2 ママチャリとカレーパン
「ただいまぁ! パンくださーい!」
夕方になると、琴子の店に、小さなお客さんがやってくる。
近所に住む五歳の女の子、優海だ。
「おかえりー、優海ちゃん。保育園楽しかった?」
「うん!」
「よし。今日も元気に頑張ったから、琴ちゃんがとっておきのパンをあげるよ」
そう言って琴子は、優海のために特別に作ったパンを差し出す。
「わぁっ! 今日はパンダさんだー!」
紙袋の中をのぞきこみ、優海がはしゃいだ声を上げる。
「優海ちゃん、パンダさんの中身は何だと思う?」
琴子の代わりに羽菜が聞く。優海は肩につくほど首をかしげ、それから「はいっ」と手を上げて答えた。
「かすたーどくりーむ!」
「さぁ、どうかなー?」
「食べていい?」
わくわくした顔つきの優海に、今度は琴子が言う。
「お兄ちゃんに、聞いてみないとね?」
琴子の声に羽菜が外を見る。店の前に一台の自転車が止まっていて、そのそばから男の子が、羽菜に向かって手招きをしした。
「はい、金」
「ありがとうございます」
外へ出た羽菜の手に、ぶっきらぼうに百円玉を渡すのは、優海の兄の凌空だ。
羽菜はもらったお金を握りしめ、目の前に立つ凌空のことを見る。
「なんだよ?」
頭頂部だけ黒くなった、金髪に近い茶色い髪で、地元のヤンキーみたいにじろりと睨まれても、羽菜は全然怖くない。
ママチャリの後ろに妹を乗せて、スーパーの袋をぶらさげ、毎日保育園の送り迎えをしている凌空のことを、羽菜は知っているから。
「また日に焼けたね?」
「は? あったり前だろ。毎日海の家で、こき使われてんだから」
羽菜と同じ高校二年生の凌空は、隣の入り江にある海水浴場で、アルバイトをしている。
タンクトップから伸びる凌空の腕は、会うたびに日焼けしていって、初めて会った夏の最初よりも、ずいぶんたくましく見えた。
「ねぇ、凌空ちゃーん! パンダさんのパン、食べてもいーい?」
優海のあどけない声が聞こえ、凌空は店の中をのぞきこむ。
「ダーメ! 今食ったら夕飯食えなくなるだろ? それにお前保育園で、おやつちゃんと食ったじゃん」
そう言ってため息をつく凌空を見て、羽菜はつい笑ってしまった。
「なんだか凌空って、優海ちゃんのお母さんみたい」
「うるせぇ。だまれ、羽菜」
握った右手で、額を軽く小突かれる。
凌空とは知り合ったばかりなのに、なんだかすごく自然に話せる。
それはきっと、凌空が羽菜のことを何にも知らないから。そして凌空のことも、ひと夏だけ知り合った、遠くの町に住む男の子、としか思っていないから。
「ほら、もう帰るぞ、優海」
「やだぁ、パンダさんのパン、食べたーい」
「わがまま言うな。まったく、世話かけやがって」
そう言いながら凌空は店の中へ入り、ひょいっと優海を抱き上げると、自転車の後ろの子ども椅子に座らせた。
「やだぁ! 凌空ちゃんのバカー」
「暴れると海に落ちるぞ? 落ちたらパンダさんのパン食えなくなるぞ? それでもいいんだな?」
じたばたしていた足を止め、優海がぶすっとした顔で凌空を見上げる。凌空はそんな優海を見て、ふっと口元をゆるませる。
「凌空ちゃん、これ」
店から出てきた琴子が、自転車にまたがる凌空を呼び止め、小さな袋を差し出す。
「残り物だけど。よかったら食べて?」
「え、いいんすか?」
「毎日寄ってくれて、どうもありがとう」
琴子が渡した袋の中に、凌空の好きなカレーパンが入っていることを、羽菜は知っていた。
