18.西洋菓子とおもちゃ
いつもと変わらない様子でにこやかに玄関から現れた玲子に、詩織の相手のために二三日学校を休むことになりそうだと告げれば、不思議そうに彼女は首を傾けた。
じっとなにか考えているような表情で俺を見上げている。その小さく整った顔を見ながら黙って玲子の言葉を待った。相変わらず毛穴がまったくないようなつるんとした肌をしている。
それに三田村の言うところの天然記念物クラスの美少女というのは、ライトを当てなくても白い肌が淡い艶を放っているのだと玲子を見て俺は知った。
内側から淡く発光しているような瑞々しい艶がある。
叔父が贔屓にしている、いや叔父を贔屓にしているだろうか、必ず演奏会にはやって来て熱烈な言葉を並べ立てて直の稽古に通うことを承諾させた芸者の鈴千代姐さんあたりが見たら、声を上げて羨ましがりそうだと思った。
繁華街の奥には花街めいた料亭通りがあり、時々叔父は遊んでいた。
ただ食って飲んではしゃいで調子に乗って帰るだけ、健全そのものな文字通りのお座敷遊び。
「それで……」
随分と躊躇いがちな玲子の声が聞こえた。
「三橋くんは今日お休みするのに、それを言いにここまで来てくれたの?」
その通りだったので肯定の相槌と共に頷けば、何故か玲子は眉を顰めた。
「それで、三橋くんはこれから一緒に学校まで行ってくれるの?」
「そう」
答えれば、今度は呆気に取られたようにぽかんとした表情を見せて、複雑そうに微笑むと、いつも通りにすっと足を綺麗に伸ばして歩き出したので俺も合わせた。
「先週、また月曜日にって私が言ったから?」
「うん」
身長差があるので肩は並べられないが俺の隣に寄り添うように歩きながら玲子が尋ねてきたのに頷くと、小さな溜息を吐いて玲子は俯き、なにか問題がと思いながら彼女の前髪が揺れる額を見詰めていると、くすりと桜桃のような唇が緩い弧を描いた。
「三橋くんとの約束は怖いね」
それ以外は、帰れとも、よかったのにとも、うれしいとも、迷惑とも言わなかった。
そして玲子もあれを約束だと認識をしていたことがわかり、やはり迎えに来てよかったと俺は微かな安堵を覚える。
「絶対、守らなきゃ」
くすくすとどこか生真面目さを残す表情で玲子が笑うのに、俺も苦笑を漏らした。
「馬鹿馬鹿しいって思っているだろうけど、約束は縛りごとだから。縛りごとっていうのは破っても大抵ろくなことにはならない」
楽器の取り扱いも、音階の規律もすべて縛りごとを破れば調和を乱す。
それと同じだ。
「まあ、守ってもろくなことにならないことも時にはあるけど……」
特に女性は。
「いま、特に女の子はって考えなかった?」
「探偵みたいだな、帰ったらとは言わないんだ」
「推理じゃなくて推察。あのね、ここで三橋くんを追い返しちゃったら、来てくれたのが本当に無駄になっちゃうもの」
「流石だな」
特にからかうつもりもなく思ったままを言えば、玲子は小さく頷いた。
「今週のお迎えはお休みね。三橋くんのお家の予定も決まってないみたいだし。その方が三橋くんも困らないでしょう?」
「そうだな……そうしてもらえると有り難いな」
「じゃあ、決まり。三橋くんの従妹さん、久しぶりに帰国なのよね?」
「前に会ったの去年の夏頃だったから、まあ一年近くかな?」
「親戚に同じ年頃の人いないから、そういうのなんだかいいなあ」
「久しぶりに会うのが?」
「うん、それで兄妹みたいに仲良しとか。なんとなく憧れる」
「兄妹だけどね。戸籍上は、叔父の娘だし」
「あ、そっか。そうね」
立てた人差し指を頬に当てて、玲子は少し考えるように空を見上げる。
その目線の先を追えば、週末に雨を降ったり止んだりさせた後のすっきりした青空が見えた。
「ああ、そうだ」
青空とは何の関係もなかったが、不意に何のために教科書やノートの入っていない鞄を自分が手に持っているのかを思い出した。
