4 イチゴとブルーハワイ
階段の下からパンの香りが漂ってくる。羽菜はタオルケットにくるまったまま、ごろんと寝返りを打つ。
今朝、琴子に起こされた時、なんとなく体がだるくて起きられなかった。琴子は、「いいよ、いいよ。ゆっくり寝てな」と言って、部屋の襖を静かに閉めた。
下の階から聞こえる物音を、目を閉じて聞く。うとうととしながら、何度目かの目を覚ますと、部屋が明るくなっていて、パンの甘い香りがかすかに漂ってきた。
窓の下で車のエンジンがかかった。櫂が配達に行くのだろう。
ゆっくりと体を起こし、窓から外を眺めると、見慣れた軽自動車が海沿いの道を走り出したところだった。
神社に続く階段を上り、一番上の段に座る。しばらくぼうっと海を眺めていたら、真っ黒に日焼けした凌空が、階段を駆け上ってきた。
「腹減ったー!」
息を切らしながらそう言って、凌空が羽菜の隣に座る。腕が少しぶつかり合って、羽菜はさりげなく腰をずらした。
「ごめん。今日パンないんだ」
「は? じゃあおれの昼飯は?」
「ごめん。ない」
凌空とは時々、ここで一緒にお昼を食べていた。
今日もパンを持ってくると約束していたんだけれど、ふと立ち寄ってくれた、近くの民宿で合宿している体育会系の大学生が、パンを大量に買い占めていったのだ。
なので今日は午前中に、琴子のパンは売れ切れた。
「はぁ? なんだよ、それ。じゃあお前とここにいる意味ねーじゃん」
「ひどっ」
右手を振り上げて凌空をにらむ。軽く握って振り下ろしたら、ぱちんっと凌空の手につかまれた。
あれ、なんだろう。手のひらから凌空の体温が伝わってきて、すごく熱い。
「い、意味ないなら、もう帰れば?」
あわてて右手をひっこめると、同時に凌空が立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「え?」
羽菜に振り返りもせず、凌空が階段を駆け下りていく。
「なんなの?」
しばらくその場に座っていたら、両手に何かを持った凌空が、また階段を駆け上ってきた。
「イチゴとブルーハワイ、どっちが好き?」
息を切らして、額に汗をにじませながら凌空が聞く。その両手には、ピンクとブルーのシロップがかかったかき氷。
「海の家で買ってきた。大盛りで。どっちがいい?」
「……くれるの?」
「いつもパンもらってるから、お返し」
羽菜はしばらく、二つのかき氷を見つめた後、小さな声で答えた。
「……イチゴ」
すると凌空が、ブルーのシロップがかかったかき氷を、羽菜に押し付けた。
「じゃあお前はこっちな!」
「ちょっ、あたしイチゴって言ったじゃん!」
おかしそうに笑った凌空が、イチゴ味のかき氷をスプーンでざくっとすくい、口に頬張る。
「うおっ、つめてーっ」
「もうっ」
凌空から受け取った山盛りのかき氷。持っただけでひんやりと冷たい。
羽菜もそれをスプーンですくって、口に入れる。
すぐに口の中がキンッと冷えて、それが体中に伝わっていった。
蝉の鳴き声が響く下で、凌空と一緒にかき氷を食べた。
目の前に広がる海は今日も青い。そういえばもうずっと雨が降っていない。
ひんやりと体が冷えてくると、今朝からなんとなくぼうっとしていた頭が冴えてきた。
「なんかさ……複雑だよね。男と女って」
頭の中に、昨日琴子から聞いた話が浮かんで、羽菜はつい口に出した。
「何? 恋の悩みでもあんの?」
「違う。あたしじゃないよ」
「だよな。お前にそんな悩みなんかあるわけねぇよな」
握った拳を振り下ろしたら、今度はさっとかわされた。
「もしかして琴子さんたちのこと?」
「えっ」
凌空が羽菜から視線をそらし、もう残り少なくなったかき氷を口にしながらつぶやく。
「あの二人、なんかワケありっぽいよな?」
「何か知ってるの?」
「知らないけど、なんとなくだよ。おれ小さい頃から、男と女の裏事情みたいなの、飽きるほど見てるから」
「う、裏事情って……」
顔を上げた凌空が、羽菜を見てふっと笑う。
「おれの母親、水商売やってたし、アパートに毎晩違う男連れ込んでたし。まぁでもいいんじゃないの? 大人には大人の関係ってやつがあるんだろ」
羽菜はぽかんとした表情で凌空を見ていた。そんな話を平然とした顔つきで話す同級生なんて、今まで羽菜の周りにはいなかったから。
そしてもしかしたら凌空は、自分よりも少しだけ大人なんじゃないかなんて思えてきた。
「あのね、あたし琴ちゃんに聞いたの。櫂くんは彼氏じゃないって」
「ふうん?」
羽菜はかき氷を膝にのせ、隣に座る凌空に向かって、身を乗り出すように話した。
「ねぇ、付き合ってもいない人と、一緒に暮らしたりできるのかなぁ?」
