表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

5 甘くて切ないクリームパン

 パンの焼き上がった後の、薄暗い厨房へ入ると、琴子がテーブルに顔を伏せて、うたた寝していた。

「琴ちゃん……」

 小さくつぶやいてみたが、琴子はピクリとも動かない。

 疲れているのかな、と思う。

 いくら好きでやってるとはいえ、夜明け前からパンを作って、それを一人で販売して、また翌日の仕込みをして。

 琴子の寝顔を見つめながら、羽菜もその隣に腰掛ける。

 小さい頃から知っていた。琴子がいつも一人で頑張っていること。

 おばあさんとの二人暮らし、もしかしたら、幸せなことばかりじゃなかったかもしれない。

 それでも琴子が弱音を吐いた姿など、見たことがなかった。

 突然、逃げるように町を出て行ってしまった、あの日までは。

 そして羽菜は、そんな琴子が好きだったのだ。だからこの夏、声をかけてくれた琴子の元へ、すがるようについてきたのだ。


 かすかな物音がして、店から誰かが入ってきた。ゆっくりと振り返ると、そこに櫂が立っていた。

 羽菜は反射的に顔を背ける。

 どんな顔をして櫂を見たらいいのか、わからなかったから。

 かさりとレジ袋の音を立て、櫂は持っていた荷物を、琴子の眠っているテーブルに置く。

 きっと仕込みに使う食材を、琴子に頼まれて買いに行ったのだろう。


 開け放たれた店の向こうから、子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。

 そしてその声が遠ざかると、またここは音の無い空間に戻った。

 琴子はまだ眠ったままだ。羽菜は少し考えたあと、静かに顔を上げる。

 櫂はまだそこに立っていた。琴子の寝顔を黙って見下ろしながら。


「櫂くん……」

 羽菜の声がぽつりと響く。

「東京にいた頃の琴ちゃんは……どんな人だった?」

 どうしてそんなことを口にしたのかわからない。だけどその時、どうしてもそれを、櫂の口から聞きたいと思ったのだ。

 ほんの少しの沈黙。テーブルの下でぎゅっと両手を握った羽菜の前で、櫂が静かに口を開く。

「おれが勤めてた会社のそばの、喫茶店でバイトしてた。ランチの時間にいつもいたから、自然と顔を覚えて、仕事帰りに寄った居酒屋でまた働いてたから驚いた。よく働くやつだなって」

 顔を上げて櫂を見る。正直答えてくれないかと思っていたから、その口から琴子の話を聞いているのは、不思議な気分だった。

 櫂はそんな羽菜の顔をちらりと見下ろすと、すぐに視線をそらしてつぶやいた。

「朝も夜も、何かに憑りつかれたように働いてて、疲れ切ってるはずなのに、そんな素振り誰にも見せない。何のために働いてるんだって聞いたら、海の見える場所でお店を開いて、死んだおばあちゃんが好きだったパンを焼きたいって、ケロッと言った」

