3 おばあちゃんのあんドーナツ
開け放した二階の窓から、潮の香りがほのかに漂う。
窓に吊るされた風鈴が、夕暮れの風にちりんと鳴る。
「羽菜」
穏やかで、どこか心地よい声が聞こえた後、頬にあたたかいものが触れた。
それが誰かの手で、ぺちぺちと自分の頬を叩かれていることに気づくまで、羽菜はぼんやりとまどろんでいた。
「羽菜。起きろ。飯」
「え……ひっ!」
あわてて飛び起きて声を上げる。
「なっ、なによっ、櫂くん! 勝手に人の部屋、入って来らいでよ!」
寝起きのせいか舌が上手く回っていない。
けれど櫂は、にこりともせず立ち上がると、羽菜に向かって言った。
「何度も呼んだ。なのにお前が起きないから」
そして背中を向けて、「飯、できたから」と一言だけ言い残し、階段を降りていった。
「はぁぁっ……」
大きく息をついて、膝を抱える。
「櫂くんに……寝顔見られた」
夕方になって、幾分涼しくなってきた風が気持ちよくて、いつの間にか畳の上で眠っていたのだ。
無防備に、きっとすごい寝相で。
「……最悪」
いくら呼んでも起きないからって、年頃の女の子が寝ている部屋に勝手に入ってくるなんて、一体どういう神経しているんだろう。
いや、もしかしたら、自分のことは女と思われていなかったりして。
膝に顔を押し付けて、羽菜はもう一度ため息をつく。
琴子の住む、店舗兼住宅のこの家に、男が同居しているなんて聞いていなかった。
琴子が男と暮らしているって知っていたら、羽菜はこの家に来なかっただろう。当たり前だ。
だいたい、ヒモのような生活をしている櫂も櫂だが、それを最初に言ってくれなかった琴子も琴子だ。
まぁ琴子のことは、昔から少し変わり者だと、幼い頃から聞かされていたけど。
羽菜の生まれる前から、近所に住んでいた十歳年上の琴子。
古くて、庭に柿の木のある家で、琴子はおばあさんと二人だけで暮らしていた。
「琴ちゃん、あそぼ!」
どうして琴子が祖母と二人暮らしだったのか、幼い羽菜には誰も教えてくれなかったけど、そんなことは関係なかった。
「琴ちゃん、かけっこしよう」
「うん、いいよ」
「よーい、どんっ!」
羽菜は走るのが好きだった。そんな羽菜のことを、琴子はいつも褒めてくれた。
「羽菜ちゃんは、走るのが速くて、かっこいいね!」
琴子に褒められるのが嬉しくて、羽菜は毎日日が暮れるまで、外を駆けまわっていたのだ。
そんな琴子が羽菜の前から消えたのは、羽菜が八歳の時。
高校を卒業した琴子は、年老いたおばあさんを残して、東京へ行くと言い出した。
本当は地元の会社に就職が決まっていたのに、琴子は突然逃げるように、地元を出て行ったのだ。
仕事も、住む家も決めないまま。
周りの大人たちは琴子のことを悪く言った。
男ができたんじゃないのかとか。親代わりだったおばあさんを捨てただとか。
羽菜にはまだ、大人の言っていることがよくわからなかったけど、琴子がいなくなってしまったことだけが、寂しかった。
ある日羽菜は、一人になった琴子のおばあさんに会いに行った。
おばあさんは琴子がいるときと変わらない穏やかな表情で、羽菜に言った。
「琴子はね、琴子の好きなように生きればいいんだよ。他人がなんて言おうとも」
羽菜にはやっぱりよくわからなかった。
そしてそれから数年後、おばあさんは突然家で倒れ、一人ぼっちで逝ってしまった。
「羽菜ちゃん? どうかした?」
茶碗と箸を持ったまま、ぼうっとしていた羽菜に琴子が言う。
「え、ううん。なんでもない」
あわてて首を横に振るが、目の前に櫂の姿が見えて、どうしたらいいのかわからなくなる。
なのに櫂は、いつものように平然とご飯なんか食べちゃって、一人で意識している自分の方が、バカみたいに思えてきた。
「あ。なにこれ、美味し」
「櫂くんが作った鯖の味噌煮。美味しいよね」
琴子の言葉に素直にうなずく。
悔しいけど、櫂の作る料理は美味しい。和食も、洋食も、中華も。高校を卒業してから、ずっと一人暮らしで自炊してたから、って前に聞いた。
そしてそれとは反対に、琴子の作った料理は、どうも微妙だ。
たまに琴子が夕食を作ってくれるけど、なんていうか、説明のつかない、謎めいた味付けなのだ。
琴子だって、高校を出てすぐ家を出たのに。パンはあんなに美味しいのに。
とりあえず料理に関しては、この家に櫂がいてくれてよかった。
縁側のある、開けっ放しの窓から、三人が座る居間へ風が吹き込む。
蚊取り線香の煙がゆらゆらと上がり、古い扇風機がかすかな音を立てて回る。
懐かしいような、どこか落ち着くような、不思議な感覚。
この家にはテレビがなかった。朝早くから仕込みを初めて、早めに眠ってしまうから、テレビなど必要ないのだと、琴子は言った。
だからなのか、三人で囲む食卓は、とても静かで穏やかなのだ。
その日の夜中、寝苦しくて目を覚ますと、隣に寝ているはずの琴子がいなかった。
羽菜はゆっくりと起き上がり、部屋を出る。
向かい側にある櫂が寝ている部屋は、襖が閉じられていて、階段の下から、ぼんやりと灯りがもれていた。
静かに階段を降りていくと、薄暗い部屋に、琴子が一人で正座していた。
たんすの上に置かれた、おばあさんの写真を見つめながら。
「琴ちゃん?」
羽菜が声をかけると、琴子が振り向いて、口元をゆるませた。