立ち止まって先を進む玲子のさらさらの長い髪がセーラー服の後ろ衿に揺れるのを眺めながら、鞄の中へと手を突っ込み入っている物を取り出すと、数歩進んで俺が立ち止まったままでいるのに気がついた玲子が振り返って戻ってきた。
「どうかしたの?」
「これ、お詫び」
白っぽい褐色の一口サイズに絞ったメレンゲを焼いた菓子が十数個程入っている透明袋を玲子に差し出す。袋の口は赤いリボンで閉じられていた。
袋に貼られたリボンと同じ赤い色の、金で縁取りされたラベルには縁取りと同色の文字で“AKAGI-DO”“MACARON”と二段に分けて印刷されている。
「あ、赤木堂のマカロン!」
袋に貼られたラベルを見ながら玲子が声を上げる。
ぱっと花が咲いたようにうれしそうな表情に、どうやらお気に召したらしいとほっとして歩き出す。
「好き?」
「うん、おいしいよね。ケーキ屋さんとかに売ってるマカロンとは違うけど」
鞄を右手、菓子を左手に持って歩きながら、無邪気な様子でケーキ屋に売ってるマカロンとは違うと言った玲子の、その言葉に俺は引っかかりを覚えた。
きっと玲子は色とりどりの丸い焼き菓子二枚の間にクリームやペーストを挟んだものを想像しているのに違いない。
「ケーキ屋の? クリームなどを挟んだもののことかな、例えば『ラデュレ』みたいな」
「え、ええ……三橋くん?」
答えた玲子の様子がどこか戸惑いを覚えているように見えたが、俺にとっては玲子の誤解を解くことが優先であった。赤木堂のマカロンが古い洋菓子屋が、古い時代に珍しい洋菓子を真似て適当に名を付けただけの、マカロンもどきの菓子だと思われていたら実に遺憾だ。
「あれは“パリ風マカロン”といって、まさしく『ラデュレ』が元祖で確かにマカロンといえば一般的にアレを差すけれど、マカロン自体は他にも色々な種類がある。イタリアのアマレッティもその一種だし。コレはどちらかといえばそれに近い」
「そうなんだ?」
「ああ、だから間違っても昔の洋菓子屋が適当に作って名づけた菓子じゃない」
「そんなこと考えてもなかったけれど」
「なら、いい」
ぱちぱちと瞬きをして確認してきた玲子の目を見ながら、念押しするように頷いてみせる。
明治の末頃に創業の洋菓子屋は、創業当時から舶来の菓子に確かな理解がある。そう思える品を提供する店であった。
「……しまわないの?」
「あ、うん。ありがとう三橋くん」
いつまでも菓子の袋を持ってぽかんとしている玲子に問いかければ、はっとしたように鞄に菓子を入れる。がさがさと教科書を学校に置かない玲子の鞄は中身の多そうな音を立てた。
促しながらも荷物が沢山はいっている玲子の鞄に中身が砕けないか少々心配になる。
しゅわっと淡く舌の上で半ば溶けて、適度な甘みとアーモンドの風味が実に絶妙な柔らかい生地を楽しむのに、あの一口サイズは計算された大きさだと思うのだ。
だからつい、注意してしまった。
「砕けないように気をつけて」
「あ、うん。お弁当箱の上に乗せたから、たぶん大丈夫」
「それならいい。赤木堂のマカロンは好き?」
玲子に尋ねれば、一瞬の間を置いてクスクスと玲子が弾かれたように笑い出した。
「たぶん、三橋くんほどじゃないけど」
笑いながら、鞄の持ち手を両手で持つのを右肩に掛ける形に変えて、バランスが崩れるのを防ぐように俺の肘辺りの袖を左手で小さく摘むように引っ張った。引っ張りながらまだ笑っている。
一体、何がそんなにおかしいのか。見れば目じりに涙さえ浮かべている。
「何?」
「ううんっ。三橋くんって、お菓子好きなの? でもこの間お家に遊びに行った時はあんまり食べてなかったね」
「和菓子は貰い物で飽きるほど食べてるから」
「あ、じゃあ洋菓子が好きなんだ。でも、迎えに来られないからって、そんなに気を使わなくてもいいのに」
