6 浴衣を着て歩く道
「羽菜ちゃーん! お祭り行こー!」
今年一番と言われた暑さが、少し和らいできた夕暮れ、お店の前に一台の自転車が止まった。
「あら、優海ちゃん。こんばんは」
「こんばんはー! 優海ね、凌空ちゃんと羽菜ちゃんとお祭り行くのー」
「へぇー、いいねぇ」
羽菜が店をのぞくと、優海と琴子が笑顔で話をしている。そして店の前に自転車を置いた凌空が、入ってくるなり申し訳なさそうに、琴子に言った。
「あの……ちょっと、琴子さんにお願いがあるんすけど」
「ん? なあに、凌空ちゃん」
凌空が持っていた紙袋を、おずおずと琴子に差し出す。
「これ、近所の人が優海にくれたんだけど、どうやって着せたらいいのかわかんなくて」
紙袋を受け取った琴子が中をのぞく。
「あ、浴衣じゃない。可愛い」
羽菜もお店に出て、琴子の広げた浴衣を見る。
赤い生地にピンク色の桜と金魚の柄がついた子ども用の浴衣。
「ほんと、可愛い」
つぶやいた羽菜の隣で、琴子が胸を張る。
「まかせて。着付けはおばあちゃんから習ってるから得意なの。おいで、優海ちゃん。綺麗なお着物着よう」
「うん! 優海それ着たいー!」
琴子が部屋の中へ優海を連れて行く。すると、ぽつりと残された羽菜に凌空が言った。
「お前は? その格好で行くの?」
「え? そうだけど」
羽菜はいつもと同じ、Tシャツにショートパンツ姿だ。
「だって浴衣なんて持ってないし」
「は? 色気ねーの。外歩いてるお姉さんたちは、みんな色っぽい浴衣着てるぜ?」
「うるさいなぁ、凌空は。それってセクハラだよ」
ぷいっと顔をそむけて、その場にあった椅子に座る。今日も朝から体が重い。昨日はよくなったと思っていたのに。
夏バテかな? 体力だけは自信があったんだけど。部活をさぼっているせいで、体がすっかり、なまってしまったみたいだ。
「羽菜?」
そんな羽菜に凌空が声をかける。
「お前、どうかした?」
「べつに」
店の前を、浴衣を着た女の子たちが通る。羽菜はそんな光景をぼんやりと眺める。
「凌空ちゃん!」
部屋から出てきた優海が駆け寄ってきた。優海は赤い浴衣を着て、髪もアップにして、琴子の髪飾りをつけてもらっている。
「どう? 優海、かわいい?」
「へぇー、かわいいじゃん。ゆ・か・た・が!」
「凌空ちゃんのバカー!」
ふざけ合っている二人を黙って見つめる。「お父さんが違う」なんて関係ない。ちょっと歳は離れているけど、この二人はちゃんと兄妹だ。
一人っ子の羽菜は、それが少し羨ましかった。
「羽菜ちゃん、おいで。羽菜ちゃんにも着せてあげる」
部屋の中から、琴子が呼ぶ。
「え、あたし、浴衣なんて持ってないよ」
「わたしのあるから。おいで。貸してあげるよ」
琴子が手招きしながらそう言って、羽菜ににっこり笑いかけた。
「じゃあ、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
琴子に手を振る優海と一緒に外へ出る。着慣れない浴衣のせいで、歩きにくいけど、なんとなく気分は晴れてきた。
琴子に浴衣を着せてもらっている時、羽菜は思った。もし自分にお姉さんがいたら、こんな感じだったのかな? なんて。
優海と並んで海沿いの道を歩き始める。すると少し後ろから、自転車を押しながら歩いている凌空が言った。
「なーんか、騙された気分だな」
「なにが?」
立ち止まり振り向いて凌空に聞く。
「そんなの着てると、どんな女でも、一瞬可愛く見えたりする」
「一瞬じゃないでしょ? なんで素直に可愛いって言えないかなぁ。ねぇ、優海ちゃん?」
「うんっ、優海と羽菜ちゃん、かわいいよねー? ほらぁ、凌空ちゃん、見て見てー」
浴衣を見せびらかすように袖を振りながら、その場をくるくる回っている優海は、本当に嬉しそうだ。凌空はそんな優海の前で、わざとらしいため息をついたあと、ふっと口元をゆるませた。
薄暗くなりはじめたいつもの道に、提灯の灯りが灯る。どこからか盆踊りの、太鼓の音が流れてくる。
小さな町の小さな神社へ向かう人たちは、誰もみんな幸せそうだ。
「ねぇ、羽菜ちゃん。お祭り着いたら何食べる?」
