お宝買わせていただきます
壱
書を学ぶ基本は、手習い。
手とは、筆蹟。つまり、手習いとは、先達の名筆を真似ることにほかならない。
そして、名筆を真似ること、つまり模写も莫迦にはできない。
名筆の原本が失われた場合、完成度の高い模写が原本と同じだけの価値を持つこともあり得るのだ。真伝を受け継ぐものとして。
君子は墨を含ませた筆を、紙の上にかざす。
手本は、ない。
いや、あることはあるのだ。頭の中に。
目に焼き付いている、あの手を再現しよう。
そしていつか、誰かが自分の手を習いたいと思ってくれるような、書を書き上げたい。
祈りをこめて、紙に筆を下ろした。
弐
「お待たせしました」
応接用の卓子の向こうで、濃灰色の飾り気のない、けれどよく見れば質が良さが伝わってくる背広に身を包んだ若い男が視線をあげた。この屋敷の主、冷清水実英の長子、公実だ。
公家の流れをくむ華族にふさわしい典雅な目鼻立ちで、所作も洗練されていた。大人びて見えるが、歳は君子より五つ上の二十歳だと聞いている。
直前まで目を通していた書類は綺麗に揃えられて卓子の上に置かれており、文鎮代わりに萬年筆が載せられている。発売されて間もない蒔絵の施された優雅な品だ。君子もうわさには聞いていて興味を持ってはいたものの、女学生の身では到底手が出る値段ではない。家を維持していくのがやっとの貧乏士族の家格を考えても、生涯目にすることはあるまいと諦めていたものだった。
「いえ、こちらこそお忙しいところ申し訳ありません」
緊張で声が震えないかと心配したが、なんとか持ちこたえた。
「さっそくお宝を拝見いたしましょう」
淡々と話を切り出されたが、不快ではなかった。むしろ、ふかふかすぎるこの長椅子のほうがすわり心地が悪く感じるくらいだ。
この部屋に案内された際、簡単にではあるが自己紹介は済ませてあるし、要件は仲介してくれた知人を通してあらかじめ伝えてある。なにより、公実があっさり話を進めるのは、その要件の内容を忖度しているように思えたからだ。
君子の家に代々伝わる家宝の買い取り依頼。要するに金策だ。本来なら父が来るべき仕儀であるのだろうが、士族としての誇りが許さなかったのかもしれない。
冷清水家は代々美術品を収集し、管理する家系であるし、藝術家に対する経済的な支援も行っていた。家宝を買い取ってもらうには最適な相手と言えた。
士族と言ってももはや戸籍の上だけのこと。
上方カルタに武士は食わねど高楊枝とあるけれど、先立つものがなければ見栄を張り続けることなどできないのが現実なのだ。
父は公吏をしていてそれなりの俸給を得ているが、君子を女学校に通わせるのに相当無理をしているし、まして、女子高等師範学校への進学を叶えてくれるためにはとても俸給だけでは足りなかった。
君子は袷袱紗をほどき、桐の平箱に収められたままの家宝を卓子の上に置く。
胸が、傷んだ。
これは家宝でもあり、君子にとっての宝物でもあった。
この宝をはじめて目の当たりにしたとき、その美しさに息を飲んだ。
紙に墨で記された文字。インクとペンがあたりまえとなった今でさえ日常的に目にするものではあるのだが、家宝に書かれているものは世界が違っていた。
以来、その美しさが自分の目標になった。
その美しさを生み出せるようになりたいと思った。
大事なものだけに、毎秋数日だけ虫干しのために蔵から取り出される間だけ、必死になって筆遣いを目に焼き付けたものだ。
「手にとっても構いませんか? できれば開いて中も確認したいのですが」
唐突に、現実に引き戻された。
「はい。ご随意に」
公実が桐箱に手をのばし、箱を開ける。
煌びやかな料紙を粘葉装で閉じた、古めかしい和本の歌集が姿を現した。
絹のハンカチーフで手をよく拭ってから、公実が歌集の頁を捲る。
「なるほど。行成様ですね」
「父からは真筆と聞いています」
「そうですか」
たしかに藤原行成の書風に見えますね。いいえ、本人直筆です。というやりとりだった。
そこで会話は途切れた。
時々、頁を捲る音が響くだけだ。
正直、肝が冷えた。
実のところ、君子も真筆であることに疑いを持っている。
大名家で祐筆を務めていた先祖が、その書の腕前に対する褒美として殿様から授かったという由来は聞いているが、平安の殿上人で三蹟の一人、藤原行成の真筆が一介の士族の家に伝わっているはずはない。公家か、大名家にあるべきものだ。
ただ、料紙も立派なもので、古さもある。書も魅了されるほどの風格を感じるだけに、偽物と断じることもできない。
それゆえ、父から真筆と聞いている、と答えるほかなかったのだ。
