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13.ピアノの音

 “彼は自分に向つて次ぎ次ぎに來る苦痛の波を避けようと思つたことはまだなかつた。此夫々に質を違へて襲つて來る苦痛の波の原因は、自分の肉體の存在の最初に於て働いてゐたやうに思はれたからである。”


 

 前に読んでから五日が過ぎていた。

 本に挟んであった栞を頼りに(ページ)を開き、冒頭から文字を追いながら、ああここはもうすでに読んだなと記憶と文章を反芻する。

 ふと、なにかちらりと脳裏に過った気がして、なにが過っていったのか、じっと思考の中で自分の頭の中を覗き込むように探ってみたが見つからなかった。

 奏でる音と同じで、一度過ぎたものはもう戻らない。

 それにしても一体、どこをどう計測し、なにをしていったのか。

 昨日、木造校舎をくまなく測っていったに違いない複数人の業者の気配は跡かたもなく、柱や壁にチョークの書き込みでもあるだろうと予想しながら入った、第一図書室のあまりに変わりない様子には拍子抜けだった。

 本当にあと三、四ヶ月の内に校舎諸共なくなってしまう場所なのかも疑わしく思えてくる。

 昼休みは開けられなかった。

 桟田から職員室に呼び出されたのだ。

 いつも社会科準備室に籠っていて大抵の生徒をそこに呼びつけるくせに、俺に対しての呼び出しは職員室と決まっていた。

 用件はやはり第一図書室の事で、主語も述語もなく顔を見て突然「八月十日迄だ」と言われた。

 なにが、と眉を顰めたら「鍵」とひどく億劫そうに、心なしか苛々した様子で桟田は一言補足した。どうやら八月十日に桟田から預かった鍵を返せという事らしい。それが第一図書室の期限だった。

 苛々しているのはきっと煙草が切れているのだろう。

 流石の桟田も職員室では禁煙せざるを得ない。(たし)なむというより立派に中毒しているのじゃないのかと思ったがそれは口には出さず、わかりましたとこちらも簡潔に返事をして職員室を出た。

 

「八月十日か……」


 五日ぶりに開いた本を片手に、椅子の肘かけに頬杖を突く。

 なら、少なくとも六月中には新校舎へ移動させる蔵書のリストアップを終え、七月頭の委員会で第一図書室に関するすべての事項を決めてしまわなければならない。 

 生徒だけで本の移し替え作業は無理だから業者を手配する算段もある。

 七月末には完了させておきたいと思った。ついさっき感じたばかりの疑わしさは一気に具体性を帯びたスケジュールへとすり替わった。

 もうすっかり初夏の陽気だった。こうして第一図書室の司書部屋に入って、カウンターに向かう椅子に座り、アンティークな風情の窓ガラスを通した日光を浴びているとのぼせそうになる。中庭の緑は勢いを日に日に増していて凶暴さすら感じられるほどであった。

 ちょっと前まで桜が儚げに花びらを散らしていたのが嘘のようだ。花を惜しむ人の気など彼等の営みに何の関係もない。自然はかくも薄情であっさりとしている。

 人との間で起きる出来事も皆あっさりと過ぎていけばいいのだが……などと取りとめもなく考えたりしてしまうのは、読み返した本の世界に入りかけている証拠だ。

 自分以外に誰の姿もない今日の第一図書室はとても静かだった。

 本来ここはそういった場所だったと、俺はひっそり苦笑して再び本に目を落とす。前回本を閉じたところはもう少し先だった。



 “彼は苦痛を、譬へば砂糖を甜める舌のやうに、あらゆる感覺の眼を光らせて吟味しながら甜め盡してやらうと決心した。さうして最後に、どの味が美味かつたか。――俺の身體は一本のフラスコだ。何ものよりも、先づ透明でなければならぬ……”



 遠く微かに聞こえていた旋律が、だんだんとはっきりと聞こえてきたのに、はっとした。

 跳ねる様に振動した自分の体が自分の意志で動いたのではない感じで数度瞬きをする。

 陽を浴びて熱くなった髪を掻き回し、額に手をあてた。

 頭がぼうっとしていた。うたた寝していたらしい。

 一体何時から? どれ位?

 腕時計を確認しようとして動かした手の甲に硬い角がぶつかる。本は頁を開いたまま膝の上に乗っていた。あらためて時計を見ればもう十六時半を回っている。

 図書室を見渡せばやはり誰もいなかった。

 違いといえば、静けさをピアノの旋律が埋めている。

 同じ階にレッスン室として開放されてる教室で誰かがピアノを弾いているらしい。

 珍しい。

 芸術コースの生徒は大抵ちゃんとしたレッスンに通っているし、自宅に当然ピアノもある。

 木造校舎と違って完全防音のきちんとしたレッスン室が講義棟にあり、実技試験や受験日が迫る時期のレッスン室が混み合う時期の昼休みならともかく、新学年が始まったばかりの放課後にわざわざ木造校舎へ練習しに来る生徒なんかまずいない。