「それで櫂くん、琴ちゃんのこと、好きになっちゃったの?」

 無表情のまま右手を出して、櫂が羽菜のおでこを軽く小突く。

「だってぇ、付き合ってたんでしょ? どっちから好きになったの? どっちから告白したの?」

「うるさい」

 迷惑そうに顔をそむけた櫂に向かって、羽菜がつぶやく。

「ねぇ、どうして……別れちゃったの?」

 海から吹く潮風が、店の奥まで入ってくる。どこか懐かしいこの香りは、もうすっかり羽菜の体に染みついている。

 店の前の狭い道路を、一台の軽トラックがのんびりと通った。その音が過ぎ去ると、薄暗い部屋の中はまた静まり返る。


「おれが……別れようって言った」

 羽菜の耳に櫂の声が聞こえた。テーブルの下で握りしめた手が、じんわりと汗ばんでいる。

「なんで?」

「仕事が忙しくて、会う時間がなかったから」

「それだけ?」

「それだけ」

 ポケットに手を突っ込んで、櫂が背中を向ける。羽菜はあわてて立ち上がり、思わず櫂の腕をつかんでいた。

「じゃあなんで琴ちゃんについてきたの? ほんとは別れたこと、後悔してたんじゃないの?」

「お前には関係ない」

 部屋の中へ上がろうとする櫂を引き止めるように、羽菜はぎゅっとその腕をつかむ。

「櫂くんは自分勝手だよ。何があったか知らないけど、せめて琴ちゃんには話してあげてよ」

「うるさい、黙れ」

「やだ。このままじゃ琴ちゃんがかわいそう。琴ちゃんのこと、ちゃんと見てあげて。きっと琴ちゃんはまだ櫂くんのこと……」

「黙れって!」

 手を強く振り払われた。一瞬痛みが走り顔をしかめる。

 櫂はそんな羽菜のことをちらりと見たあと、何も言わずに部屋へ上がった。

「櫂くん!」

 叫んだ羽菜の後ろから、琴子の寝ぼけたような声が聞こえた。


「ん……羽菜ちゃん、どうしたぁ?」

 振り向くと、琴子が目をこすりながら、羽菜を見ている。

「櫂くんと、ケンカしたらダメだよぉ?」

「琴ちゃん……」

 戸惑う羽菜の前で、琴子が穏やかに微笑む。

「もう具合はよくなった?」

「うん。全然平気。朝は手伝えなくてごめん」

 そう言いながら、羽菜は思う。

 もしかして琴子は、ずっと起きていたのかもしれない。今の会話を、全部聞いていたのかもしれない。

 櫂は二階に上がって行ったのだろう。ギシギシと軋む階段の音が遠ざかる。


「お昼は? 何か食べたの?」

 少し乱れた髪を、後ろで一つに結び直しながら、琴子が羽菜に聞く。

「うん。かき氷食べた」

「かき氷? それ水でしょ?」

 くすくすと笑いながら、琴子は羽菜の前にパンを差し出した。

 ふんわりと漂う甘い香り。カスタードクリームがたっぷりつまったクリームパンだ。

「追加で作ったの。食べて?」

 このクリームパンは、チョココロネの次に、羽菜が好きなパンだ。

 そしてなぜか、メニューの決まっていないこのパン屋で、このクリームパンだけは頻繁に登場するのだ。

 急にお腹が空いてきて、羽菜は琴子の前で、それをひとくち食べる。

 ふわふわした食感と、素朴な甘い味が、口の中に広がった。

「美味しい」

「ありがと」

 テーブルに肘をついた琴子が微笑んで、羽菜の顔を見る。

 そしてぽつりと、ひとり言のようにつぶやいた。


「羽菜ちゃん。櫂くんと暮らしてること、最初に言わなくてごめんね?」

 パンを持ったまま、顔を上げる。琴子は頬杖をついたまま、じっと羽菜を見つめている。

「すごく気を使わせちゃってるよね? 帰りたかったら、帰ってもいいんだよ?」

 琴子の前で首を振る。帰りたいなんて思っていない。

 琴子は目を細めて羽菜を見て、ほんの少し笑みを見せる。

「言ったら羽菜ちゃん、来てくれないかと思って。羽菜ちゃんと偶然会った時、部活のことですごくつらそうだったから、絶対ここに連れて来たいって思ったの」

「女子高生だまして家に連れ込んで……琴ちゃんは誘拐犯?」

 ふふっと笑った琴子が羽菜に言う。

「それでもいい。羽菜ちゃんが元気になってくれるなら」

 悩んで、もがいて、足が絡まって動けなくなった場所から、琴子が羽菜を連れ出してくれた。

 琴子と一緒に朝日を見て、櫂と一緒に広い景色を眺めて。

 逃げているだけだってわかっているけど……それでもここで過ごした数週間、笑ってしゃべって少しだけ泣いて、当たり前だけど、生きているって感じがした。

「あたしまだ帰らない。帰ったらこんな美味しいパン、食べられなくなっちゃうもん」

 琴子がふっと口元をゆるませる。羽菜は持っているパンを、またひとくち口にする。

 琴子の作ったクリームパンは、甘くてちょっぴり切ない味がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