「ふむ。迷いますね」
公実がぽつりとつぶやく。
迷っているのは君子も同じだった。
こちらの言い値で買って貰えなければ進学の夢は叶わない。けれど、本物として売って良いのかといううしろめたさもあるし、自分のために家宝を処分してしまって良いのかという気持ちもある。
その迷いが、素直に言葉として零れてしまった。
「あの、今日はこれを持って帰ろうと思います」
訝しそうな視線がこちらを向いている。
「もしや、ほかに買い手がついてしまったのですか?」
「いえ……その……本当にこれを売ってしまっていいのか……と」
「それはそうでしょう。これだけの品はそうはありませんから。けれど、失礼ながら貴家はこれから物入りだと伺っています。それに、僕もぜひこれを買わせていただこうと思っていますし、そういうお話しだったはずです」
「……仰るとおりです。ただ……まだ、決心が……」
「……つきませんか。ふむ」
存外穏やかな声だった。
本来なら罵声を浴びせられても仕方がないところだ。なにしろ歌集の売り買いはこちらからの申し出だったのだから、土壇場でそれを取り下げるなど無礼なこと甚だしい。
君子は居住まいを正し、深々と頭をさげた。
「申し訳ありません」
しばし目を瞑り、あごに手を当てていた公実だったが、何を思いついたのか徐に笑顔を浮かべて大きく頷いた。
「まだお時間は大丈夫ですよね?」
「え? それは、まあ」
「よかった。準備をしますので、ちょっと待っていてくださいね」
いったいなんの準備なのかと問う暇を君子に与えることなく、公実は立ちあがり、部屋をあとにした。
参
目の前に、和紙が広げられている。
薄手で艶のあるところを見ると、雁皮紙と思われた。
傍らには石紋の美しい硯、小型の墨、水滴、まだ下ろしていない小筆が用意されていた。
どれも必要以上に飾り立ててはいないが、質の良さが覗えるものだった。おそらく公実の趣味なのだろう。
書いてみろ、ということに違いはないが、何を書けというのだろう。
君子は上目づかいに公実を見やる。
公実は、君子の困惑を知ってか知らずか、にこにこと楽しそうにこちらを見つめていた。
「あの……」
「君子さんは書が達者だと聞きました。女高師(女子高等師範学校)を目指しておられるのも、それがあってのことだとか。ぜひお手前を拝見したいですね」
今日の話を仲介してくれた知人から聞いていたのだろう。わざわざ今ここで、と思えなくもないが、断る理由も見つからない。
「お眼鏡にかないますかどうか。けれど、何を書けば良いでしょう?」
ちらりと、歌集に目をやった。
書いてみたい。胸が疼いた。
しかし、その期待は見事に裏切られた。
「シャクヨウショを」
「は?」
シャクヨウショ。はて、そんな書の大家がいただろうか、それとも古典の名著の名だったか、などと思いを巡らしているうち、それがまるで見当違いの思議であることに気づいた。
何のことはない。単に借用書と言っているだけだったのだ。とはいえ、その意味はまだつかみかねているというのが正直なところだ。
「あの、何の借用書でしょう?」
公実は、笑顔の中に幾分真剣さを溶かし込んだ表情で、答えを明かす。
「行成様の歌集を買い取らせていただく。それは約束ですから、そこを譲ることはできません。ですが、君子さんの気持ちも無視することも心憂い。だから、歌集は買い取らせていただいて、その歌集をしばらく君子さんにお貸ししようと思うのです」
「お心遣いはありがたく思います。でも、いつまでお貸しいただけるのかはわかりませんが、いずれはお返ししなくてはならないのですから同じことです。それに、お貸しいただくのでしたら、借賃をお支払いしなくてはなりません」
「もちろん。期限は切らせていただきます。ただ、貸賃は不要です。そのかわり、条件もつけさせてもらいましたから」
期限を句切るのは当然のことだろう。けれど、条件とはいったい……今までの話の中で出てきただろうか。聞くのが怖い気もするが、公実というつかみ所のない青年がどんな条件を出すのかを聞かないのはもったいない気がした。
「申し訳ありません、条件とはなんでしょう。聞き漏らしたようです」
「ですから、お手前を拝見したいと申し上げました」
呆気にとられた。
この男は、借用書を書かせることで、書の技量をはかろうというのだ。合理的といえるのだろうが、礼儀に欠けること甚だしい。
この華族様は、掌の上で君子を弄んでいるつもりのようだ。
このまま口も聞かずに帰ろうかと思ったが、それでは辱めを受けて黙っているようなものだ。せめて一太刀浴びせ、士族の誇りを見せつけたかった。