「うーん、たこ焼きかな? リンゴ飴も食べたいな」
「優海はねー……わたあめ! それからチョコバナナ!」
「お前ら、食いもんの話ばっかだな」
優海の小さな手をつないで歩く。その少し後ろを、凌空が文句を言いながらついてくる。
頬に当たる潮風が気持ちいいのは、普段と違うこの雰囲気に体が興奮して、ほてっているからなのかもしれない。
「ね、凌空ちゃん。金魚すくいもやっていい?」
「ダメだ。金魚は世話できないだろ? ヨーヨー釣りにしとけ」
「えー、金魚がいーい。ヨーヨーじゃやだぁ」
不満そうな声を漏らした優海が、突然足を止める。
「あ、パン屋のお兄さんだ!」
優海の声に、羽菜の体がなぜかこわばる。
「おにいさーん!」
無邪気な優海の声にうながされ、羽菜は静かに視線を上げる。
すると、神社へ向かう人の波を逆流するかのように、櫂がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「お兄さん、見て見てー。羽菜ちゃんとおんなじなんだよー」
優海がご機嫌な顔で、さっきと同じように櫂の前でくるりと回る。
いつも店に出ているわけではない櫂のことを、優海は知っているどころか、かなり懐いているらしい。
スーパーの袋をぶら下げた櫂が立ち止まり、そんな優海の前にしゃがみ込む。
「優海ね、これからお祭り行ってね、わたあめ食べて、金魚すくいやって、羽菜ちゃんとたこ焼き食べるのー」
「そうか。よかったな」
櫂の右手が優海の頭をふわりとなでる。そんな二人を眺めながら、羽菜は配達の帰り道を思い出す。
あの日、いつものあの場所で、櫂は羽菜の頭を、今と同じようにふわりとなでてくれたんだ。
ぼんやりと立ち尽くしていたら、こちらを見上げた櫂と目があった。羽菜はあわてて目をそらす。
「櫂さんは祭り行かないんすかぁ? 琴子さんと一緒に」
立ち上がった櫂に向かって、凌空が冗談ぽく言う。櫂は何も答えずに、凌空にふっと笑いかけ、そしてまた歩き出した。
「お兄さん、ばいばーい」
優海の声を聞きながら、両手をぎゅっと握りしめる。
昨日から一言も、櫂とは話していなかった。
怒っているんだと思う。昨日言ったことは、余計なことだったかもしれないと、実は羽菜も後悔しているのだ。だけど……。
「櫂さんって、一見怖そうだけど、意外と優しいんだよな。優海も懐いてるし」
「優しくなんてないじゃん!」
思わず上げた羽菜の声に、凌空が驚いた顔をしている。
「優しくなんて……全然ないじゃん」
「お前……櫂さんとなんかあった?」
凌空の言葉に顔をそむける。道沿いに続く提灯の先に、神社の灯りがぼんやりと見えた。
着なれない浴衣のせいか、蒸し暑い人ごみのせいか、神社に着いて何もしないうちに、羽菜は息苦しくなって座り込んでしまった。
「大丈夫ぅ? 羽菜ちゃん」
心配そうに顔をのぞきこんでくる優海に申し訳なく思う。
「ごめんね、優海ちゃん。あたし先に帰るから、お兄ちゃんと遊んできて?」
「でも……」
「あたしは一人で大丈夫だから」
無理に笑顔を作って優海に見せる。だけど体中が熱くて、頭がくらくらする。
やっぱり最初からおかしかったんだ。こんなところ、来てはいけなかったんだ。
「一人で置いていけるわけねぇだろ」
怒ったようなその声に顔を上げると、凌空が羽菜をにらみつけていた。
「もっと前から調子悪かったんだろ? そういうことは早く言えよ。子どもじゃねーんだから」
「……ごめん」
凌空が羽菜の前でため息をつく。どうしよう。すごく怒ってるみたいだ。
「でもほんとにあたし一人で帰れるから。凌空は優海ちゃんと行ってあげて? だってあんなに楽しみにしてたんだし」
凌空はもう一度羽菜のことをにらんで、ポケットの中から携帯を取り出す。
「パン屋の電話番号教えろ。琴子さんか櫂さんに迎えに来てもらうから」
「えっ、それは……」
「嫌がってる場合じゃないだろ? ほら、早く教えろよ」
黙り込んだ羽菜のことを、優海が泣き出しそうな顔で見ている。
これ以上、この二人に迷惑はかけたくない。
羽菜は消えそうな声で、琴子の店の電話番号を凌空に教えた。