5 甘くて切ないクリームパン
パンの焼き上がった後の、薄暗い厨房へ入ると、琴子がテーブルに顔を伏せて、うたた寝していた。
「琴ちゃん……」
小さくつぶやいてみたが、琴子はピクリとも動かない。
疲れているのかな、と思う。
いくら好きでやってるとはいえ、夜明け前からパンを作って、それを一人で販売して、また翌日の仕込みをして。
琴子の寝顔を見つめながら、羽菜もその隣に腰掛ける。
小さい頃から知っていた。琴子がいつも一人で頑張っていること。
おばあさんとの二人暮らし、もしかしたら、幸せなことばかりじゃなかったかもしれない。
それでも琴子が弱音を吐いた姿など、見たことがなかった。
突然、逃げるように町を出て行ってしまった、あの日までは。
そして羽菜は、そんな琴子が好きだったのだ。だからこの夏、声をかけてくれた琴子の元へ、すがるようについてきたのだ。
かすかな物音がして、店から誰かが入ってきた。ゆっくりと振り返ると、そこに櫂が立っていた。
羽菜は反射的に顔を背ける。
どんな顔をして櫂を見たらいいのか、わからなかったから。
かさりとレジ袋の音を立て、櫂は持っていた荷物を、琴子の眠っているテーブルに置く。
きっと仕込みに使う食材を、琴子に頼まれて買いに行ったのだろう。
開け放たれた店の向こうから、子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。
そしてその声が遠ざかると、またここは音の無い空間に戻った。
琴子はまだ眠ったままだ。羽菜は少し考えたあと、静かに顔を上げる。
櫂はまだそこに立っていた。琴子の寝顔を黙って見下ろしながら。
「櫂くん……」
羽菜の声がぽつりと響く。
「東京にいた頃の琴ちゃんは……どんな人だった?」
どうしてそんなことを口にしたのかわからない。だけどその時、どうしてもそれを、櫂の口から聞きたいと思ったのだ。
ほんの少しの沈黙。テーブルの下でぎゅっと両手を握った羽菜の前で、櫂が静かに口を開く。
「おれが勤めてた会社のそばの、喫茶店でバイトしてた。ランチの時間にいつもいたから、自然と顔を覚えて、仕事帰りに寄った居酒屋でまた働いてたから驚いた。よく働くやつだなって」
顔を上げて櫂を見る。正直答えてくれないかと思っていたから、その口から琴子の話を聞いているのは、不思議な気分だった。
櫂はそんな羽菜の顔をちらりと見下ろすと、すぐに視線をそらしてつぶやいた。
「朝も夜も、何かに憑りつかれたように働いてて、疲れ切ってるはずなのに、そんな素振り誰にも見せない。何のために働いてるんだって聞いたら、海の見える場所でお店を開いて、死んだおばあちゃんが好きだったパンを焼きたいって、ケロッと言った」
「それで櫂くん、琴ちゃんのこと、好きになっちゃったの?」
無表情のまま右手を出して、櫂が羽菜のおでこを軽く小突く。
「だってぇ、付き合ってたんでしょ? どっちから好きになったの? どっちから告白したの?」
「うるさい」
迷惑そうに顔をそむけた櫂に向かって、羽菜がつぶやく。
「ねぇ、どうして……別れちゃったの?」
海から吹く潮風が、店の奥まで入ってくる。どこか懐かしいこの香りは、もうすっかり羽菜の体に染みついている。
店の前の狭い道路を、一台の軽トラックがのんびりと通った。その音が過ぎ去ると、薄暗い部屋の中はまた静まり返る。
「おれが……別れようって言った」
羽菜の耳に櫂の声が聞こえた。テーブルの下で握りしめた手が、じんわりと汗ばんでいる。
「なんで?」
「仕事が忙しくて、会う時間がなかったから」
「それだけ?」
「それだけ」
