7 家で食べる夜店のたこ焼き
神社の階段の一番下に、凌空と優海に見守られるようにして腰かける。
夜店から漂う食欲を誘うような匂いも、盆踊りの懐かしい音も、今の羽菜にとってはわずらわしいものになってしまった。
大丈夫、と笑う空元気もなくなってきて、じっと顔をうずめて座っていたら、琴子の店の軽自動車が、ウインカーを出して羽菜たちの前に止まった。
「最初から具合悪かったくせに、こいつこんなになるまで言わないから。まったく子どもより世話が焼けるっすよ」
文句を言っている凌空の声が聞こえる。
「ほらっ、立てるか?」
「うん……」
凌空に腕をつかまれて、強引に車の中へ押し込まれた。
「それじゃあ、櫂さん、お願いします」
窓越しに凌空の声を聞きながら、羽菜はうつむく。運転席にいる櫂の顔を見ることができない。
「お前らも乗ってくか?」
「いや、おれたちはもう少し遊んでから。チャリあるし。な? 優海」
「うん。羽菜ちゃん、ばいばい」
羽菜はほんの少し顔を上げ、窓の外へ小さく手を振る。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はーい」
凌空と優海が背中を向けて、階段を小走りでのぼっていく。
凌空を誘ったのは自分なのに。優海もあんなに喜んでくれてたのに。
こんなことになってしまった自分が、情けなくて嫌になる。
櫂の運転する車が、海沿いの道を走り出す。提灯の灯りが、太鼓の音が、遠ざかる。
「泣くなよ」
うつむいてぎゅっと唇をかみしめていたら、櫂の声が耳に聞こえた。
「……泣いてないもん」
「しんどいなら、このまま病院行くか?」
「いや。病院嫌い」
「子どもみたいなこと言うな」
「子どもだもん。あたしまだ」
真昼の、眩しく輝く青い空も海も、今は何も見えなくて、ただ海なのか陸なのかわからない闇が、道路のわきに続いている。
「櫂くんは大人だよね。こんな子どもの面倒みさせちゃって、ごめんね?」
隣で櫂がため息をつく。なんだか涙が出そうになる。
「あたし……邪魔してるかな? あたしがいなかったら櫂くん、琴ちゃんと仲直りできたかな?」
体が熱くて、頭がぼうっとする。本当は目を閉じて眠ってしまいたいのに、言葉が勝手に溢れ出す。
「べつに琴子とは、喧嘩してるわけじゃないし、仲悪いわけでもない」
「じゃあもっと優しくしてあげてよ、琴ちゃんのこと。大人なんだから」
数少ない信号で車が停まった。赤信号の灯りがフロントガラスに映っている。
「羽菜。教えてやろうか?」
思考能力のない羽菜の頭に、櫂の声だけが聞こえた。
「大人だってな、逃げ出したくなる時があるんだよ。仕事も今までの生活も、すべて捨てて。でも普通の人はそんなことしない。逃げたいって思うだけで、本当に逃げたりしない」
静かに顔を上げ、暗闇の中で櫂を見る。じっと赤信号を見つめていた櫂の視線が、ゆっくりと羽菜に移る。
「だけどおれは逃げたんだ。誰でもよかった、琴子じゃなくても。てっとり早く、あの場所から逃げ出せるなら」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
ふっと口元をゆるませた櫂の顔が、ぼんやりとにじんでいく。
「おれは最低な大人なんだよ」
目の前の信号が青に変わる。羽菜から目をそらした櫂がアクセルを踏む。
どうしてだか涙が止まらなかった。泣きたくなんてないのに。熱い涙が頬を伝わり、いつの間にか嗚咽が漏れる。
「……泣き虫が」
櫂のあきれたような声が聞こえた気がする。だけどそこで記憶が途切れて、そのあとのことはもう覚えていない。
気がつくと海にいて、月明かりの浜辺に立つ、琴子と櫂の背中を羽菜は見ていた。
心地よい潮風が吹き、波打ち際に繰り返し、穏やかな波が打ち寄せる。
だけどなぜかそこは音のない世界で。波の音も、風の音も、琴子の声も、櫂の声も、何ひとつ聞こえなくて。
羽菜はただじっと、二人の背中だけを見つめていたのだ。
夜明け前に目を覚ました。
体は熱くてまだぼうっとしていたけど、ここが琴子の家の二階だということはわかった。
「……櫂くん」
かすれる声でその名前を呼ぶ。壁に寄りかかり、座ったまま眠っていた櫂が目を開けた。
「気分は?」
「喉かわいた」
櫂がそばにあったペットボトルを差し出す。羽菜はのろのろと起き上がって、そのペットボトルを受け取ると、喉を鳴らして飲んで、また布団に横になった。
「……生ぬるかった」
「わがまま言うな」
目を閉じて小さく微笑む。体は異常なほどだるいのに、なんだかふわふわと気分がいい。
「今ね、夢見てたの」
ひとり言のようにつぶやく。
「櫂くんと琴ちゃんの夢。後ろ姿しか見えなかったけど、なんだかすごく、幸せそうに見えた」
窓の外がうっすらと明るくなる。もうすぐ夜が明ける。琴子の言っていた、希望の朝日が昇る。
「あたしはそれが……嬉しかったんだ」
目を閉じたまま口元をゆるませ、穏やかに息を吐く。
