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10.筝のそら音

「なんだ? お前等、まだごちゃごちゃ続いてたのか?」


 ほぼ入れ違いにすっきりした顔で戻ってきた桟田は、半開きのドアに手を掛けて会議室に入りかけた体を反らす様に傾け佐竹が去っていった方向を見た後、俺に向けて口の端を吊り上げる。


「続いてませんよ」

「不純異性交遊なんかするからだ」


 俺の返事を無視して会議室に入り、ロの字型に並んだ机の向こう側の窓へと移動した桟田は手近な机の上に腰掛ける。


「してませんよ」


 不躾な桟田の物言いに反発を覚えながら答えれば、胸ポケットを探りながら第一図書室ではだろと桟田が鼻先でせせら笑うように言った。お見通しらしい。


「急に女っぽくなっちまったからなあ……ま、詮索はしないが」

「教師が女生徒に対して言う言葉ですか、それ」

「どうせ風音に押し切られたんだろ? やっぱりおれの見立て通りに危険だったな」

「俺に言わせれば、佐竹を名前で呼び捨てにしてる教師の方が危険に見えます」


 胸ポケットから出した煙草を咥える桟田に議事録を渡すために立ち上がって近づき、一番手近な窓を全開にして寄りかかった。カチリと桟田の手元で音がした。


「おれはかわいい生徒は贔屓ひいきすることにしているが、それで言い寄られてもお前みたいに来る者拒まずで応じないし、望まれても手は出さない」


 35歳と、十代の生徒から見れば立派に中年おやじの扱いになる桟田は、ニヒルでさばけた物言いと生徒に対する押し付けがましくない気の回し方で、年上の兄貴分といった雰囲気で男女問わず人気のある教師だった。

 バツイチの独身らしいが、他の教師と違ってプライベートがあまり想像できない。

 そんなところが一部の女生徒の好奇心をくすぐるらしく、安全に近づける身近な年上男性への冷やかしで時折廊下で女生徒数人に取り囲まれたりしているが、中には本当に桟田に入れ上げる生徒もいるようで、職員室より社会科準備室に篭っていることが多い桟田のところへなにかと理由をつけて訪ねてきているらしい女生徒の姿も何人か見かけたことがあった。


 共通して少し大人びた、おそらく同級生のことは男女関係なく相手にしていなさそうな、学校といった枠組みの中で自分の早熟さを持て余しているようなタイプで、桟田はそんな彼女達に教師としてなにを示唆するわけでもなくただ鷹揚に眺め、一種の避難場所のようなものを与えているように見えた。

 俺にとっての第一図書室のように。


「生徒を贔屓するなんて公言している教師、この学校でもあなたくらいだ」

「平等とか公平になんて、誰も見ていないのと一緒だろ?」

「第一図書室ではって……不純異性交遊は禁止なんて条件設けるかな、普通、生徒がそういったことをするって可能性自体を教師は認めようとしないでしょう」


 俺に同意を求める言葉遊びのような桟田の言葉に呆れて皮肉のつもりで言えば、くっくっと喉元を鳴らして、煙草を口元から離して煙を吐く。


「思春期みたいな色気付く年頃、実際はともかくそれしか頭にないだろうが」


 人目につかない場所となればどこでも喫煙する教師のおかげで、最近、風紀委員の取り締まりが強化されている。

 迷惑な話だ。


「人の気のないあんな場所だからな。告白に逢引にその他諸々にと都合のいい場所だろ? 金の無いガキのホテル代わりにされちゃ堪らない」

「俺はあそこの静けさを気に入ってるので、その点は同意しますよ」

「本條との逢引場所にしているくせに」

「相変わらず、早耳ですね」

「昨日から、学校中その話で持ちきりだ」


 どこかで聞き覚えのある言葉だ。

 それにしても佐竹を贔屓する桟田が玲子は普通に苗字で呼んだのが意外だった。

 佐竹のようになにかを任せられるしっかりしたタイプではないが、玲子は玲子で容姿も込みで教師好きしそうなタイプの生徒だろうに。


「それと昨日、日直だった本條にちょっとした雑用頼んだら、やけにそわそわしてるんで尋ねてみたらお前と約束してるって聞いてな」


 日直で、手伝わされちゃって……。

 息を切らしながら第一図書室に現れた昨日の玲子を思い出した。

 玲子に用事を頼んだのは桟田だったのか。

 そういえばこの男は彼女のクラスの……。


「担任でしたね。彼女は贔屓の範疇に入らないんですか」

「ん……まあ、怖いからな」


 手にした煙草から窓の外へと流れていく細い煙を目を細めて眺めている桟田に、噂を真に受けるなんて意外だと言えば、そんなのじゃないと頭を振って煙草を口元に戻し、深く吸ってゆっくりと吐き出す。