「たぶん、今週は君と会えないから」
家に戻ったら、詩織の用事に付き合ってすぐ東京へ向かう。
そこで二泊……だが、三泊になりそうな気もしないではない。
そうなれば戻ってくるのはたぶん木曜日の夕方だ、金曜日も保障はない。
日曜日に演奏会で、前日の土曜日にリハーサルの予定だから稽古に付き合わされる可能性もある。
公演は東京なんだからいっそずっと東京にいればいいのじゃないかと思うがそれは嫌なのだそうだ。
面倒だなと、つい眉間に余分な力が入ってしまったままで玲子に意識を戻せば、笑いが収まった玲子は今度は頬を真っ赤にしていた。
「どうしたの?」
「そ、そういうこと……あまり言わないで……」
「なにが?」
「わかってるの、わかってるのよ。三橋くんは……そうっ! 女の子の期待に応え過ぎちゃって、そういうこと平気で言っちゃう人だってことは」
「なにを言っているのか、よくわからない」
しかも、少し失礼なことを言われているような気がする。
「ええっとね、あの……とにかく」
「玲子?」
「気にしないでっ……ください」
「わかった」
話しているうちに耳まで真っ赤になった玲子に奇異の感を覚えつつも、袖を摘んでいる玲子の左手を取った。言葉にならない母音だけで構成された声を断続的に玲子は上げたが振り払う様子は見せなかったので、そのまま先週の金曜日の帰り道と同じように繋いだ。
「ああ、あと第一図書室は閉めるから。本は佐竹に渡しておいて」
「あ……はい」
ようやく平常心を取り戻したらしい返事を玲子がする。
「君、ネジ巻きのおもちゃみたいになるな、時々」
「おもちゃ……」
「うん、急に動き出したりして見てると面白い」
「……そう」
小さく溜息を吐いた玲子と登校し、「じゃあね、三橋くん」と手を振った玲子に応じたあと、そのまま職員室へ向かって担任の姿を探す。
この学校は生徒だけではなく教員の数も多い。
数多い生徒をきめ細やかに指導する方針をとっているためだが、それにしても多いと思う。
桟田が社会科準備室に篭もっているのは、この数多い教員同士の人間関係を厄介に思って、物理的に距離を置いているためだった。
しばらく担任の机周辺を見回して、学年主任である教師と立ち話している姿を見つけ、話の区切りがついた様子を見計らって近寄り、当面学校を休む旨を事情説明と共に申し出る。
桟田と違い、担任は二つ返事で許可を出した。
おそらくは生徒の親と余計な軋轢は避けたいと思っているのだろう。
加えて俺の家は一般的な家庭と比べ特殊な環境といえるから、多少の融通は簡単に利いた。
もちろん学業は疎かにしないという前提ではある。
中間テストとは別に連休前に行われる、前学年時の学習内容を範囲とする実力テストが近づいていたことを担任の言葉で思い出し、胸の内でしまったと担任の顔を見ながら呟いた。
来週から、この学校は試験期間に入ってしまう。
進学校らしく、試験期間中はあらゆる部活動と委員会活動が停止となる。
例外とされているのは、学習室としての機能もあるために試験期間中も必要と認められ、かつ風紀委員の見回りのように教師による代行が容易ではないとされる第二図書室の当番活動のみ。
実質的に利用者のいない第一図書室は、必要性のある活動と認められておらず、当然開けることは出来ない。
今週、学校に来られなければ翌週から約二週間の試験期間、それが終われば連休だ。
それでは約一ヶ月近く第一図書室に行けない。
読書のこともあるが、管理の仕事もある。
第一図書室は7月末には完全に閉館するのだ、なんて間が悪いと思わず顔を顰める。
「出来るだけ休まずに済むよう、努力します」
俺の表情と言葉が、学業を疎かにしないようと注意した自分の言葉のためと誤解した担任教師は満足そうに頷いたが、生憎とそれは間違いであった