8 うちにおいでよ
海水浴場の上の堤防に座って、海を見ていた。
少し湿った風が羽菜の髪を揺らし、波は今日も穏やかだ。
浮き輪を抱えた何人かの若者が、浜辺から階段をのぼってきた後、息を切らして羽菜の前に現れたのは凌空だった。
「おい」
「あ、凌空」
堤防から飛び降りて、凌空の前に立つ。
凌空のバイト先に顔を出して、バイトが終わるまで待ってるって声をかけたのは羽菜のほうだ。
「何の用だよ?」
「え、何の用って……」
羽菜は一瞬戸惑ったあと、持っていた紙袋をさっと差し出し、凌空に向かって頭を下げた。
「この前はごめん! お祭り一緒に行こうって誘ったのは、あたしなのに」
ぶすっとした顔で羽菜を見てから、凌空が乱暴に紙袋をひったくる。
「なんだよ、これ」
「メロンパン。たこ焼きのお礼」
じろりと凌空ににらまれる。
「あ、あたしが作ったんじゃないから。琴ちゃんが作ったんだから」
「だったら食う」
「ひどっ」
羽菜の前で、凌空がにかっと笑う。よかった。怒ってなかった。
「もう具合いいの?」
堤防に寄りかかるようにして凌空が聞く。
「うん、もう大丈夫」
「マジで心配したんだからな? お前、顔真っ青だったし」
「ごめんね?」
へへっと苦笑いしながら凌空を見る。少し会わないうちに、凌空はまた一段と日焼けしたみたいだ。
「これから優海ちゃんのお迎え行くの?」
「行かね。今日はあいつ保育園行ってねーんだ」
「え、なんで?」
「親父帰ってきたから、優海大喜びでさ。べったりくっついて離れないの。今、二人で家にいる」
「あ、凌空のお父さんって、漁師さんなんだっけ?」
羽菜の言葉に、凌空がバカにしたように口元をゆるませる。
「らしいな。一か月の漁を終えて、優海のお土産にって、アニメのDVDぶら下げてきたけど」
「え?」
「どこで買ってきたんだか。街でパチンコして、酒飲んで、女の家、泊まり歩いてたんじゃね?」
「嘘でしょ?」
「おれの母さんが出て行った時も、別に悲しんでなかったし。それより、面倒なガキ置いてくなよって、そっちのほうで荒れてたな」
凌空が羽菜の顔を見て、もう一度小さく笑った。
スピーカーから町に流れる、どこか物悲しい夕暮れのメロディー。
二人の前を、自転車に乗ったおじさんと、家へ向かう子どもたちが通り過ぎる。
「あー、家、帰りたくねー」
空を見上げながら凌空が言う。羽菜は黙ったまま、そんな凌空の、夕焼け色に染まった横顔を見つめる。
「おれにとってはさ、親父も近所のおばちゃんも、自治会長のおっさんも、みんな敵。この町にいる限り、完全アウェイ状態なわけ」
「凌空……」
「だから早く大人になりたい。大人になってこんな町出て、好きなように生きたい」
目の前の道路を、若者たちが乗ったバイクが、派手な音を立てて通り過ぎる。
羽菜はぎゅっと手を握り締め、凌空に向かって口を開く。
「お母さんは? 凌空のお母さん。凌空を産んでくれたお母さんだったら、凌空の味方になって、助けてくれるでしょ?」
「まさか」
空から視線をおろした凌空が、隣に立つ羽菜を見る。
「味方だったら、こんな所に息子置いて、出て行くわけないだろ? 一度も連絡くれねーし、どこかで男に刺されて、死んでるかもしれねーな、あの女」
「死んでるって……自分のお母さんなのに」
「羽菜にはわかんねーんだよ。お前みたいに、何の悩みもないようなやつには」
握っていた手に力をこめる。そして次の瞬間、開いた両手で、凌空の体を力任せに突き飛ばした。
「いって……何すんだよ!」
二、三歩よろめいた凌空が、怒った顔で羽菜に言う。けれど羽菜も負けてはいない。
「何の悩みもなさそうで、悪かったね! だけどあたしはこれでも、真剣に考えてるの! なのに凌空も櫂くんも、お前に言ってもわかんねぇよって、自分ばっかり被害者ぶった顔しちゃってさ」
「は? なんでそこに櫂さんが出てくるわけ?」
