14 月明かりの下で
真夜中に、風鈴の音がちりんと鳴った。ほんの少し開いた窓から、夜風が吹き込んできたのだ。
熱帯夜が続いていた頃が嘘のように、最近吹く風は気持ちがいい。
羽菜はゆっくりと、布団の上に起き上がる。すると隣で眠っているはずの、琴子の声が聞こえた。
「眠れないの? 羽菜ちゃん」
琴子の声はやさしかった。
「夜のお散歩でも行く?」
横になったままの琴子が微笑む。もしかしたら琴子も、眠れなかったのかもしれない。
羽菜はそんな琴子に笑いかけ、こくんと小さくうなずいた。
「そういえば、まだ羽菜ちゃんが小さい頃、こんなふうに夜のお散歩したことがあったね」
琴子と二人で浜辺を歩く。月明かりが夜の海を、穏やかに照らしている。
「うん、覚えてるよ。あたしが琴ちゃんちに、泊まりに行った日だよね」
「そうそう、おばあちゃんに見つからないように、こっそり家を抜け出して、夜の公園で遊んだの」
「お巡りさんに捕まっちゃうんじゃないかって、すごくドキドキしてた」
「わたしも!」
二人で顔を見合わせて、おかしくて笑う。
だけどもうすぐ、琴子ともお別れだ。
学校の休日に、電車を乗り継いで来れない距離ではないが、簡単に来れる距離でもない。
学校へ戻れば部活もあるし、当分琴子とは会えないだろう。
「羽菜ちゃん」
黙り込んだ羽菜に、琴子が言う。
「羽菜ちゃんなら大丈夫だよ」
まるで羽菜の不安な気持ちに気づいているかのように、琴子は微笑む。
「つらいこともあるかもしれないけど、きっと羽菜ちゃんなら、大丈夫。わたしはいつも応援してるよ?」
涙が出そうになったのを、琴子に知られたくなくて、羽菜はつい話をそらす。
「こ、琴ちゃん!」
「なあに?」
隣に立つ琴子を見る。琴子は少し首をかしげ、羽菜の言葉を待っている。
「琴ちゃんは、櫂くんのこと……好き?」
少し驚いた表情で、羽菜を見る琴子。だけどすぐに笑顔になって、羽菜に答えてくれた。
「うん。好きだよ」
琴子がはっきりそう言って、静かに夜空を見上げる。
「たとえ櫂くんがわたしのことを見てなくても……やっぱりわたし、櫂くんのこと、好きだなぁって思う」
「琴ちゃん、違うよ! 櫂くんはちゃんと、琴ちゃんのこと見てる。たぶん櫂くんは、琴ちゃんのこと好きだか……」
言いかけた言葉を途中で止めた。
琴子の後ろに人影が見える。気づいた琴子が後ろを振り返り、「櫂くん……」とつぶやいた。
「えっ、なんで? なんでいるの?」
あわてた羽菜に向かって、櫂が言う。
「仕事してたら、お前ら二人が、浜辺に降りるのが見えたから」
「やだぁ、もう、びっくりしたぁ」
苦笑いする羽菜の頭を、櫂が軽く小突く。
「やだぁ、じゃない。こんな時間に女だけで、危ないだろ?」
その声に琴子が答える。
「全然平気だよ。こんな時間、こんな場所に、誰も来る人なんていないもの」
「そうそう、むしろ危ないのは櫂くんだよねー。あたしたちの後つけたりして。櫂くんのほうが、よっぽど不審者だよ」
そう言って笑った羽菜を、櫂がじろりとにらみつけた。
「羽菜。お前が帰る前に、一つだけ言っておきたいことがある」
「えっ、な、なぁに?」
「お前のおせっかい焼きも、いい加減にしろ。余計なことは、何も言うな」
「よ、余計なことって、なに?」
もしかして、さっき琴子に言ったこと、聞いてた?
櫂が小さくため息をつく。そして羽菜に向かって、言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「好きとか、嫌いとか、そういうのは自分の口で言うから。だからお前は黙ってろってこと」
きょとんとした顔で櫂を見る。櫂の言った言葉の意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
「まったく、お前のせいで予定が狂った。本当はもう少し仕事が軌道に乗ったら、言おうと思ってたのに」
「櫂くん……」
羽菜に向かって櫂が、しっしっと追い払うように手を払う。
「子どもは部屋に戻って寝てなさい」
「えー」
「これからは大人の時間なんだから」
そう言って羽菜を見た櫂が、ふっと口元をゆるませる。羽菜は櫂に向かって口を尖らせたあと、すぐに笑顔で琴子に振り返った。
「じゃあ、琴ちゃん。あたし先に帰ってるね」
「え、ちょっと待って。羽菜ちゃん」
琴子は本当に困ったような顔をしている。すると櫂がそんな琴子に、穏やかな口調で声をかけた。
「琴子。おいで」
そんなに優しい声で、琴子のことを呼ぶんだ。
「おれの散歩に付き合ってくれよ」
琴子が黙って羽菜を見る。羽菜は小さく笑って、耳の横で手を振る。
やがて琴子は、柔らかな笑顔を羽菜に見せて、そして静かに背中を向けた。
砂の上を振り向かずに走る。じゃりじゃりした階段を一番上まで駆け上ると、目の前に琴子の店が見えた。
羽菜は一度立ち止り、後ろを向いて堤防から浜辺を見下ろす。
ああ、これはいつか、羽菜が夢で見た光景だ。
柔らかな月明かりの下、並んで立つ、櫂と琴子の背中が見える。
穏やかに繰り返される波の音。静かに流れる海風。どこか懐かしい潮の香り。
二人の背中は、なんだかとても幸せそうに見えて、羽菜もじんわりと幸せな気持ちになれた。