ポケットに手を突っ込んで、櫂が背中を向ける。羽菜はあわてて立ち上がり、思わず櫂の腕をつかんでいた。
「じゃあなんで琴ちゃんについてきたの? ほんとは別れたこと、後悔してたんじゃないの?」
「お前には関係ない」
部屋の中へ上がろうとする櫂を引き止めるように、羽菜はぎゅっとその腕をつかむ。
「櫂くんは自分勝手だよ。何があったか知らないけど、せめて琴ちゃんには話してあげてよ」
「うるさい、黙れ」
「やだ。このままじゃ琴ちゃんがかわいそう。琴ちゃんのこと、ちゃんと見てあげて。きっと琴ちゃんはまだ櫂くんのこと……」
「黙れって!」
手を強く振り払われた。一瞬痛みが走り顔をしかめる。
櫂はそんな羽菜のことをちらりと見たあと、何も言わずに部屋へ上がった。
「櫂くん!」
叫んだ羽菜の後ろから、琴子の寝ぼけたような声が聞こえた。
「ん……羽菜ちゃん、どうしたぁ?」
振り向くと、琴子が目をこすりながら、羽菜を見ている。
「櫂くんと、ケンカしたらダメだよぉ?」
「琴ちゃん……」
戸惑う羽菜の前で、琴子が穏やかに微笑む。
「もう具合はよくなった?」
「うん。全然平気。朝は手伝えなくてごめん」
そう言いながら、羽菜は思う。
もしかして琴子は、ずっと起きていたのかもしれない。今の会話を、全部聞いていたのかもしれない。
櫂は二階に上がって行ったのだろう。ギシギシと軋む階段の音が遠ざかる。
「お昼は? 何か食べたの?」
少し乱れた髪を、後ろで一つに結び直しながら、琴子が羽菜に聞く。
「うん。かき氷食べた」
「かき氷? それ水でしょ?」
くすくすと笑いながら、琴子は羽菜の前にパンを差し出した。
ふんわりと漂う甘い香り。カスタードクリームがたっぷりつまったクリームパンだ。
「追加で作ったの。食べて?」
このクリームパンは、チョココロネの次に、羽菜が好きなパンだ。
そしてなぜか、メニューの決まっていないこのパン屋で、このクリームパンだけは頻繁に登場するのだ。
急にお腹が空いてきて、羽菜は琴子の前で、それをひとくち食べる。
ふわふわした食感と、素朴な甘い味が、口の中に広がった。
「美味しい」
「ありがと」
テーブルに肘をついた琴子が微笑んで、羽菜の顔を見る。
そしてぽつりと、ひとり言のようにつぶやいた。
「羽菜ちゃん。櫂くんと暮らしてること、最初に言わなくてごめんね?」
パンを持ったまま、顔を上げる。琴子は頬杖をついたまま、じっと羽菜を見つめている。
「すごく気を使わせちゃってるよね? 帰りたかったら、帰ってもいいんだよ?」
琴子の前で首を振る。帰りたいなんて思っていない。
琴子は目を細めて羽菜を見て、ほんの少し笑みを見せる。
「言ったら羽菜ちゃん、来てくれないかと思って。羽菜ちゃんと偶然会った時、部活のことですごくつらそうだったから、絶対ここに連れて来たいって思ったの」
「女子高生だまして家に連れ込んで……琴ちゃんは誘拐犯?」
ふふっと笑った琴子が羽菜に言う。
「それでもいい。羽菜ちゃんが元気になってくれるなら」
悩んで、もがいて、足が絡まって動けなくなった場所から、琴子が羽菜を連れ出してくれた。
琴子と一緒に朝日を見て、櫂と一緒に広い景色を眺めて。
逃げているだけだってわかっているけど……それでもここで過ごした数週間、笑ってしゃべって少しだけ泣いて、当たり前だけど、生きているって感じがした。
「あたしまだ帰らない。帰ったらこんな美味しいパン、食べられなくなっちゃうもん」
琴子がふっと口元をゆるませる。羽菜は持っているパンを、またひとくち口にする。
琴子の作ったクリームパンは、甘くてちょっぴり切ない味がした。