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ローバーはこの世界で〈自動車〉に当たる。SF作品ではおなじみの言葉ですがこの世界でもエアカーであり、空中での最高速度は音速の二倍。
APVは公認動力車のことで、もっと世界経済が厳しかった時代に政府によって生産承認管理された商業車両をさす。この世界ではトラックやバスといった大型ローバー程度の意味。もとはR.A.ハインラインの『フライデイ』に登場。
「肝の据わった男だったな」女が呟いた。
それから霧香の肩に手を伸ばして優しく揺すった。
霧香は涙に濡れた顔を上げた。
「しっかりしろ」
「うん……」霧香は涙を拭った。ふたりはゆっくり立ち上がった。
「あとはわたしがどうにかする。おまえはやるべき事をやってくれ」
「分かった」
霧香はパイロットシートに身体を引きずり上げると、オートパイロットを解除した。
「あなたの名前も聞いてなかった」
「わたしはレジナ・メニエッタの娘、ミルドリア」
「ミルドリア、わたしは、えー、芹香・ホワイトラブの娘、霧香=マリオン・ホワイトラブ」
ミルドリアは厳かに頷いた。
「おまえには恩がある。わたしにできることはあるか?」
「ありがとう……考えさせて」霧香はネットワークにアクセスして大陸の地図を呼び出した。ざっと地名が記された単純な二次元地図しかなかった。霧香は舌打ちした。ネットワークは寸断され、データベースを自由に閲覧することはかなわないようだ。
「ミルドリア、あなたを好きなところに送り届けるけど。ベンガルに行けばいいですか?」
「そうだな……」ミルドリアはウッズマンの遺体を身繕いしていた。霧香は機体後部の収納庫の開け方を教え、遺体を安置する方法を説明した。彼女は一度教えただけでなんでも手際よくこなしていた。
間もなく遺体は運び去られ、ミルドリアが戻ってきたときには絨毯の血も洗浄機能が働いて消え失せていた。彼女は不思議そうに床を見下ろしていた。
ククルカンから遠ざかったところで機体を降下させた。高度一万フィート、速度も時速五百マイルに抑え、APVの振りを装った。進路は北西に向けた。大陸を端から端まで横切り、ベンガルにはおよそ五時間で到着する。
だが霧香はすぐにメッシーナ大陸上空の様子がおかしいことに気付いた。通常の衝突回避レーダーになにも映らない。ローバーが一台も飛行していないのだ。霧香は密かに舌打ちして機体の高度を下げた。飛行制限……ククルカンが制空権を握り、自由なローバーの往来を禁止しているのか……。仕方なく高度三千フィートまで降下した。慣性制御システムとサイクロンバレルだけで飛んでいるため熱は発しない。たとえ手の混んだ空中監視体制が敷かれていたとしても夜の側なら衛星に探知されることはなく、地上で音を感知されることもない。レーダースイープを受ければ警報が鳴るはずだ。
霧香はふたたび自動操縦に切り替え、フロアに降りた。
端末の使い方を教えると、ミルドリアは次々と操作を学び取っていた。いまは勝手にシャワーを浴びている。霧香はフロアを変形させてベッドを作り、その上にうつ伏せに寝転んだ。
シャワーを浴びたミルドリアは生まれたままの姿でベッドの縁に腰を下ろした。霧香はそちらに頭を向けた。濡れた赤毛をバスタオルでごしごし拭いていた。ドライの使い方までは分からなかったようだ。引き締まった筋肉質の肉体はロリンズ中佐とは別の女性らしい魅力に溢れていた。背中から尻にかけて赤い模様が描かれている。入れ墨だろうか。
「お腹へりました?なにか食べます?」
「腹は減っていないが、喉が渇いたな……」
霧香は立ち上がり、保冷庫から缶ビールの六本パックとミネラルウォーター、その他眼に付いたドリンクを引っ張りだしてサイドテーブルに並べた。ヘタな調理をする気にはならなかったので保冷庫からドライフルーツとナッツを取りだし、皿に空けた。おあつらえ向きに恒星間連絡船のアーケードで買い込んだスナックがあったので、それも出した。ミルドリアは缶ビールを選んでグラスに注いだ。霧香はグラスにいっぱい氷を入れ、ライムと水を注いだ。
