クラスと名前」
再び口元に持っていった煙草のフィルターを噛むように、ぶつ切りの言葉で男が名乗り尋ねてきた。
生徒相手に先に自分が名乗ってから名前を尋ねてきたところは大人として好感が持てたので素直に答えることにした。
「二組の……」
「ああ、三橋か……思い出した、その顔。今年入った名家の片われ」
「は?」
「一応、副担任だからな。生徒ファイルの顔写真は見てる。入学書類で証明写真何枚か出しただろう?」
問いかけておきながらこちらの返答を待たず、男は飄々とした足取りで俺の側を通り過ぎると、並んだ机の一つに飛び乗るように腰掛けると煙草を再び指に挟んで手を下ろした。見ればその火の下に小さなステンレス製の灰皿が置いてある。
「喫煙室以外禁煙なんて、いやな風潮だ」
「教師があちこちで煙草を吸っていたら、生徒に示しがつかないからでしょう」
「そうそう、そういったことを言う奴がいるせいでそんなルールになった。教師の弱みを握ったなんて思うなよ、バレたところで始末書一枚書けばチャラになる話だ」
「そういった書類は大人にとっては一大事じゃないんですか?」
「あのな、評価や処分が怖くて煙草が吸えるか」
そんなことを言うわりにこんな場所で隠れるように吸っているなんてまるで小心な不良みたいだと言えば、今度はくしゃりと顔を愉快そうな笑みに歪めてガキにはわかるまいよと吐き捨て、煙草を灰皿の上に揉み消した。
どうやら生徒の態度に関して礼儀など細かいことを気にするような生真面目な教師ではないらしいと踏んで、少しほっとする。
「ここ、生徒は立入禁止ですか?」
「禁止ってわけじゃないがこんな部屋だからな、普段は鍵を閉めてる。勝手に本を持ち出されても困るしな。使うのはもっぱらおれぐらいだ。結構いい資料があるんだが……」
「そのようですね」
「いい加減どうするか考えないとなんだが。見たか? 裏の。再来年度の夏休みには完成する。ライブラリーフロアなんて銘打ってワンフロア全部図書室にする計画なんだと。他校との差別化って奴だ」
男は、右足の脛を左膝の上に置くように組んで、机の上の両手をやや後脇に軽く仰け反り、部屋全体をぐるりと見渡すようにして天井に顔を向けた。
どうするか考えないとなあ……再びぼやくように呟く。
どうやら桟田と名乗った社会科教師の男は、この図書室の管理監督を任されているらしい。
「ま、この校舎同様廃棄処分が妥当なんだろうな。メインの図書室は本校舎の第二図書室だし、蔵書も十分ある」
「たまに使っているんでしょう?」
「まあ、なあ。本当にごくたまにな。別になくても支障はない」
この校舎自体がそういった場所だとやはり天井を向いたまま桟田は言って、机から左手を離し上着の胸ポケットを探って新しい煙草とライターを取り出すと仰け反らせていた上体を元に戻した。
「もったいない」
「そうか?」
カチッ、カチッとライターを弾く音を立てながら、火の点いてない煙草を咥えて不明瞭な相槌を打って首を捻る。どうやら上手く火が点かないらしい。
「貸してください」
「ん?」
「ライター」
黙って手渡されたライターは細長い革ケースを被せているが、スーパーやコンビニエンスストアのレジ付近に置いてある使い捨てライターと大差ないものだった。
一度傾け、両手で桟田の煙草へ構えてカチリと鳴らせば一回で火が点いた。中の液体ガスが偏っていただけだ。
「なんだ、手馴れてるな」
「大人の世界が近いもので」
家の事情で会う大人の女性の中にはこういうことを子供にさせて揶揄う人がいる。
しかし、それだけの事だった。
桟田は眉を顰めたがなにも言わなかった。型に嵌めた見方で人を判断もしないらしいと俺は桟田を評価する。
「折角いい場所があると思ったのに、静かで」
「ほう?」
「利用できないままなくなるわけですね」
もう一度、図書室全体を視線を動かして眺める。
「気に入ったか? ここ」
「ええ、まあ」
あの司書部屋の中はどんな感じなのだろうと気を取られたまま問いかけに応じれば、桟田は咥え煙草のまま、そうか、と肩を落として項垂れる。
「そうか……くっ、くくく……ハハハハ、ハッ」
肩を揺らして項垂れた頭をゆっくりと起こしながら、咥えた煙草を左手で抜きとって反り返るように急に豪快な笑い声を立てた桟田にぎょっとして我に返った俺を、上体を戻してから睨むように見据えながら不敵な笑みを浮かべた桟田に、俺は厄介事の予感を覚えた。
*****
「それで?」
「突然、図書委員になれと命令された」
本当はその後もっと色々とやりとりをした末で鍵を預かったのだが、説明が面倒なので割愛した。
とにかく管理監督者として第一図書室を持て余していた桟田と第一図書室を気に入った俺の利害が一致していまに至る。
「ふふ、桟田先生って面白いよね」
「非常に迷惑な教師だ」
「でも、三橋くんには丁度よかったね」
「……そうだな」
恐ろしく核心をついた玲子の屈託のない一言に一瞬だけ動揺した。
なにも知らない玲子はにこにこと俺の指に引っかかっている第一図書室の鍵を興味深そうに見詰めている。
話はそこまでで、本條家の洋館の前に到着した。