壱の章:はじまり
夏真っ盛りの8月、その船は首都東京から遥か東にある島へ向かっていた。
船の甲板で、四人の少女達が輝く水面と白い水飛沫にそれぞれの思いを馳せていた。
「ねぇ、まだ見えないの?」
四人が目を凝らす先には地平線。宝探しをするトレジャーハンターのように、期待に胸を膨らませる。
「もうすぐ見えてくるはずです───ほら!」
指で示された方に目をやると、地平線の彼方に、薄黒くぼんやりとした影が浮かんでいた。
「すごーい!」
「結構大きな島なんだねー」
よく見ようと眼を凝らすが真夏の太陽に照らされた水面は鬱陶しいくらいに白く輝き、お陰であまり凝視できず、目的地である島のシルエットを確認するだけに留まっていた。
甲板ではしゃぐ少女達を、薄暗い船室から冷ややかな目で見つめる二つの影。
「行かないのか? 近藤」
「別に。ああやってはしゃぐのは苦手」「奇遇だな。あたしも苦手だ」
手をうちわ代わりにしてパタパタと扇ぎながら、うだるような暑さと反射する光の眩しさに眉を寄せる。
「だからこうして離れてるんでしょ」
「まあな」
仄かに潮の薫りがする風を、思いっきり吸い込んだ。
「楽しいキャンプになるといいね」
「そうだな」
そう言って、二人の少女は甲板にいる四人の元へ歩き出した。
「ね、みんなでキャンプ行かない?」
クラスメイトのこの一言が、すべての始まりだった。
「キャンプ?」
「うん。せっかく夏休みなのに、勉強ばっかりじゃ息詰まるでしょ?」
「だからって、何でキャンプ?」
「夏っていったらキャンプじゃない?」
「真依……それは適当過ぎるよ。第一、どこに行くのさ?」
「うーん」
「ね、無理でしょ?」
「うーん」
目の前で繰り広げられている他愛ない会話に耳を傾けつつ、近藤千明はぼんやりと窓の外を見ていた。
8月始めの出校日。
夏真っ盛り、窓の外では風前の灯となった命を謳歌するかのように、絶え間なく蝉が鳴き続けている。
それが、蝉として生まれた彼らの使命だとは解っていても、人間からすれば、その声はただの邪魔物でしかない。ただでさえ暑いのに、彼らの決死の自己主張が余計に暑さを際立たせる気がして、千明は嫌いだった。
教室に備え付けてあるクーラーは、夏休み前の補習の時に壊れて今もそのまま。
だから、必然的に窓を開けなければならなくなる。蝉と人間の一騎打ち。千明は負けていた。
今日はそれほど暑い日ではないものの、それでもやはり冷房器機のない教室はじめじめと蒸し暑く、張り付いた制服が不快感を更に際立たせる。
故に、みんなして下敷きでパタパタと扇ぐ。本来の使用方法など、気にもせず。もちろん、千明とて例外ではない。
「ねー千明ちゃん。何か良い案ない?」
そう問うのは江藤真依。真依は事あるごとに千明に助けを求めてくる。
いつも大した内容ではない。もちろん、今日のもそのひとつだろうと思っていた。
「映画でも行けば? 今流行りのなんとかっていう洋画」
「違うのー! うちはもっと どーん としたトコロに行きたいの! 映画なんていつでも行けるじゃん!」
「何なの、どーんって」
「キャンプ行きたいってことだよねぇ?」 呆れ気味の千明に、真依の親友、相坂結衣が解説を加える。彼女は容姿も話し方も性格も幼くて、とても同い年には見えない。
「別にキャンプじゃなくてもいいんでしょ? 遠いなら」
「近くてもいいよー。“どーん”なら」
「だから何なの、“どーん”って」
「だからキャンプじゃないのぉ?」
「……もういい」
下手したら永遠に続きかねない無意味な会話の連鎖を食い止めるべく、千明は強引に話を切ると、隣の席に座っていながらも会話に入ろうとしないクラスメートを見た。
「いいんちょー、真依どうにかしてぇ」
千明が話し掛ける前に、結衣が彼女に助けを乞う。
委員長、速水 梓。
冷静沈着で、淑やかな物腰と知性的な雰囲気から“委員長”なるあだ名を付けられた帰国子女。
結衣の顔を不思議そうに見つめていた梓に向かって、千明はヒラヒラと右手を振った。
それに気付いた梓がペコリと頭を下げた。
「──それなら、うちのペンションに来ませんか?」
主旨が二転三転したこの話題は、真依と結衣に説明を受けた梓によって、一旦の終局を迎えた。真依の言う“どーん”の意味は結局最後までわからなかったものの、一応は進展したのだ。
「委員長、ペンションなんて持ってるのー?」
結衣が問う。
「うん。祖父の物だったんだけど去年亡くなって──今は叔父が譲り受けたけど、頼めば使わせてくれるし、どうかなって思って」
「そういえば、委員長ン家金持ちだったね」
ふと思い出したように千明が呟く。