「ガキ共の噂なんてしるか。そうじゃなく……いそうでいないタイプだよ。迂闊に近づくと危険な類の」

「危険? 玲子のどこが?」


 あんな生まれたてから人に飼われている猫みたいな、人懐っこく無害そうな玲子のどこが噂以外に危険というのだろう。

 煙が逃げていく窓の外をどこか虚ろに眺めている桟田を不審そうに見ていた俺に気がついて、彼は口の端を思い切り吊り上げる。


「三橋、お前やっぱりガキだな」

「は?」

「風音にはちゃんと引導渡せ、不憫で仕方ない。さっさと帰れよ施錠できないだろ?」


 上着のポケットから取り出した携帯灰皿に吸っていた煙草をしまい、ぴしゃりと窓を閉め鍵を掛けると、議事録を手に桟田は俺のすぐ隣にきて同じように窓ガラスに背を預ける。


「いいかもな、お前と本條……あいつなら風音と違って安心だ」

「言葉の意味がさっぱり理解できない」


 桟田から離れるように窓にもたれていた背を起こし、鞄を置いたままにしている机のところへ戻って置いたままにしていたのを取り上げた。


「本当に……お前は昔の自分見ているようで背が痒くなるよ」


 愉快そうな表情で見送るように俺を見ている桟田に目礼の挨拶だけして、俺は会議室を出た。

 すでに下校時刻は10分過ぎていた。



*****



 ピンと張ったそうげんを一本、爪を嵌めない指で弾いてみれば歪んだ愛嬌のある音がする。 

 今度は爪を嵌めて軽く掻き鳴らす。

 シャランといい響きで箏は鳴った。

 調弦は平調子。箏で最も基本の調弦だ。

 姿勢を正し、一息吸って静かに吐き出し、最初と次の音を右親指で弾く。

 人差し指と中指で軽く掻き鳴らす、左手で絃を押さえ……最初はゆっくりと、段々早さを増していく。

 いちいち、どの絃を、どの指をと意識しなくても勝手に音は広がっていく。


 『六段の調べ』、基本的奏法が効果的に盛り込まれているこの曲を弾くのは、日々、食事や睡眠をとるのと同じくらいに俺にとっては当然の事だった。

 習い始めの初心者が練習し、上級者にもまたよく演奏される7、8分の長さの曲。

 自分が奏で、他人が奏で、何百何千……何万回耳にした曲か最早わからない。

 弾き終わり、また息を吐く。

 弾き始めると頭がぼうっとする、音だけの世界に支配され、本当に奏でているのは自分の手指なのか曖昧になっていく感覚……何年経ってもコントロールできない。


 帰宅して、学校の課題を片付け、夕食と風呂を済ませた後、こうして離れの誰も使わない稽古場で弾き通しに弾いてやがてやってくる眠気に従ってぷつりと糸が切れたように眠るのが、学校から家に帰った後の俺の日常だった。

 弾く気がなくても家には内弟子の人などが奏でる音がある、音を聞けば、音の世界へと誘われてしまう。本など家では読めない。

 ましてや根を詰めてさらう曲がある時なんて、集中して弾かないことが有り得ない。

 宗家主催の定演会他、各方面の座敷や宴席や演奏会へとたまに呼ばれる。

 稀に政治家なんかのパーティの余興もある。

 そういった場に出るのはもっぱら家元である叔父か直弟子の人で、俺が必ず出るといったら宗家主催の定演会くらいだがたまに叔父の代役を務めることもあった。


「誰もが弾くが……同じ曲とは思えんな」


 不意に聞こえた声に、演奏を止めて顔を上げた。


「帰ってたんですか」

「つい、さっきな」


 広い稽古場の入り口側に叔父が何か包みを抱えた内弟子の男性を一人従えて、羽織袴の外出着で立って腕を組んでいた。

 浅黒い顔の鼻先が微かに赤い、宴席だったのだろう。


「お帰りなさい」 

「ん、ああ、ただいま……もういい、これは皆で食べなさい」


 後ろの言葉は内弟子に掛けた言葉で、彼は一礼して去っていった。

 包みはきっと土産の菓子折だ。 


「先代の兄さん同様……いや、兄さんよりもっとこう……艶っぽいんだよなあお前の音は。絡みつくような引っ張られるような」


 どかりとその場に胡坐あぐらをかいて座り込み、後頭部を掻く叔父に目を細めた。


「随分、飲んだんですか?」

「いや、それ程は……もうあれだ、歳だな。すぐ酔いが回る。もう程々にして代わりに……」

「出向きませんよ、俺は。未成年だし」

「まだなにも言っていない」


 出鼻を挫かれて口の端を曲げる叔父に困ったように肩を竦めて、箏をシャンと戯れに鳴らせば、ううぅ、と呻いて叔父は上半身まで揺らして大きく頭を振った。


「適当に鳴らして、それだからなぁ」

「定演会の曲をやるので、悪いけど」

「あ、ああ……外そう。邪魔したな」


 人がいると集中できない。

 弾いている間は内弟子はもとより叔父ですら声を掛けるのを通常ならはばかる。

 稽古場に一人。

 箏の木目と絃とそれを支える箏柱と指に嵌めた爪と……それ以外、向き合うものなどなく、それすらもすぐ視界から消える。


 産まれた時から、いや、もしかしたら産まれる前からかもしれない。

 音は常にあった。

 誰かが奏でる音を聞き、自分が奏でる音を聞き……弾けば骨の髄まで染みた音は外に出る、けれどそれは新しい音を聞くことでもある。

 嫌なわけではない、奏でることも聞くことも……独特の恍惚感は止めるという選択を捨てさせる。

 いつか完全に侵食されてしまうかもしれない。

 強く誘ってくるなにかを頭のどこかで払いのけながら、そのなにかに操られるように箏を奏でる、毎晩、欠かさず。

 どんなに熱心な内弟子でも、家元である叔父にも、こんな感覚はないそうだ。


 玲子は……どうなのだろう。

 早く帰宅しなければいけない帰り道、4歳からピアノ教師を呼んで習っていると聞いた。

 そんなに本格的にやっているのなら、なぜ芸術コースにいかないのかと尋ねれば、あっさり下手だからと答えが返ってきた。

 でも楽しいし好きなのとも。

 楽しい……か。

 たしかに楽しくもあるけれど。


「きっと、違うだろうな」


 玲子と俺の付き合うというものの感覚と同じように。

 もう一度、頭から。

 さっきまで鳴っていた音がまだそこかしこに漂っている。

 演奏を止めても、消えない音の気配を感じながら、絃を押さえ、最初の音を弾けば、ピンッと包まれるような深い音がした。

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