公実の目をじっと見据え、硯を引き寄せる。
「わかりました。わたしが、あなたの歌集を貸していただけるだけの腕前かどうか、存分に吟味くださいますよう」
水滴から硯に水を垂らす。
そこで、邪念は消えた。
書き上げてみせる、自分が書くことのできる、最も美しい借用書を。
もちろん、行成の書風に決まっていた。
***
「すばらしい借用書です。これほどの借用書はそうそう見られないでしょう」
食い入るように君子の借用書を見つめていた公実が、興奮気味に口を開いた。
最上級の褒め言葉だった。
使い慣れない他所様の用具で書き上げたのだから、君子にとっては満点以上の評価を得たようなものだ。
とはいえ、それだけ褒められているというのに素直に喜べない。なにしろ書いたものが作品と呼びにくいものだけに。
それに。
借用書を書いたということは、歌集の所有権がすでに公実に移ったことを承認したのと同じことだ。
こちらの自尊心を利用され、既成事実を作られたというのに、褒められたことでその悔しさが薄らいでしまっていることが、ほんの少しだけ悔しい。
だから、事実を口に出すことで気持ちに区切りをつけようと思った。
「合格ということですね?」
「もちろんです。ただ、」
公実は興奮を落ち着けるように一旦深呼吸をして続けた。
「もうひとつだけ条件をつけさせてください」
なんでもないことのように言い放たれた言葉なので、聞き流してしまいそうになるが、一拍おいて頭の中で警鐘が鳴り響く。さすがに聞き捨てることはできないことだった。正当な理由もなしにこれを許せば、なし崩しに条件がどんどん増えかねない。
「それは承服しかねます。わたしの借用書は合格したはずですから」
「はい。ですが、この借用書にはお返しいただく期限が書かれていません。それを決めるためには必要なのです」
「期限を? そちらのご厚意でお貸しいただけるのですから、ご自由に決めていただいて構いません」
「お覚悟、敬服します。ただ、期限は君子さん次第なんです」
「わたし次第?」
一旦鳴り響いたはずの警鐘はすでに止んでいた。
会話の主導権を握られているとわかっていても、それを拒むとができない。というより拒む気が起きない。
公実の人柄によるものなのだろう。手綱を握られて引っぱっられるような、強引さがないのだ。まるで、優しく手引きをしてくれてるかのように。
「そうです。具体的な日付を決めることはできないものですから。なぜなら――」
公実は、尊敬する教師を前にした生徒のようにただ聞いているだけになっている君子を尻目に、返却期限がどうやって決まるかを滔々と語りはじめた。
肆
「いかが……でしょう?」
応接用の卓子の向こうで、公実が面白くなさそうな顔をしている。
もう片手では数えられないくらいここに通っているが、公実がそんな表情を見せるのははじめてだった。
「お気に召しませんか?」
「そうですね。これは及第点は出せません。ご自分でも、そう思われたのでしょう?」
「……すみません」
公実が不合格を告げたのは、君子が持参した書に対してだった。
高価な料紙に、行成の歌集の一部が臨書(模写)されている。君子が書いたものだ。
行成の歌集のすべてを君子が臨書し終えるまで。それが公実が決めた返却期限だった。概ね一週間を目途に、書き上げた部分を持参し、差し出している。
公実は買い取ったはずの歌集を無償で君子に貸し出し、それを臨書するための料紙まで提供してくれているのだ。おそらく、行成の歌集を君子から取り上げてしまう――という言い方は正しくないのだろうが――のが忍びなくて、せめて立派な模写本を手元に残せるよう配慮してくれているのに違いなかった。その気持ちに応えられないことがつらい。
臨書は順調に進み、終わっていないのはあと数頁というところまで来ていた。今日はその最後の部分を書いてきたのだった。が、あと少しというところで君子の調子ががくんと落ちていた。思うように書けないのだ。
俯きつつも上目づかいに公実を見やる。
すると、公実の顔には普段どおりの穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「線が死んでいます。真似しよう真似しようと形ばかりにこだわりすぎです。先日の借用書や、これまで持ってきていただいた分をみて確信しています。あなたは間違いなく行成の筆意を継いでいる。もっと自信を持ってください」
「はい。この書ではだめだということはわかっています。わかっているんですけど……」