「家に車三台も停まってるんだから。しかも外車」
「あれは父の趣味で──二台は母と祖母が使いますし」
「えー? ユイん家はお母さんもお父さんも右側運転席が一台で兼用だよぅ。やっぱり委員長お金持ちぃー」
「あの、私の主張は無視ですか? みなさん」
「やっぱりお嬢様は違うんだよ。うんうん」
「結衣さん、一人で納得しないでください」
そんな他愛ない会話が数分続いた後、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
生徒達は騒々しく自分の席へ戻り、そしてまたそこで雑談を始める。
「それじゃ、本当に委員長のペンションで良いの?」
言い出しっぺの真依はそれだけ確認すると、自分の席へ戻っていった。
夏休みの出校日らしく、その日は二時間の補習授業と課題の提出と担任の講義めいたつまらない話で終わった。
チャイムが鳴り、生徒達が慌ただしく帰り支度を始める頃、梓の元に真依と結衣が来た。
「ね、本当にいいの?」
真依が再三確認する。
「構いませんよ」
梓はそれに笑顔で答えた。
「あ、でも」
不意に、梓は結衣を見上げた。
「あそこ、何か色々とあるそうで」「い、いろいろって何?」
梓の意味深な物言いから何かを悟ったのか、結衣は一瞬身を強張らせた。
「出る、らしいです」
「出るって何が?」
「オ・バ・ケ」
すーっと、結衣の顔から血の気が引いていくのは、誰の目から見ても明らかだった。
「オ、オバケ、オバケッ───」
「相坂、オカルト苦手か?」
不意に、どこかから声が掛けられた。
ハスキーな美声は、“学校一の変人”と云う何とも不名誉な異名を持つ中性的な顔立ちのクラスメート──千明の後ろの席に座る、長瀬詩乃のもの。
「詩乃はそういうの平気だから良いかもしれないけど、ユイは苦手なんだもん……」
拗ねた幼子みたいに、口をすぼめて俯く。
「オカルトほど面白いものはないぞ? 相坂」
長瀬詩乃は嫌がる結衣には構わず、寧ろその状況を愉しむかのように話を続ける。
「ほら、この間の“カルト研”で手に入れた写真なんか、木の間に首から上のない死体が映って──断面とかリアルだぞ? ほら見てみ、この血肉の赤み具合なんか特に……」
そういって差し出された写真を見た瞬間、
「いゃあぁあああ───────!!」
結衣は後ろに倒れた。
「結衣!」
「結衣さん!」
真依と梓が駆け寄る。
「───ったく、本物なワケないだろ。合成だよ合成! 本物なんか滅多にお目にかかれないんだぞ。……欲しいけどさ」
ちなみに“カルト研”というのは“オカルト研究会”の略称で、世の超常現象を日夜研究し、解明することで、文明科学への貢献を──などと銘打ってはいるが、実際のところはただのオカルトマニアによるオカルトマニアのための大学附属組織。まだ高校生ではあるが、当然詩乃も入会している。
「まったく、誰と構わずそういう写真見せるなんて、詩乃も悪趣味だね」
千明が皮肉たっぷりに、余裕な表情の詩乃に言い放つ。
「ふん、あたしの趣味を他人にとやかく言われたくないな。それにあたしは別にオカルト写真を見せるのが好きなんじゃない。その写真を見て怖がってる奴を見るのが好きなんだ」
「このドSが……」
「ん? 何か言ったか?」
「別に」
あえて突っ込まないことにする。
「そんなにオバケが好きなら、詩乃も委員長ン家のペンション来れば? 出るらしいから」
写真のショックに涙ぐみながら、結衣が詩乃に提案する。
「出る? 本物か? 速水」
少女漫画の主人公のようにキラキラと目を輝かせて──いや、少女漫画の主人公も霞むほどの輝きを纏って問う詩乃。
「ただの噂よ。あなたも来る?」
「行くさ、もちろん。“カルト研”メンバーとしては、そんなチャンス見逃せない」
「“カルト研”メンバーとしてではなくて、私のクラスメイトとして遊びにきてね。また結衣さんが倒れちゃうから」
「……仕方ない。わかったよ」
詩乃は渋々頷いた。
「あ、それじゃあ、アイツも誘っていいか? 佐原怜子も」
怜子は、詩乃の幼なじみ。
「構いませんよ。人数は多い方が楽しいですしね」
「サンキュ、速水。佐原呼んでくる」
放課後の教室の喧騒の中、詩乃は教室を出ていった。
「ねえ委員長ー、本当に怜ちゃんも誘うの?」
詩乃の姿が扉の向こうに消えてから、周囲を憚って小声で呟くように問う。
「結衣、怜子嫌いなの?」
千明の問いに、結衣は「少しね」と苦笑いで答えた。
「でも、うちはいい娘だと思うよ、怜ちゃん」
真依が結衣に微笑む。
「せっかく委員長がオッケーしてくれたんだから、みんなで楽しもうよ、ね?」
それが、最初の日のデキゴト。