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13 夏の終わり

「よし、オッケー! それじゃ、羽菜ちゃん、お願いね」

 パンを車に詰め込んで、ハッチバックを閉めた琴子が羽菜に言う。

「うん。任せといて」

 櫂の運転する車で、朝の配達に行くのは、もう慣れたものだ。

 だけど……この町でのそんな生活も明日で終わり。来週には、家から学校へ通っているはずだ。

「行ってらっしゃい!」

 笑顔で手を振ってくれる琴子は、今朝も元気だ。

 琴子は、過去の話を羽菜にはしないし、羽菜もそんなことは聞かない。

 過去に何があったとしても、羽菜の大好きな琴子に変わりはないから。

 店の前に立つ、琴子に手を振り返してから、羽菜は何気なく二階の窓を見上げる。

 カーテンが揺れる窓辺に、凌空の姿が見えたけど、羽菜の視線に気がついたのか、凌空はすぐに視界から消えた。

 車のクラクションが軽く鳴る。櫂が羽菜を呼んでいる。

 羽菜は琴子の店に背中を向けると、走って車の中へ乗り込んだ。


 いつものように老人ホームへパンを届けてから、櫂は坂道の途中に車を停めた。

 羽菜は開け放した窓から、お気に入りの景色を見下ろす。

 海は今日も穏やかに澄んでいたけれど、青の色が、真夏とは微妙に違う気がする。

 夏がもう、終わりに近づいているからなのだ。

「ねぇ、櫂くん?」

 運転席のシートを倒し、ぼんやりと空を眺めている櫂に言う。

「あたしがいなくなったら、寂しい?」

「べつに」

 即答されてちょっとむかつく。

「あたしがいなくなったら、困るでしょ? 配達の時とか」

「凌空にやらせるからいい」

 すねた顔を見せてから、羽菜は櫂から視線をそらし、また海を見下ろす。

 凌空はあれから、琴子の家で暮らしている。

 けれど、すっかりふさぎ込んで、口数も少なくなってしまい、ほとんど櫂の部屋から出てこない。

 妹の優海は、しばらく施設で保護されることになったらしいと、小坂さんから聞いた。

 優海の父親が、どこで何をしているかは、小坂さんも知らないそうだ。


「あたし、もう少しここにいようかなぁ……」

 海を見たままぽつりとつぶやく。

「なんで?」

「なんでって……凌空のことも心配だしっ」

 運転席の櫂を見る。櫂は羽菜に振り向こうともしない。

「また羽菜のおせっかいが始まった」

「だって、本当に凌空のことが心配なんだもん」

「大人に任せとけばいいんだよ」

「大人って誰よ? ここにいる、琴ちゃんのヒモみたいな、最低な大人のこと?」

 ふっとおかしそうに櫂が笑う。

「はっきり言うなよ」

 櫂が頼りになるのか、ならないのか、いまだによくわからなくなる。

 その時、電話の着信音が車内に響き、櫂は体を起こすとそれを耳に当て、車の外へ出て行った。


「……なんだろ」

 羽菜は車の中から、櫂の背中を見つめる。

 そういえば、櫂が誰かと電話で話している姿なんて、見たことがなかった。

 しばらくして戻ってきた櫂に羽菜が聞く。

「何の電話?」

「仕事の電話」

「えっ?」

 驚いて声を上げた羽菜のことを、櫂がにらむように見る。

「櫂くん、仕事してるの?」

「しちゃ悪いか?」

「も、もしかして、ヤバい仕事とか?」

「バカか? お前」

 あきれたようにため息をつき、櫂は車のエンジンをかける。

「東京で働いてた時の伝手を頼って、少しずつデザインの仕事もらってんだ。パソコンあればできるから」

「いつの間にそんなことしてたの?」

「琴子の趣味みたいな店だけじゃ、食っていけないだろ? もう一人居候も増えたことだし」

 櫂に「シートベルト」と言われ、羽菜があわててつけると、車は坂道を走り出した。