「なにか問題が?」
「その……料紙をもう何枚も反故にしてしまいましたし……なかなか書き進まないので、ずいぶんお待たせしていますし」
実際、女学校に通いながら書き進めるのは、なかなか骨の折れる作業だった。
書に一番重要なのは、集中力だ。一枚仕上げるには、その一枚を書き上げるまで集中力をずっと持続する必要があった。途中で休憩を入れたり勉強したり、中断などあり得ないのだ。だから、まとめて時間を作れる深夜などの作業にならざるを得ない。
加えて、書き損じはどうしても生じる。単なる文字の書き間違いもあるし、行成の書き方ではなく自分の癖が出てしまうこともあるからだ。今回は完成度を極力高めた模写本を作るという目標もある。だから、反故の枚数は一枚や二枚で済むはずがなかった。
いくら厚意とはいえ、公実が用意してくれる、紙そのものだけでも飾っておけるような見事な料紙を無駄にすることが心苦しかった。
「そんなことを気にしていたんですか。紙は懇意にしている問屋から融通してもらっているものですし、期限もとくに焦っているわけでもありません。存分に書きまくって納得のいくものを書き上げてください」
「ありがとうございます。お気遣いには、本当に感謝の言葉も見つかりません。必ず良い書を仕上げて見せます。ただ、ご厚意に甘えすぎることなく、なるべく早く仕上げるよう頑張ろうと思います」
「あまり無理をなさらないでくださいね。先ほども申し上げましたが、歌集をお返しいただくのはいつでも構わないのですから」
「でも、せっかくの歌集がいつまでも手元に来ないのでは、買い取った甲斐がないのではありませんか?」
「そんなことはありませんよ」
珍しくクスクスと公実が品なく笑った。
「僕が欲しいのは、君子さんの方ですから」
「うぇ?」
束の間、思考が停止したが、公実があまりにも普通の顔をしているのを見てなんとか立て直す。
公実の言葉が理解できなかったわけではない。むしろ理解できたからこそ何かの聞き間違いである可能性を探して頭の中で混乱の原因となっている言葉を反芻せずにはいられなかった。
――僕が欲しいのは、君子さんの方ですから――
けれど、聞き間違いをするような難しい言葉ではなかった。頭の中で、問題の言葉が何度もこだまする。
「うええええええええ?」
頭に血がのぼっているのがわかる。
結果、混乱を鎮めようとする行為は、さらに混乱の度合いを深めただけだった。
伍
「今度は筆が走りすぎていますね」
公実が困ったような声で語りかけてくる。
「というより、筆が踊っています。行成の書はもう少し品があって格調高いはずですよ」
「……すみません」
まるで前回と同じようなやりとりだった。
落第点の方向性はまるで逆だったが。
「あとひと息ということで浮かれるのもわかりますが、せっかく写本を作るんですからあとひとふんばりしてください」
言われてふと気づく。
臨書が終わるということは、この公実の部屋に来る理由もなくなるということだ。
公実に歌集の原本を返し、自分は写本を受けとってそれでこの冷清水家と縁は切れてしまう。
家宝であり、君子にとっての宝でもあった歌集を売ることになったときに似た、けれど何かそれよりももっと奥底から湧いてくるような寂しさが、胸の中で大きさを増してくる。
君子は公実を上目づかいに見やった。
しかし公実は君子の視線に気づくこともなく、君子が書いた書を吟味している。
「あの……」
「はい、なんでしょう?」
他意のない言葉だった。
いったい、君子の方が欲しいという言葉がなんだったのか、わからなくなる。
「公実さんにとっての宝って、どんなものですか?」
いきなり何を聞いているんだろうと自分でも驚いたが、公実は気にすることなく誠実な答えを口にした。いつも浮かべているやわらかな笑顔は消えている。
「僕が僕であることでしょうか」
「公実さんが、公実さんであること、ですか?」
「僕は冷清水家という華族の家系に生まれたおかげで、他人より裕福な暮らしをしてきました。金銭的にも、人との繋がりの広さにおいても。たとえば君子さんに会えたのも僕が冷清水公実だったからでしょう」
「は……い」
自分の名前が出てきたことで少し頬が熱くなりかけるが、公実の真摯な態度に浮ついた自分の気持ちを正す。
「仏蘭西にはノブレスオブリージュという言葉があるそうです」
「どんな意味ですか?」
「地位のある人間は、それに応じた責務を負うという意味です。僕も、地位ある家系に生まれたからには生涯冷清水家の嫡子、公実としての責務を果たそうと思います」
堅苦しくて、理性的な言葉だった。