 カウンターから脚を降ろし、本を閉じて後ろ手に事務机に置いた。

 誰だろう……速くてやけに強弱がはっきりしていて、少し危なげなショパンの幻想即興曲。

 

 ――だって、下手だもの。

 

 ふと、玲子の言葉が浮かんだ。

 まさか、いや、もしかすると……椅子から立ち上がって顎を掴みながら出入口のドアの向こう、廊下から流れてくる音に耳を傾ければ、丁度曲調がやや緩やかに変化する部分に入った。 

 途端に躓く。

 早い部分より、もっと危なげな弾き方になる。

 これはひょっとするかもな……苦笑しながら、事務机の引き出しに本をしまった。

 もう閉館支度の時間だ。

 閉館支度といっても、俺の脚に蹴散らかされてカウンターの上にばらけた二三本の鉛筆を端にまとめ、鞄と鍵を手にとって司書部屋を出て開いている窓を閉め、廊下に出てドアの鍵を閉めて柱にかかる札を裏返し“閉館”と示す。たったそれだけだ。

 曲が終わる前に音源に辿りつけるだろう。

 一番近い教室にグランドピアノがある。

 曲調がまた冒頭に似たものへと変化する。

 それにしても短調の部分のが楽しそうに聞こえるのだから面白い。

 そんな事を考えながらのんびり歩いて覗き込んだ教室に、淡い黄色の光を背に受けて制服の少女がピアノに向かっていた。

 まだ海外旅行が洋行と呼ばれた頃に欧州へ出た日本人画家が描く絵のよう情景だったが、ピアノを弾いている少女の表情を見て思わず笑みの声が漏れた。

 ふっくらした口元が完全にへの字形をとっている。

 曲が終わった。


「練習?」


 声を掛けたら、飛び上がるように頭を上げた。

 誰と、見開いた眼が不安げに揺れた後、ゆっくりと緩む。

 俺に焦点を結び、網膜が伝達した像が誰か脳が判別して、ああ三橋くんだと思考に結びつく過程を見るような玲子の眼差しの変化だった。


「あ、もしかして聞こえてた?」

「完全防音じゃないから」


 言いながらまだ少しぼんやりとピアノの椅子に腰掛けている玲子に近づき、譜面台の脇に肩肘をついて寄りかかった。

 図書室がいくら外部の音が伝わりにくくて、各教室も同じ金属製のドアであっても流石に鳴り響くグランドピアノの音までは防ぎきれない。


「わっ、じゃあ起こしちゃった!?」

「いや、知らない間にうたた寝してて普通に起きた。来てた?」

「う、うん……えっと……」


 肯定した途端、急に頬を赤らめて俺から顔を背けるように俯くと、所在無く身を捩るように両手を中途半端にばたばたし始める玲子に、どうしたんだと眼を細める。


「ええっとね、あの……本! 返さなきゃと思って。だって月曜日借りたでしょ? 一週間だと日曜日が期限でお休みだし、それでっ」

「そんなに慌てて言わなくてもいいよ。寝ている間にキスでもした?」

「しないですっ!!」


 思い浮かんだ経験上の前例を冗談半分に尋ねてみたら、教室中に響く大声で怒鳴られた。


「顔なんか赤くしてるから。大声、出るんだな」


 うん、というより、ぶんっと表現したほうが相応しいような勢いで玲子が頷く。

 とはいえ、本気で怒ったわけではなさそうだった。


「それで?」


 途中になっていた玲子の言葉を促せば、少し落ち着き、尖った顎を傾けてこちらを見た。

 ただでさえ身長差があるのに、玲子は腰掛けていて俺は立っているものだからなんだか小さな子供と向き合っているように思える。


「それで、図書室に入ったら三橋くんうとうとしてたから……ちょっと待とうかなって」

「起こせばよかったのに」

「無理よ!! だってすごく気持ち良さそうで、なんだか絵みたいだったし」


 絵とはまた思いかけない言葉だ。

 俺の沈黙に、また慌てて玲子は絵みたいだったと言ったことに対し補足を述べた。


「あっ、えっと外国の! ヨーロッパの、教会の絵とか……こうさああっと射してくる光の中にいる人の絵あるでしょ?」

「聖人とかそういったの?」

「そういうの。それとかね、小説とかで、誰もいないはずの塔にじつはひっそり貴族の男の人が暮らしてたのを発見したみたいな感じ」


 翻訳ものの探偵小説に出てきそうだなと言い掛けて口を噤んだ。玲子の想像力は結構逞しい。それにしてもうたた寝していて宗教画の聖人あるいは幽閉された廃嫡貴族かなにかにされているとは思わなかった。


