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16.従妹

「洋ちゃん、寝たい」


 寝床にもぐりこんできた柔らかな物体に揺り起こされた。

 無理矢理起こされることに意識が抵抗している。まだ起きる時間ではないはずだ。  

 薄目に見える障子が白く、室内が薄暗い。

 突然もぐりこんできて、寝巻きの胸元の合わせを肌蹴させるように擦り寄る、確かな感触と質感を伴う温もりは何だろうと、朦朧とする頭で途切れがちに考えながら、輪郭を手が触れた窪んだ部分から上に盲目の人のように掌で辿る。


「眠らせてよ」


 ぐずった子供のような癇のある声に意識がはっきりした。

 なだらかな輪郭を上に辿り、丸く硬いところに手をやればチクチクと甲を柔らかく刺す毛先を感じた。


「抱いて」 

「抱かない」


 幾度となく繰り返されているやりとりに目を開けば、硬質でさらさらした栗色のショートカットと、明け方にも関わらず眠気など微塵もなく開いている爛々とした目があった。

 音楽雑誌にまるでファッション雑誌のようなスチール写真が掲載されるだけあって目鼻立ちは整っている。

 玲子が可憐な美少女なら、詩織は年齢よりやや大人びた美人の顔立ちだった。

 つんと高く通った鼻筋に、赤味が強い唇、切れ上がった強気な目、左目の下に小さな泣き黒子がある。


「……詩織」


 寝起きで自分の声が低く篭って聞こえた。

 始発も動いていないのに一体どうやって来たのか。


「許婚じゃない」

「十一歳まで。それも幹部の大人が言ってた悪趣味な冗談で」


 黙って触れたままでいた剥き出しの肩から手を離し、横臥から仰向けに寝返りを打って従妹から身を離す。

 布団の中なのでよく解らないが、キャミソールに柔らかい素材のショートパンツのようなものを穿いているようだった。

 寝返りを追うように絡みついてきた片脚が素足なのは寝巻きの上からでもわかる。


「寒くないのか」

「洋ちゃん温かいもん」


 寝起きで思考力が低下しているとはいえ、抱きつくように胸の上に腹ばいに伸し掛かってきた細身の体に藪蛇な事を呟いたと顔を(しか)めた。


「重い」

「離れたら寒いもん、風邪ひいたら洋ちゃんのせい!」


 自分が心地いい体勢を探って身動ぎをする詩織に思わず溜息が出る。

 寝苦しいことこの上ない。

 休日だからといって起床時間は変わらず、それよりも早い時間に起こされてまだ眠り足りない。

 もっとも眠り足りなさでは詩織の方が深刻なようであった。

 帰路の飛行機でも、帰国してからも眠れていないのだろう。

 俺の肩先を枕にしている詩織の頬が、寝巻きの肌蹴た胸元にぴったりと密着していた。肌馴染みのいい感触はなんとなく血縁であることを思わせた。

 父の弟である叔父の、実の娘。

 叔父が離婚した後、詩織の親権者は彼女の母親となっていたが、母親はその戸籍に詩織を呼び寄せる手続きを取らなかった。

 俺の母親と叔父が結婚したことで、公の活動するのに名乗るのは母親の姓“中道”を名乗っているが本名は“三橋詩織”だ。


「全然眠くならないの。抱かれた後ってすごく眠くなるんでしょ?」


 細い指先で俺の肋骨が薄く浮いているを箏の絃のように弄びながら、やや鼻にかかった平生より甘く問いかけてくる声が胸骨に響く。


「確かにすぐ眠ってしまう人はいるな」


 そういう事を尋ねてくるということは詩織はまだ未経験なのだろう。

 でなければこんな暴挙ともいえる無防備な行動にもきっとでない。

 もっとも幼馴染の従兄に対し、リアルな危機感など持たないものなのかもしれないが。


「いとこ同士は鴨の味って言うらしいよ。洋ちゃん鴨好きじゃない」

「たぶん君が考えてるのと意味が違う」

「いとこ同士の夫婦は鴨肉の味みたいに良すぎるんでしょ?」

「情愛が深いという意味」

「良すぎるから深くなるんじゃないの?」


 たしかに、それは一理あるのかもしれないが。


「そういう事もあるかもしれないけど、言葉の用法としては違う。一年の大半、外国にいてそういう言葉をどこで覚えるんだか……」

「日本語研究してるフランス人の大学生から聞いた」


 “アムールの国”なんて言われる国の先入観から、そういう誤解は生まれそうだなと思った。

 大昔、王侯貴族の間で近親婚も行われていたし。


「とりあえず、たぶん曲解だと教えてあげた方がいい。あとそういうこと余り言わない方がいい」

「なんでよ」

「無邪気な好奇心を逆手に取られて、犯されたらどうするんだ」


 腹部に一つ年下の少女にしては早熟な質量と弾力が押し付けられている。

 前に会ったのは一年近く前だったか。

 女性の体つきについて関心は余りないので、特に気にも留めていなかったけれど。


「どうもしない……ていうか、洋ちゃんわたしの言葉聞いてた?!」


 俺の両肩を敷布団に押し付けるようにして身を持ち上げると、神経が昂っているのかキンキンした声で詩織が詰るのに、もう寝直しは無理だろうなと半ば諦める。


「抱いて欲しいんだろ」

「そう!」

「即答で抱かないって返答した。話は終了している」

「それって、血縁だから? いとこ同士は結婚できるし」

「特定の相手がいるからそういった不誠実なことは出来ない」