しかし、今まで聞いた公実のどんな言葉よりも感情がこもっているような気がした。寂しげで、どこか無理をしているような。
「見事なご覚悟です」
公実の宝「僕が僕であること」は、自分が華族であることそのものではなく、華族であることの覚悟を決めていることだと思った。
自分も、そうしたものを宝としなくてはならない。
君子は、自分が自分であることの覚悟を決めた。
***
「完璧な出来です。文句のつけようがありません」
公実の言葉に、君子は胸を張った。
書き上げた最後の頁が、公実の眼鏡にかなったのだ。
「公実様のおかげです。ようやく製本に入れますね」
「はい。十日ほど時間をください。綺麗に仕上げたものをご覧に入れますから」
「わかりました。十日後にまいります」
たったそれだけのやりとりだった。
いよいよ、ここに来るのも次で最後となる。
陸
はじめはすわり心地の悪かったこの長椅子も、いつの間にかすっかり身体になじんでいる。腰を下ろすのも今日が最後だと思うと、言いようのない寂しさがこみ上げてきた。
ただ、それは些末なことだ。
父は、君子の女子高等師範学校進学をかなえるために家宝を売る決断をしてくれた。
そして、実際売買の実務を君子本人に任せたが、それは決して自分自身の誇りのためなどではない。君子の進学がそれだけの重みのある行為なのだという自覚を促すためだったに相違ない。
膝の上に載せた袷袱紗をほどいて行成の歌集が入った桐箱に手のひらをあてる。もちろん中身は行成の歌集の原本だ。今日はこれを公実に返却し、借用書を受けとる。
部屋の扉を見やる。
間もなく公実が君子の模写本を持ってやってくるはずだった。製本が遅れていたのだが、たった今届いたらしい。
公実の部屋に、はじめて一人で座っている。 それでも、緊張はない。
やがて、公実のものらしい足音が近づいてきて、入りますよ、という言葉のあと、静に扉が開いた。
***
卓子の上に置かれた箱の中身を確認することもなく、公実は借用書を君子に渡してきた。
信頼されているということだろう。嬉しいことだ。遠慮なく受けとる。
「ようやく歌集をお返しすることができます。肩の荷が下りました」
君子が頭をさげようとすると、公実が手を挙げてそれを止める。
「はい。これで貸し借りはなしです。ただ、君子さんにひとつお願いがあるのです」
相変わらず公実の話はつかみ所のない。けれど、もう慣れた。
「もったいぶらずに仰ってください」
「こちらの歌集ではなく、こちらの――」
公実は届いたばかりの君子の模写本を示してみせる。元本に負けないほどの立派な装丁だった。
「君子さんの方を譲ってください。僕が欲しいのは君子さんの方です」
「は、はあ?」
慣れたと思ったら慣れていなかった。
「何を莫迦なことを仰ってるんです? 本物より偽物の方が欲しいなんて」
「いえ、残念ですがそちらも行成の真筆ではありません。もう少し時代の下ったものだと思います」
たしかに君子もそういう疑念は思っていた。しかし、公実から支払われた金額は、贋作にはすぎた数字だった。
「でも、売買は済んでいます……」
「僕は、行成様の歌集を買い取らせていただくといったんですよ。貴女の行成様の書を買わせていただきました」
「そんな無茶な……」
「無茶ではありません。それだけの価値はありますよ。君子さんの書は。いえ、価値がでるといった方がいいかもしれません。僕はそう信じます」
「けれど……」
「それに、君子さんの模写本は別のことでも役に立つんですよ」
いよいよ公実の真意がつかめない。
「官立学校の書道教師をしている知りあいが、高齢を理由に後継者を探していまして」
「けれど、わたしはこれから女高師に入るんですよ?」
「今すぐにではありません。学校に行っている間は、時々助手みたいなことをやってくれればいいそうです」
もう、言葉がでなかった。
「この模写本があれば、その教師に君子さんの実力を紹介できます」
「それは……嬉しいですけど」
「ただ、実力ありと紹介する以上、僕にも紹介した責任が生じてきます」
「恐れ入ります」
公実は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だから、.君子さん」
「はい」
「あなたが研鑽を積んでいるか確認するために、これからも貴女の書いた書を定期的にここに持ってきてください」
これでは断ることもできない。
「それに、君子さんにもう会えないというのも寂しいですし」
頬が熱くなった。
<了>
平成29年2月25日、誤字脱字等を修正しました。