残り物なんかじゃない。優海のために作ったパンダさんのパンと一緒に、琴子が用意していたものだ。
「また来てね、優海ちゃん。明日は何の動物さんか、お楽しみに」
ふてくされた顔つきの、優海の頭を琴子がなでる。優海は琴子のことを見上げて、素直にこくんとうなずいた。
「じゃっ、ごちそうさまでした!」
凌空が琴子に言って、そのあと羽菜のことをちらりと見る。だけどすぐに前を向いて、自転車のペダルを踏み込むと、海沿いの道を優海を乗せて走り出した。
「ありがとねー! 凌空ちゃん!」
琴子の声に優海が振り返り、すっかりご機嫌な様子で手を振る。
笑顔で手を振り返す琴子の隣で、羽菜は何も言わずに二人の後ろ姿を見送った。
「ねぇ、琴ちゃん? 凌空んちって、お母さんいないんだっけ?」
お店の片づけをしながら、羽菜が琴子に聞く。
「うん。二年くらい前に、出て行っちゃったらしいね。まだ三歳だった優海ちゃんと、凌空ちゃんのこと残して」
二年前っていうことは、琴子がこの場所にお店を出す前の話だ。
「お父さんはいるんでしょ?」
「いるけどあんまり帰って来ないみたい。漁師さんで、一旦漁に出ると一か月は帰って来れないって」
「ふーん」
凌空の家庭に、複雑な事情があるらしいってことはわかっていたけど、そんなこと本人には聞けない。
「それにあの二人、お父さんが違うらしいの」
「え? どういうこと?」
モップを持った手を止めて、雑巾がけしている琴子を見る。
「凌空ちゃんのお母さんの再婚相手が、今のお父さんなんだって。お父さんと暮らすために、凌空ちゃん連れて東京から来て、それから優海ちゃんが生まれたんだって」
「なのに家を出て行っちゃったの? 凌空のお母さん」
琴子も手を止め、羽菜を見る。
「わたしも人に聞いただけだけど。お店によく来る自治会長の小坂さんが、聞いてもいないのに教えてくれるんだよ。あの自治会長さん、良くも悪くもおせっかいな人だから」
そして琴子は、小さくため息をつきながら言った。
「凌空ちゃんのお母さんって、かなり派手な人だったらしくて、最初からこの町の人たちに、あまりよく思われてなかったみたい。一緒に連れてこられた凌空ちゃんのことも」
なんとなく胸の奥がざわざわした。自分にとっては関係のない話で、どうしようもないことだってわかっていたのに、なんだかすごく切なかった。
数日後の昼、琴子の家にあった自転車を借りて、羽菜は海沿いの道を走った。
堤防にそってしばらく走れば、すぐに隣の集落に着く。
琴子の店の前の浜は、遊泳禁止になっているけど、こちらの浜は海水浴場だ。
この時期、観光客もぱらぱらと来ていて、浜には海の家が数件建ち、琴子の住む集落より賑わっている印象だった。
こっちにお店を出せばよかったのに。余計なお世話だと思いながらも、そんなことを考えつつ、自転車を止める。
目の前に続く長い階段。それを上ると、大きな木に覆われた神社がある。
階段を上り切り羽菜は振り返る。すると一番下から、凌空が駆け上ってくるのが見えた。
「なんだよ。一緒に昼飯食おうとか」
昨日の夕方、優海とお店に寄った凌空を、羽菜が誘ったのだ。明日一緒に、お昼食べない? って。
「いいじゃん。たまには」
そう言って、浜辺を見下ろせる階段の一番上に座り、羽菜は凌空に紙袋を差し出す。
「パン食べる? あたしが作ったの」
「げ? 食えんのか?」
「失礼なっ」
羽菜が紙袋を押し付けると、白い歯を見せて凌空が笑った。
かわいいのに。笑うとすごく。