「できるんじゃねぇの? 実際暮らしてんだし」
凌空はスプーンを口にくわえたまま、少し考えるように空を見上げて、それから言った。
「付き合ってなくても、実は好きなのかも。もしくはどっちかが片思いしてて、どうしても離れたくないとか」
「えー?」
「いいじゃん、もう。あの二人が付き合っていてもいなくても、お前には関係ねぇんだし」
「関係あるよ。あたしだって同居してるんだよ? 櫂くんが琴ちゃんの彼氏じゃないんなら、ただの居候男じゃん。そんな人とあたし一つ屋根の下で……」
羽菜の隣で、凌空が吹き出すように笑う。
「お前もしかして、あたし襲われちゃうわぁ、とか思ってるわけ?」
「ちがっ……」
「ないない。お前なんか櫂さんに、女として見られてるわけねぇだろ? ひょろひょろだし、真っ黒だし、胸ねーし」
「凌空ー!」
声を上げて笑った凌空を、座ったまま両手で押しやる。イチゴ味のかき氷がこぼれそうになって、「あっぶねー」なんて言いながら、まだ凌空は笑っている。
ああ、なんだ。凌空ってこんなふうに笑えるんだ。いつも笑っていればいいのに。こんなふうに、夏空の下で、楽しそうに笑っていればいいのに。
階段の下から、ざわざわと話し声が聞こえてきた。
何人かのおじさんたちが、大きな荷物を持って境内に上ってくる。
「ほら、どいて、どいて」
「お祭りの準備するんだから」
「お祭り?」
階段の一番上で、食べかけのかき氷を持って、そうつぶやいた羽菜に凌空が答える。
「ああ、明日の夜、ここで盆踊りやるんだよ」
「へぇ……」
盆踊りかぁ……毎年この時期は部活で忙しかったから、そんなの行ったことがない。
行きたいな。そう思いながらふと、今ごろグラウンドで汗を流している、仲間たちのことを考える。
怪我さえしなければ、羽菜もいたはずの場所。
「何やってんだ? こんなところで」
凌空と並んで座ったまま、声の方向に顔を上げると、自治会長の小坂さんが、凌空のことをにらんでいた。
「何って……かき氷食ってるだけですけど? なんか文句あるんすか?」
凌空が挑戦的な態度でそんなことを言うので、羽菜はあわてて凌空のシャツを引っ張った。
「こんなひと気のないところに女の子誘って。どうせろくなことしてないんだろ?」
「は? 何言ってんすか? いやらしいこと考えてるのはそっちのほうでしょ?」
「ちょっと、凌空。やめなよ」
羽菜がもう一度凌空のシャツをぎゅっと引っ張る。
小坂さんは二人の顔を見比べると、不機嫌そうに顔をそむけ、神社の奥へ行ってしまった。
「ちっ」
小坂さんに向かって舌打ちをする凌空を見ながら、羽菜ははらはらしていた。
「あのおっさん、おれの顔見るたび、文句つけてきやがって。おれ、何にも悪いことしてねーのに」
ふてくされたように立ち上がった凌空に続いて、羽菜もあわてて立ち上がる。
食べかけのかき氷はすっかり溶けて、薄い水色の生ぬるい液体に変わってしまった。
「ムカつくから、おれバイト戻るわ」
「うん……」
神社の境内に集まっているおじさんたちは、お祭りの相談でもしているのだろうか。
時折何やら大きな声で、笑い合ったりしている。
「ふざけんなっつーの」
背中を向けた凌空が、ひとり言のようにつぶやく。
「おれが……何したっていうんだよ」
一人で階段を下りる、凌空の背中が遠ざかって行く。
なんだか胸が苦しくて、でも何にもできない自分がもどかしくて、羽菜は右手を握りしめ、小坂さんたちにも届くほど大声で叫んだ。
「凌空っ!」
階段の途中で凌空が振り返る。
「明日っ、一緒にお祭り行こうよ!」
凌空がきょとんとした顔つきで、羽菜のことを見上げている。
「ねっ? 一緒に行こう! そうだ、優海ちゃんも連れて行こう? あたし、凌空と一緒に行きたいの!」
他の人が何と思っていようと、自分だけはわかってる。
凌空は、悪い子なんかじゃないってこと。
立ち止まってじっと羽菜を見つめていた凌空が、やがて、にやっと白い歯を見せた。
「そんなに行きたいなら行ってやるよ! パン屋で待ってろ。迎えに行くから!」
そしておかしそうに笑ってから、羽菜に背中を向けて、階段を駆け下りていった。
凌空の背中を見送ってから、ちらりと後ろを振り返る。
小坂さんが眉をひそめて、羽菜のことを見ている。
羽菜はそんな小坂さんに向かって、ぺこりと頭を下げると、凌空と同じように階段を駆け下りた。
海沿いの道を自転車で帰る。
真昼の日差しを浴びて、かき氷で冷えた体に熱が戻る。
鼻先をくすぐる海風に、学校をズル休みしているような罪悪感を感じながら、自転車のペダルをぐんっと踏み込み、スピードを上げる。
あと一つカーブを曲がれば、琴子のパン屋が見えてくる。