第5話「五年前の出会い」
身体が勝手に動いていた。分からないことが怖かった。
神界から右も左も分からない人界の、それも一国の首都に。五歳の少女が、ましてや天使が怖がるのは無理もない。
鏡の前に立つが映らない。誰も気づかない。それどころか誰もが自分をすり抜けていく。
「これが……じんかい!?」
見ると行くでは大違いの人界で立ち尽くす。自然と溢れる涙だけは、人界に染み込んでいく。
「あっ!」
そんなところにやって来たマオ。泣いているカムアを見て慌ててハンカチを差し出した。
「アタシに?」
「うん!」
差し出されたハンカチを取ろうとするが、カムアの手は無情にもマオの手をすり抜けてしまった。
目の前で起きたことに驚いて目をパチクリさせるマオ。
「アタシはさわれないみたい」
「う~ん、それはこまったよ。なみだをふけないよ」
「だいじょうぶだから。もうなきやむから」
涙を拭いてマオを見るカムア。確かに泣き止みはしたが、その目は腫れぼったい。
「ほんとうにだいじょうぶ?」
「だいじょうぶったらだいじょうぶ。アタシはてんしだから」
「てんし? うーん、だてんしみたいだよ」
「それひどい!」
「ごめんよ! かみのけはまっくろだし、めはむらさきだから」
「そんなわけない! かみはきんいろ、めもきんいろ!」
「ううん、ちがうよ」
「そ、そんな……!?」
「そんなにおちこまないで。とってもにあってるよ!」
「ほんと?」
「うん!」
にぱっと飾り気のない無邪気な笑顔をカムアに向ける。
そんなマオの笑顔を見たカムアの心臓はドキッと高鳴った。
「アタシのことはいいから、はやくいきなさい。むこうでよんでる」
カムアが指差す先にはマオの母親が立っていた。
それに気づいたマオは走り去ろうとする――が、不意にカムアの方へ振り返り名前を名乗った。
「ぼくはマオ! きみのなまえは?」
「……カムア」
「そっか! またね、カムア!」
母親のほうへ走っていくマオの背中が小さくなっていく。人界で初めて話した少年の背中が。
「マオ、か。どうしてアタシをみれたんだろう?」
胸の前でギュッと拳を握る。その拳を高鳴る左胸に重ねて目を閉じた。
何度も何度もマオの笑顔を思い出す。この五年間、人界にいるカムアにとってマオの笑顔は支えとなっていた。
※ ※ ※
「――オレが思い出したのはこれくらいだけど」
「それで合ってる。その後オマエと会うことはなかった」
「そりゃそうだよ。オレがマルギアに来たのは五年ぶりだし」
「まったく! アンタが『またね』って言ったもんだから待ってたのに」
「はあ!?」
「なんなのかしら、その顔は。アタシのことを馬鹿だと思っているのかしら」
「馬鹿にはしてないよ。呆れてるだけ」
「アタシにとっては同じだから!」
猫パンチを繰り出すカムアに、マオは思わず笑ってしまった。両手を合わせて謝罪をしている。
不意に笑顔を見せられたカムアの心臓が高鳴った。繰り出していた猫パンチを止めて固まる。
「どうかした?」
「どうせ当たらないのに馬鹿だアタシは。自分が空腹であるのを強く感じてしまった」
「お前は天使なんだろう? なんか特別なことできないのか」
「空を飛ぶことができる」
「それだけ?」
「それだけとはなんだ、それだけとは! 人間は空を飛べないのに」
「天使なら飛べるだろうよ」
「まったく。ほかにできることといえば――」
胸の前でギュッと拳を握る。その拳を高鳴る左胸に重ねて静かに呟いた。
「――天使のキス」