「凌空も櫂くんも、同じくらいバカだってこと!」
「あー? お前、誰に向かってそういうこと……」
その時バイクのクラクションが鳴り、さっき通り過ぎたバイクが数台、二人の前に戻ってきた。
「あー、ほら、やっぱ凌空だ」
「凌空ー、お前、久しぶりじゃん」
乗っているのは凌空より派手な格好をした、若い男の子たち。後ろに女の子を乗せている者もいる。
凌空は羽菜から目をそらし、バイクに乗った若者たちに向かって、ちょっと面倒くさそうに「ようっ」と片手を上げる。
「お前、最近付き合い悪いと思ったら、こういうことだったんだ」
「こういうことって?」
「女と会うのが忙しくて、おれらと遊んでる暇はねぇってか?」
「はぁ? ふざけんな。こんなやつ、全然おれのタイプじゃねぇっつーの」
ムッとした顔の羽菜を隠すように、凌空が一歩前に出る。
するとバイクの後ろに乗った女の子が、羽菜に向かって指を指した。
「えー、けどあたし見たよぉ? お祭りの時も一緒だったじゃん。凌空、この子と」
「マジか? だからおれらが祭り誘っても、断ったわけね」
「違うって」
「ていうか、最近お前、おれらのこと、バカにしてね?」
髪を赤く染めたリーダー格風の男が、凌空に向かって言う。凌空がさりげなく顔をそむけたのに、羽菜は気づいた。
「転校生だったお前と、仲良くしてやったのは、おれらだけだったよなぁ? なのにお前はおれらのこと、友達だと思ってないわけ?」
「そんなこと、言ってねぇし……」
赤髪の男がバカにしたように、ははっと笑う。
「もう東京には、帰れないんだろ? お前が見下してる、このクソ田舎で暮らすしかないんだろ? だったらお前みたいな中途半端なやつが、ここでやってくにはどうしたらいいか、わかってるよなぁ?」
からかうように男たちが笑う。
「まぁ、これからも仲良くやろうぜ。凌空」
バイクのエンジンをふかして、男たちが去って行く。
凌空はぼんやりと突っ立ったまま、バイクの影が見えなくなるまで見送ると、羽菜に背中を向けたままつぶやいた。
「じゃあな、羽菜」
「え……」
「わかっただろ? おれなんかといると、ああいうやつらに絡まれる」
「ちょっ、ちょっと待って」
歩き出した凌空を追いかける。凌空の右手には、琴子のパンが入った紙袋が握られている。
「ちょっと待ってよ。なんなの、あいつら。あんなやつらと仲良くすることなんてないよ!」
羽菜の声に立ち止った凌空が、くるりと後ろを振り返る。
「あんなやつら、友達なんかじゃないでしょ? もっとガツンと言ってやんなよ」
「お前、やっぱり何もわかってないな。これ以上この場所で、敵増やしてどうすんだよ」
凌空があきれたようなため息をついて、羽菜に背中を向ける。
「バカなやつらとつるんでるってわかってても、そうするしかねぇじゃん。おれは結局、ここから逃げられないんだし」
凌空の着ているTシャツに夕陽が当たる。羽菜はそんな凌空の背中につぶやく。
「じゃああたしが友達になる」
羽菜の声に、凌空がもう一度振り返る。
「あたしが凌空の、たった一人の友達になるよ」
凌空が黙って羽菜を見た。羽菜もそんな凌空の顔を見つめる。
「……バカじゃね? お前」
ぽつりとつぶやいた凌空の前で、羽菜がへへっと笑った。
凌空は羽菜から視線をそらし、また歩き出す。羽菜は少し小走りになって、そんな凌空の隣に並ぶ。
「凌空、これからどうするの?」
「どっかで時間つぶして、メロンパンでも食う」
「だったら、うちに来ない?」
凌空があきれたように羽菜を見る。
「うちって言っても、琴ちゃんのうちだけど」
「お前って……ヘンなヤツ」
「凌空ほどじゃないよ」
軽く握ったこぶしを、凌空が羽菜に振り下ろす。羽菜は笑って、そんな凌空の手をキャッチする。
「バカじゃねぇの?」
もう一度つぶやいた凌空は、そのまま羽菜の手を握り締めて、琴子の家に着くまで離してはくれなかった。