「なんだか、図書室にいちゃいけない気がして」

「それで、ピアノの練習」


 玲子は頷いた。


「途中の教室にピアノがあったから……いまやっている曲が苦手で」

「ショパン?」

「うん、聞くのは好きなんだけど……」

「ああ、そういうのってあるな」


 むしろ好きな曲なのに、どうにも手が調子良く弾けない曲がある。

 好きなだけにむきになる。

 むきになってますます好きな響きから遠ざかる……玲子の言葉の中ではいままでで一番理解できたかもしれない。


「三橋くんでもあるの?」


 驚いたように眼をぱちぱちさせて玲子が尋ねてきた。


「あるよ」

「プロの“ソウキョクカ”でもあるんだ」


 言い慣れない単語を口にした玲子に、ピアノに頬杖ついたまま思わず笑ってしまう。


「君が言うとなんだか花の名前みたいに聞こえる。演奏はするけど作曲はしないから箏奏者になるのかな? まあほとんど我流だからそう言っていいのかだけど。相性悪い曲ってあるよ」

「そうなんだ」

「自分の流れみたいなものを捻じ曲げないと弾けない……じゃあ、得意なのは?」

「うーん、ベートーヴェン……かな?」


 玲子の外見イメージでいけばショパンとベートーヴェンでは逆の様な気もするが、なんとなく納得できる返答でもあった。玲子は見た目ほどかわいらしい女の子といった感じはしない。

 すぐ真下にある鍵盤を見下ろし、その視線を玲子の手元へと動かし、そしてこちらを真っ直ぐに見ている玲子の顔へと移して、俺は軽く微笑んだ。


「弾いてみて」

「え?」

「好きな曲」


 ぶんぶんと玲子が大きく横に首を振る。


「どうして?」

「だって、三橋くんプロだもん」

「西洋音楽は素人だよ。それにプロじゃなく俺の場合はなんとなく好き勝手弾いてたまに家業の手伝い程度に外で弾くだけで、きちんと修練しているような演奏家とは違うし、批評家でもピアノ教師でもない」

「でも」

「それにさっきの危なっかしいショパンよりはたぶんいいだろうし」


 うーん、と渋っている玲子に少々意地の悪い気分で更に畳み掛ければ、恨めしげな上目で睨まれた。


「酷い、言い方」

「でも、おそらく事実じゃないか?」

「そうだけど……三橋くん、聞きたい?」

「聞いてみたい」


 返答したら、ぴくんと玲子の長い睫が震えて、またじっと俺を見る。

 猫が時々なにもない空間をじっと凝視するような様子、あれに近かった。

 俺にピアノをせがまれて、なにを考えているのだろうか。

 無理なら無理でそれ以上強制するつもりはなかったけれど、玲子という、時折思いがけないことを言い出し、付き合ってほしいと要求したわりにこちらが拍子抜けするほど淡白な少女が弾く音を聞いてみたくなった。

 聴いてなにがわかるというわけではない。

 箏とピアノ、邦楽と西洋音楽では全然違う。

 ただの興味本位で、ただの音への欲求だった。


「わかった」


 きっぱりとした、覚悟を決めたように凜とした返事が聞こえ、俺は頬杖から顔を上げてピアノの側面に背を預け直した。

 こうしていると本当に俺が玲子のピアノ教師のようだ。

 鍵盤に白く形のいい両手を構えるように乗せて、真っ直ぐピアノに向き直った玲子がちらりと視線だけで俺を見上げる。


「ん?」

「本当に、芸術コースの子達みたいに上手じゃないから……」


 妙に張り詰めた表情で言われて苦笑する。

 俺は先生じゃないからと言えば、ようやくくすりと玲子も笑った。

 なにを弾くのだろう。『月光』とかそんな曲だろうか。


「それじゃあ……」


 そう言って、玲子が両手同時に鍵盤をゆっくりと押した。

 重く低い……鍵盤から離れた指がゆったりと沈鬱な調べを奏でる。

 聞いた事がある曲だが、すぐに曲名が思い浮かばない。

 徐々に音を高くして、そこから滑らかにまた下がる軽やかな旋律に追従する重く暗い和音。

 ふいに囁くように右手の音だけとなり、拍を置いて突然早くなったところで、ひらめいたように曲名を思い出した。

 叙情的なメロディーで、一般的には第二楽章ばかりが有名なピアノソナタ。


「“悲愴”の第一楽章?」


 弾いている時の体の揺れの延長で玲子が浅く頷いた。


「通しで好きなの」

「いいよ、全部弾いて」


 ピアノにもたれていた背を持ち上げて、玲子に斜向かいになった。

 もたれていたら骨に違う音が響く。

 さっきのよろよろ歩きのようなショパンとはまるで違って、相当、弾き込んでいる感じだった。

 好き嫌いが激しいのかもしれない。

 楽しみで弾いているなら、そんなムラも許される。

 それでも、二年あれば音大へ進路変更してもがんばれば間に合いそうなくらいには思われた。

 ゆらりと遠のいては急旋回して迫ってくるようなアクセント付けと弾き方。

 独特の、深みに足を引き入れる波のような。

 確かに玲子向きだ、そう胸の内で呟いて眼を閉じた。

 玲子とピアノが消え、夕方の光が瞼を透る白っぽい視界に、自分と自分が奏でるのじゃない音が広がりはじめる。

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