「何か服がいるわね」
「このままでも平気だ」
「まあとにかく……」
「あまり知り合う機会の無かった男のために、乾杯しよう」
「そうですね」ふたりはグラスを合わせた。「ウッズマンに」
ミルドリアはビールを豪快に一息で飲み干した。げっぷを漏らして口を拭うと、すぐに缶から直接飲みはじめた。
「うまいビールだな」はやくも二本目に手を伸ばしながら言った。
ずいぶんうまそうに飲むので、霧香もビールに切り替えた。ミルドリアは異星人の食べ物をつまみ上げ、考え込むように眺めまわした。見てくれは細い木の枝に付着したカマキリの卵みたいな黄色い塊だった。串焼きのようにその黄色い塊にかじり付き、木の枝部分を抜き取って恐る恐る咀嚼した。
「妙な味だが、けっこういけるな……なんだこれは」
霧香は同じ物体を取り上げた。
「え~、たしか……」それが入っていた容器を見た。「ティンツヌア星の……ああ、ウーク人の植民地から輸入された、ティントツリーの葉脈に作られるクモ鳥の……」
ミルドリアはぽかんとしていた。
「……あまり深く追求しないほうが良いかも」霧香は肩を竦めて口に放り込んだ。こくのある不思議な塩加減で、食感は鳥肉の燻製に似ていた。
しばらくふたりで飲み、食べた。ミルドリアのためにスコッチのソーダ割りを作った。そのころにはふたりともすっかりくつろいでソファーにもたれ相好を崩していた。
「命を助けてもらった上にもてなしを受けてしまった……ホワイトラブ、どんなに尽くしてもこの恩は返しきれない」
気にしないで、という言葉は彼女を侮辱するような気がした。「人助けがわたしの仕事です。わたしはGPDなの」
「聞いたことがある……なにか、宇宙の治安維持組織なのだったな」
「ええ……」霧香は視線を落とした。「つい先ほどその任務に失敗したばかりだけど」
「あれはおまえのせいじゃない」
「でも大勢亡くなったわ」
「わたしを救ってくれた」
霧香は弱々しく笑みを浮かべて頷いた。だがウッズマンのいまわの際の言葉は霧香の胸に突き刺さっていた。あと一日早ければ、あんな事態にならなかったかもしれないのだ。
「長いあいだ、その……抑留されていたんですか?」
ミルドリアは臆する様子もなく頷いた。「わたしはほとんど地下で拘束されていたが、暦によれば十日間だな。あの男はわたしを調教するつもりだったらしい」言いながらせせら笑った。
「調教……」
「奴隷奴隷と何度も言ってたよ。あの男はクズだ。拷問や辱めでこのわたしがどうにかなると思っていたのだろう。背中に入れ墨を施したのもやつの仕業だ。そんなまじないでわたしを所有できる思ったのだ」
「そうだったの……」霧香は目前の女性が経験した受難を想像して顔をしかめた。
「アイアンサイドは……この大陸全土に軍隊を派遣しているの?」
「そこまでは分からないが、わたしの部族はベンガルの奥地でひっそり暮らしていた。近隣と時折交流を交わすだけで、世事には疎い。気付いた時には隣の州が奴らの軍隊に占領されていた。我々は戦うか、逃げるか選択を迫られた。そうこうしているうちに奴らの先遣隊がやってきた。わたしは部族のみなを逃がすあいだ戦い、捕らえられたのだ」
「それでは、あなたの故郷は……」
「逃げおおせていればいいのだが……」
「仲間を捜す当てはあるの?」
「ある程度、いざという時の段取りは話し合ってはいた」
「それでは捜しましょう」霧香は明るい口調で付け加えた。「みんなを見つけられたら、わたしもそこで一日二日お世話になるかも」
「そうするがいい」ミルドリアは大きな笑みを浮かべた。
だがミルドリアの仲間を捜索する旅は難航しそうだった。ベンガルが近づくにつれてリトルキャバルリーのセンサーは通信の増大を探知した。大事を取って迂回コースを進んだため時間がかかる。リトルキャバルリーは緯度に沿って―南から北に向かって大陸を横切っていたため、時間帯はほとんど変化していない。簡単な地図を当てにして飛行しているため、目印を確認しながら進路を決めなければならない。そろそろ西に進路変更すべきだが、ベンガルの方角には敵がいるようだ。