田舎町には似合わない、ピアスをあけた凌空の耳元を見ながら思う。
「お、カレーパンじゃん。いただきますっ」
羽菜の隣で、凌空がパンにかじりつく。サクッという音とともに、香ばしい香りが羽菜の鼻先まで届く。
しかし二口目を食べた凌空が、悲鳴のような声を上げた。
「ひっ、なんだよ、これ。辛れぇぇ!」
「激辛カレー入れたんだもん」
「バカか、お前っ! お茶くれ、お茶っ」
飲みかけのペットボトルを凌空に差し出すと、凌空は躊躇うことなく、喉を鳴らしてそれを飲んだ。
「はぁぁっ、死ぬかと思った」
「大げさだよ。凌空は」
「おれ辛いの、めっちゃ苦手」
「カレーパンは好きなのに?」
「琴子さんのカレーパンは甘いから」
差し出されたペットボトルを受け取りながら、凌空の顔を見る。
「なんだよ?」
「べつに」
羽菜から顔をそらした凌空は、再びカレーパンを口にして「辛れぇー」なんて騒いでいる。
本当は聞きたいことがたくさんあった。
だけど何から聞いたらいいのかわからなくて、羽菜は少しうつむき、袋の中から琴子の作ってくれたパンを取り出す。
するとそんな羽菜の隣で、凌空がぼそっとつぶやいた。
「あのさぁ、羽菜って……なんでこの町に来たんだ?」
「え?」
思わず顔を上げて凌空を見る。凌空はずっと遠くの水平線を見つめている。
「家出して来たんか?」
「違うよっ」
あわてて首を横に振る。
「夏休み中、ヒマだったらうちに来ないって、琴ちゃんに誘われて……ちゃんと親にも言ってあるもん」
「ふうん?」
曖昧な返事をして、凌空はまた一口パンをかじる。そしてそれを飲みこむと、ひとり言のように、ぽつりとつぶやいた。
「おれのことも……誰か誘ってくれないかな」
少し額に汗をにじませた、凌空の横顔を羽菜は見る。
「誰でもいいから誘ってくれたら……おれ、どこへだってついて行くのに」
日差しを遮る木の枝から、蝉の声が降り注ぐ。吹く風はほんの少し涼しいけれど、それでも汗がにじんでくる。
「あ、でも、できれば都会がいいな。こんな、年寄りばっかの、潮臭い田舎はもう嫌だ。何もかも捨てて、知らない街に行って暮らしたい」
「できるわけないじゃん。優海ちゃんはどうするの?」
思わず口から出た言葉は、意地悪だっただろうか。
自分は逃げ出してきたくせに。琴子の言葉にどっぷり甘えて。凌空の置かれている場所よりも、ずっと楽な場所にいたはずなのに。
「わかってんよ。そんなの」
ふっと笑った凌空が、空になった紙袋をくしゃっと丸める。
「おれ、優海のこと好きだし。父親は違うけどさ、生まれた時から面倒みてるから、可愛いんだよ、けっこう」
そう言って羽菜に振り向いて、凌空は丸めた紙袋を押し付ける。
「それにあいつは、おれがいないと何にもできないし」
「凌空……」
「おれがあいつの、『お母さん』みたいなもんだしさっ」
羽菜の隣で凌空が立ち上がり、にっと笑った。
「じゃ、おれ、もう行くわ。ごちそうさん!」
「え、もういいの? 琴ちゃんの作ってくれたサンドイッチがあるんだよ?」
「また帰りに寄る!」
そう言って凌空は、羽菜に背中を向ける。
「あ、あのっ……凌空!」
階段を降りかけた凌空に向かって、何を言えばいいのだろう。
自分をあの場所から、連れ出してくれた琴子。凌空にとってのそんな存在になりたいけれど、まだまだなれない。
「バイト……がんばって!」
振り返った凌空が、階段の途中から羽菜を見上げる。
そして空に右手を高く突き上げると、親指を立てて、いたずらっ子のような笑顔を見せた。