「ごめんね、羽菜ちゃん。起こしちゃった?」
「ううん」
首を振って居間へ入る。おばあさんの写真の前には、琴子の作った、あんドーナツが置かれていた。
「おばあちゃん、あんドーナツが一番好きだったから」
そう言って少し微笑む、琴子の隣に羽菜も座る。
「うちのおばあちゃんね。歳の割にご飯よりパン好きで。わたしが小さい頃、朝食はご飯じゃなくてパンがいいって、駄々こねてたせいかもしれないけど」
琴子が羽菜の顔を見て、懐かしそうに言う。
「ほら、駅前にあったパン屋さん。よくあそこまでわたし、あんドーナツ買いに走ったんだよねぇ、おばあちゃんのために」
「じゃあどうして……」
幼かった頃、聞けなかった疑問を、今、琴子にぶつけてみる。
「どうしていなくなっちゃったの? 琴ちゃん、急に」
琴子がおばあさんのことを、誰よりも大切に思っていたことは知っていた。
小さい頃からずっと、羽菜は琴子のそばにいたから。
暗がりの中で、琴子が黙って羽菜を見る。羽菜も目をそらさず、じっと琴子の顔を見つめる。
「……怖かったんだ」
「え?」
琴子が羽菜の前で、ふっと微笑む。
「いつか一人になることが、わかっていたから。わたしはそれを一番恐れてた」
「……おばあちゃんが、いなくなること?」
静かに琴子がうなずく。
「だから自分から逃げ出した。一人になるのを恐れながら生きるより、最初から一人になってしまったほうが、楽に思えたから」
琴子の声を、羽菜は黙って聞いていた。
「バカだよねぇ。何考えてたんだろね、わたし。そんなことして、結局おばあちゃんを、たった一人で死なせてしまった……」
一瞬言葉を詰まらせた後、琴子の発した声はわずかに震えていた。
「わたしはひどい女なの。優しくなんて全然ない。おばあちゃんに恨まれても、仕方ないよね」
「そんなこと、ないよ」
羽菜はあの頃のおばあさんを思い出す。穏やかに微笑んでいた、おばあさんの顔を思い出す。
「おばあちゃんは琴ちゃんのこと、恨んでなんかなかった。琴ちゃんは、琴ちゃんの好きなように生きればいいって……おばあちゃん、そう言ってた」
琴子が羽菜を見て、くしゃっと笑う。そしてすぐに、座ったまま背中を向けた。
「琴ちゃん……」
うつむいて、黙り込んでしまった琴子に手を差し出す。だけど羽菜の小さな手では、今の琴子を慰めることなんてできない。
「……櫂くん、呼んでこようか?」
思わずつぶやいた声に、琴子がゆっくりと顔を上げる。
「なんで?」
「え、だって……こういう時は、あたしなんかより、彼氏に慰めてもらったほうが……」
羽菜の言葉に、琴子が薄闇の中、静かに振り返る。
「彼氏って、誰のこと?」
「誰のことって、櫂くんに決まってる……」
そこまで言いかけ言葉を止めた。
羽菜は聞いていなかったのだ。一番最初から、ずっと気になっていたことを。
「櫂くんって……琴ちゃんの、彼氏じゃないの?」
「違うよ」
琴子が答える。
「違うの。正確に言えば、元カレってやつなのかもしれないけど」
「え……」
戸惑う羽菜の前で、琴子が小さく微笑む。
「利用してるだけなんだよ。わたしは、櫂くんのことを」
羽菜には意味がわからなかった。
どちらかといえば、「わたしが利用されている」って言われた方が、納得できる気がした。
呆然として、声も出せない羽菜の前で琴子が言う。
「わたしがこの店を始められたのは、櫂くんが援助してくれたから。海のそばで店を開きたいって話は、付き合ってた頃にしてたと思うけど、開業資金半分出すからおれも連れてってくれって、突然現れたの。勤めてた会社も辞めたからって……意味わかんないでしょ? もうわたしたち、とっくに別れてたはずなのに」
そう言いながら琴子がため息をつくように笑う。
「だけどわたしはどうしても店を開きたかったから、それを利用させてもらってるの。一緒に暮らすってことを条件に。でも店の手伝いもしてくれるし、家事もしてくれるし、助かっちゃってる」
「それって……琴ちゃんともう一度やり直したかったんじゃないの? 櫂くん」
「まさか」
琴子が首を横に振る。
「あの人はわたしのことなんか、全然見てない。付き合ってる頃から、自分のことさらけ出さない人だったけど、再び現れてからは特に」
そして琴子は、じっと羽菜の顔を見つめて言う。
「たぶん、わたしと別れた後に……事故で、妹さんを亡くしてしまったからだと思う」
「妹さん?」
「いたの。ちょうど羽菜ちゃんと同じくらいの子が」
心臓がぎゅっと痛んだ。聞いてはいけないことを聞いてしまったような罪悪感に包まれる。
琴子はそんな羽菜に、静かに笑いかける。
「とにかく、櫂くんのおかげでわたしは、ずっと夢だったパン屋さんを開業できた。おばあちゃんに、わたしの作ったあんドーナツは、食べさせてあげられなかったけど」
琴子の視線がおばあさんの写真に移る。
「わたしね、海から昇る朝日を眺めながら、パンを作りたかったの」
おばあさんに向かって微笑みかける、琴子の横顔を羽菜は見つめる。
「わたしは夕日よりも、朝日が好き。だって希望があるでしょ?」
朝日を眺めながらパンを作れる小さなお店。優しい味がするパン。その場所へ、おれも連れてってくれって言った櫂。
何の音もしないはずの薄暗い部屋に、かすかに波の音が聞こえた気がした。