広い地域で軍事作戦が進行していた。アイアンサイドは税を搾り取り、軍備を溜めこんでいた。常に対外の敵を設定して近隣諸国に攻め込むことで民の注意を逸らし、不満を抑え込んでいたのだろう。国家社会主義……独裁者がやりそうなことだった。
こうした状況は近隣星系まで届いていた。
「あそこは物騒らしいよ」霧香が子供だったころから噂は聞いていた。
なぜこんなに情勢が悪化するまで国連は看過していたのだろう。マスコミが報道しないだけでみな無関心だったのか。
目的地まで二百マイルというところでいちど愛機を着陸させた。移動中の戦闘車両部隊を探知したためだった。気付かれずやり過ごすためにリトルキャバルリーを湖に沈めた。
「ひと休みしましょう」霧香はバスローブを出して一着をミルドリアに渡した。手早くシャワーを浴びると、彼女がのんびり仰向けに横たわっているベッドの隣に腰掛けた。
「少し横になったらどうだ?もう真夜中だ」
「ええ」
霧香はくたびれた体を横たえ、うつ伏せで枕に顔を突っ伏した。
「おまえはこれからどうするのだ?」
霧香は溜息をついた。帰りたい、と思った。「わたしはもうすこしこの惑星を見てまわり、様子を探らないと」
「この惑星の情勢を調査して、誰かに報告するということか?」
「そうですよ。わたしはそのために派遣されたんですけど、到着早々面会を申し込んだ先があの騒ぎで」
「災難だな」
「……彼の仲間とも接触したいわ」霧香はウッズマンが横たわっている収納庫にのほうに顎をしゃくった。
「あの男も帰してやるのか」
「遺体はどこかに埋葬するしかないでしょうけど……できれば彼を知っていた人たちに会って、話を伝えたい」
「その時に一緒に返すがいい」ミルドリアは身体から外した宝飾具をサイドテーブルに積み上げていたが、その側らに置いてあったこまごました物を拾い上げた。ウッズマンの衣服から回収したものだろう。小型のタブレット……アイアンサイドを調べるのに使っていた物だ。それにライターとコインがいくつか、折り畳んだ紙製の何か、櫛、ハンカチ、札入れ……彼のささやかな遺品だ。
「これは何かな」わずか一インチほどに折り畳んだ紙を開くと、先端に黒っぽい物質が付着した細い紙の束が一列に並んでいた。
「それは紙マッチだよ」
「マッチ?」
ミルドリアは霧香からそれを取り上げると、紙の束を一本むしり取ってケースの一部に貼られた紙やすりで先端を擦った。黒っぽい物質は火薬だった。刺激臭と共に小さな炎がポッと点った。
「おお……」
「煙草を点けるのに使うんだ」ミルドリアは手を振って炎を消し、ケースを返した。
「なるほど」ケースには名前がプリントされていた。『白鹿亭』……店の名前だろうか。
「彼は何者なのだろう?」
「ククルカンの反政府勢力……革命闘士かなにかだったのでしょうね」遺品を手にとって調べてみたが、身元のヒントになる物など所持していなかった。恐らく軍人に化けてセンターパレスに潜伏していたのだ。
「それでアイアンサイドを撃ち殺したのだな……だがおまえたちは変なことを話し合っていたな?あれが偽物のような言いかたをしていた」
「なんというか、機械の身体をいくつも作って、それに偽物を演じさせていたらしいわ。暗殺を恐れていたんでしょう」
「影武者、ということか。アイアンサイドは、まだ生きているかもしれないのだな?」
「その可能性はあるわ」
「それで合点がいく。たしかに匂いが違っていた。だがわたしは本物のあいつとも会っている。今度会ったときは分かるぞ」
ひどい目に遭ったのにもう一度アイアンサイドと対峙するつもりなのだろうか。復讐……面目をつぶされた仕返し?
「わたしもおまえに同行しよう」
「えっ……?」
「おまえの力になる。なんでも言ってくれ」
「なるほど、助かります……」霧香はぼんやり呟いた。なんだかますます妙な展開になってきた。
『白鹿亭』はアーサー・C・クラークの『白鹿亭奇譚』より。