そんな羽菜の額に大きな手が触れ、汗ばんだ前髪をかき上げるように頭をなでた。
無愛想で意地悪で、最低な大人で嘘つきな、櫂のあたたかな手だ。
「ずっとそばにいてくれたの?」
「ずっとそばにいたのは琴子だよ」
「琴ちゃんに、ありがとうって言わなきゃ……」
また眠気が襲ってきて、そのまま引きずられるように眠りに落ちた。
優しく頭をなでられる感触と、下の階からかすかに漂う、甘い香りを感じながら。
「本当に大丈夫なの?」
「うん。なんだかすっきりしちゃって、めっちゃすがすがしい気分」
あきれたように羽菜を見た琴子が体温計を確認する。
「ほんとだ。熱、下がってる」
「でしょ? いっぱい寝たから治っちゃったみたい」
「もう。すっごく心配したんだからね?」
こつんとおでこを琴子に小突かれて、羽菜は「ごめんなさい」と舌を出す。
「琴ちゃん、ずっとあたしのそばにいてくれたんでしょ?」
「え?」
「朝方目を覚ましたら櫂くんがいて。ずっとそばにいてくれたのは、琴ちゃんだって」
琴子が体温計をしまいながら、小さく微笑む。
「ううん、違うよ。羽菜ちゃんのことが心配で、ずっとそばにいたのは櫂くん。わたしが『代わるよ』って言っても、『お前は朝が早いんだから寝てろ』って断られちゃった」
「ええっ」
「ついでに言うと、車で眠っちゃった羽菜ちゃんを、ここまで連れてきてくれたのも櫂くんだから」
顔がぶわっと赤くなる。恥ずかしい想像が頭をよぎり、また一気に熱が上がってしまったみたいだ。
「お、覚えてないよ」
「そうだねぇ、熱が高くて、意識朦朧としてたみたいだもんね」
琴子が羽菜を見ながらくすくす笑っている。
笑い事じゃない。そう言えば昨日着ていた浴衣はどうしたんだろう。今はちゃんとパジャマを着ているけど、全く着替えた記憶がない。まさか、そこまでは……ねぇ?
「あ、そうそう、これ羽菜ちゃんに」
笑うのをやめた琴子が、思い出したようにレジ袋に入った何かを差し出す。途端、食欲をそそるような匂いが部屋の中へ漂い始めた。
「これって……たこ焼き?」
「そう。今朝、凌空ちゃんと優海ちゃんが寄ってくれてね。羽菜ちゃんが食べたがってたから、お土産だって。でも今は無理だよねぇ……」
「ううん、大丈夫。食べる。食べたい!」
琴子はまた、あきれたようにため息をついたが、すぐに笑って立ち上がった。
「じゃあ何か飲み物持って来てあげる」
「大丈夫。あたしも下に行くよ」
部屋の入り口で振り返り、琴子が羽菜を見る。
「ほんとに? 大丈夫なの?」
「うん。ほんとに大丈夫」
「わかった。じゃあ下においで」
琴子が羽菜に笑いかけ、階段を下りていく。羽菜は布団から起き上がり、部屋の中を見る。
夜明け前、ここに座って羽菜の頭をなでてくれた櫂のことを思い出し、また恥ずかしくなって、羽菜はあわてて立ち上がり階段を下りた。
居間に入ると、開けっ放しの縁側の窓から、涼しい風が吹き込んでいた。
琴子が台所で冷蔵庫を開き、麦茶を取り出す。そんな音を聞きながら、羽菜はちらりと庭をのぞく。
隣の家との境目にある、草木の生えた小さな庭に、しゃがみこんでいる櫂の背中が見えた。
「櫂くん……お、おはよ」
少しためらったけれど、何をしているのかが気になって、羽菜は櫂に声をかける。
「もう昼だ」
「今起きたんだもん」
サンダルを履いて庭へ下り、背中を向けたままの、櫂の視線の先をのぞきこむ。
「あ、金魚?」
庭にある池……というほどでもない土の中に埋められた壺のような中に、夜店で売っている袋に入ったままの金魚が浮かんでいる。
「どうしたの? これ」
「凌空たちが持ってきた。家で飼えないから、ここで飼ってくれって」
「それで櫂くんが世話することになったの?」
「お前がしろ」
「えー!」
思わず声をあげた羽菜の隣で櫂が立ち上がる。見下ろされるようににらまれて、少し怖くて、仕方なく苦笑いでごまかした。
「ずいぶん元気じゃないか」
「お、おかげさまで。昨日はお世話になりました」
ぺこりと頭を下げると、櫂がふんっと顔をそむけた。
「凌空にも連絡しとけ。心配してたから」
「う、うん」
返事をしながら顔を上げる。櫂は羽菜に背中を向けて、縁側から部屋に上り込む。
「あと三十分したら、金魚池に放せよ。野良猫に食われないようにな」
「え、猫って……どうすればいいの?」
「自分で考えろ」
「えー!」
庭に立ち尽くしたまま、部屋の奥へ消えていく櫂を見送る。
ひどい。金魚丸投げって。自分で引き受けたなら、最後まで責任持ってよね! なんて、今日は言えない。
櫂がいなかったら、琴子がいなかったら……昨日の自分はどうなっていたかわからないから。
居間の卓袱台に麦茶を置いて、琴子がにこにこしながらこちらを見ている。
羽菜はサンダルを脱いで居間へ上がり、琴子の前にちょこんと座る。
「たこ焼き、食べな」
「うん」
楊枝で刺して口に入れる。家の中で食べる夜店のたこ焼きは、やっぱりちょっと微妙な味だった。