「なによっ!」


 不服を全面に現した詩織に平手でこめかみ付近を叩かれる。みしりと額の端が音を立てて熱っぽい痛みが広がった。


「腹立つ!」


 完全に身を起こして俺の胴体に馬乗りになった詩織が、憤慨した様子で腕を組み俺を見下ろす。目が異常に輝いている。

 初夏とはいえ明け方はまだ冷える。

 上半身にかかっていた布団を跳ね除けられた肌寒さで力が入った腹筋にほんの僅か持ち上がった詩織の重みを感じた。


「いつ戻って来た?」

「昨日の夜。全然眠れないの。ホテルで弾いてるのも飽きちゃったし」


 だからといって睡眠薬扱いされても困る。

 大体、初めてだったら眠るどころじゃないんじゃないだろうか……付き合った女性全員を抱いたわけもなく、関係した複数人は処女ではなかったのでよくわからないけれど。


「ホテルにとっては迷惑な客だな」


 夜中に箏をかき鳴らされては隣室の客は気になって眠れないだろう。

 詩織の奏でる音は人の感情を煽るような響きを持っている。


「スイートだもの平気よ」

「贅沢だな」

「事務所持ちだもの、ここにはタクシーで」


 すべてて許されて当然といった様子で言って、ふるりと剥き出しの肩を竦めて詩織は身を震わせた。

 寝巻きを着ている俺でも肌寒いのだから、薄着の詩織は冷えるだろう。


「なにか羽織るかしたら? 風邪をひく」


 俺から離れるのも癪で、かといってまた元通りに跳ね除けた布団の中に入るのも気位の高い詩織の性格からして嫌なのだろう。

 ようやく黙って気難しそうに眉根を寄せて口を尖らせていたが、やはり寒いのは嫌なのか後ろ手に跳ね除けた布団を掴んでばさりと頭から被って、俺の上に再び寝そべった。

 今度は誘惑ではなく単純に暖を取る為だ。


「昔、遭難ごっことかやったの思い出すな」

「ほっんと腹立つ! 洋ちゃんに好かれてもないのに抱かれてる女がいるのに!」


 もごもごと布団の奥から悪態を吐く詩織を咎めるように背中を軽く叩いた。

 真実ではあるものの、そう悪意の棘をまぶして言われるのは愉快なことではない。


「詩織」

「なによ、洋ちゃんが一度だって付き合ってる女をまともに好きになったことってある?」

「……ないよ」


 好きだと思う間もなく別れている。付き合っても三ヶ月と続くことはなく、そんなことだから肉体的なことは一度切りなのがほとんどだった。

 佐竹だけは五ヶ月続いたが……どうだろう。

 何度か抱いたし欲望もそれなりに覚えたが、果たして好きだったのだろうか。

 そして玲子は、流石にまだ一週間ではなんとも言えない。

 とりあえず一緒に過ごしていて不快を感じたり面倒に思ったことは一度もないけれど、なにしろこちらがそれで付き合っていることになるのだろうかと心配してしまう程の、淡白さと執着のない態度だ。

 そんな事を考えながらの返答だったが、どうやら詩織はお気に召したらしい。

 首に両腕を回して囁かれた。


「当然よ。洋ちゃんを虜にする“箏の精”に勝てる女なんていないもの」


 俺が夢中で箏を弾くことを、詩織はそう表現する。

 そういえば以前、桟田にも箏が俺の本命だと言われたことがあった。 

 あれは確か、三田村のバーで初めて桟田と鉢合わせした時だったか。


「ねえ……洋ちゃん、抱いて」

「抱かない」

「エッチな意味ではなくて、一緒に寝て」

「いいよ」


 軽く叩いた詩織の背に腕を回して抱きかかえるようにして、互いに横臥になるよう寝返りを打つ。僅かな面積に触れる互いの素肌に違和感のなさと体温が心地よく、目を閉じかけたところで衿を強く引っ張られた。


「ダメ、わたしが寝るまでは起きてて」

「わかった」

「わたしが起きる前に起きてどっかいくのもダメ」

「朝食は採りたいんだけどな」


 長時間眠っていないなら、今から眠っても詩織が起きるのは早くて昼頃になるのではないだろうか。


「だって、わたしからパパを奪った洋ちゃんは、わたしを淋しくさせないんでしょ?」

「そうだよ」


 詩織は叔父の娘だ。

 俺は詩織から父親を奪った。そう欲してではない。母と結婚したからでもない。

 俺が叔父が敬愛して止まない彼の兄、つまりは父の息子であるという一点だけで叔父は詩織に背を向け、俺に正面を向いている。

 憶えていないが三つか四つの俺が、叔父の前で玩具代わりに父から与えられた使い古しの箏を鳴らしてからずっと実の娘を蔑ろにして、俺を叔父は可愛がった。

 その事ばかりではないが、それも原因の一つとして詩織の両親の間の溝は広がり、結果として離婚している。

 もっともそんな事を知ったのは叔父が離婚した八年も後。

 母が叔父と婚約した小学校を卒業する頃だったが。


「パパは洋ちゃんのお母さんも好きだけど、洋ちゃんの箏のために結婚したの……」


 ようやく眠気が訪れたのだろう。うとうととして、まるで睦言のような囁き声の詩織に緩やかに首を振って抱き寄せる。


「それはないよ」

「ちゃんと一緒に寝てて……」


 胸元に擦り寄る詩織に頷いて、背を緩やかに撫でてやる。

 やがて穏やかな寝息の音が聞こえてきたのを確認してから、俺は目を閉じた。 

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