「今の電話で、ちょっと大きな仕事がもらえそうだったから、来週東京で打ち合わせしてくる」

「櫂くん、本当に仕事してるんだ」

「だから、してるって」

「いなくなったり、しないよね?」

 ハンドルを握る、櫂の横顔につぶやく。

「琴ちゃんと凌空を置いて、いなくなったりしないよね」

 車がカーブを曲がり、周りの景色が揺れる。窓から吹き込む風とともに、櫂の声が聞こえてくる。

「おれはここにいるよ」

 目を閉じて、櫂の声だけに集中する。

「だからお前は、思いっきり走ってきな。こけたらまたここで、慰めてやるから」

「……うん」

 静かに目を開け、外を見る。青い空、白い波、生い茂る緑の葉。目に映るすべてのものを、忘れないようにしようと思う。

 これからも、このまま、ずっと。


 店に戻ると、琴子が焼きたてのパンを羽菜にくれた。

 甘ーいカスタードクリームがあふれるほど詰まった、あのクリームパンだ。

「凌空は? 降りてきた?」

「ううん、今日はまだ」

「お腹すいてないかな? このパン持って行ってあげようかな」

 羽菜の声に、そばにいた櫂がため息まじりに言う。

「腹がすけば降りてくるだろ? あんまり甘やかしすぎるなよ」

「なによ、櫂くんは冷たすぎ」

 ふんっと顔をそむけた櫂が、さりげなくパンを一つ手に取り部屋の中へ上がって行く。

 あれ? と思った羽菜が琴子につぶやく。

「櫂くんがパン持ってった。おれは食わないって言ったのに」

「うん? 櫂くんも食べるよ? クリームパンだけは」

「ええっ?」

 うそ。どうして今まで気づかなかったんだろう。もしかして誰にも気づかれないように、こっそり食べていたの?

 琴子は羽菜の前でいたずらっぽく笑って、耳打ちするように言う。

「櫂くんってね、シュークリームが大好物なの。だからクリームパンなら食べるかなって思って作ったら、やっぱり食べた」

「えー!」

 それで琴子の作るメニューに、クリームパンが頻繁に登場していたんだ。

 琴子はにこにこと微笑んで、羽菜にパンをひとつ差し出す。

「羽菜ちゃん、これ二階に持って行ってあげて。きっと凌空ちゃんも、お腹すかしてるはずだから」

 羽菜は琴子からパンを受け取る。じんわりと手のひらがあたたかくなった。


「凌空? 入るよ」

 二階にある、櫂の部屋の襖を開ける。締め切った部屋の中の、敷きっぱなしの布団の上に、凌空は背中を向けて横になっていた。

「もう、窓くらい開けなよ。暑いじゃん」

 羽菜が言っても、凌空は動こうとしない。仕方なく羽菜が窓を開くと、穏やかな風が狭い部屋の中へ吹き込んできた。

「ねぇ、凌空。お腹すかない? パン持ってきたよ」

 布団の脇にぺたんと座って、羽菜は凌空の反応を待つ。けれど凌空は、何も答えようとしない。

 太陽が照りつける午後、神社の階段に座って、凌空と食べたパンを思い出す。

 蝉の声が響く下で、凌空は嬉しそうに笑っていた。

 あんな日は、もう二度と来ないのだろうか。

 凌空はあの事件以来、バイトも辞め、外へも出ず、ずっとこんな調子なのだ。

 来週からは、学校が始まるというのに。


「凌空。あたし、明日には家に帰るの」

 反応がないことはわかっていたから、羽菜は答えを待たずに続けて言う。

「あたしね、ずっと陸上やってたんだ。でも怪我で思うように走れなくなって……もう、部活も学校も辞めちゃおうかと思うくらい、落ち込んでたの」

 羽菜はそう言ってから、少しだけ口元をゆるませる。

「他の人からすれば、なんだそんなことくらいでって、笑われちゃうかもしれないけど……でもあたしにとっては、すごく大事なことだったから」

 音のない部屋に、羽菜の声だけが響く。

「だけどそんな時、琴ちゃんに、うちにおいでよって誘われて。あたしね、琴ちゃんの言葉に救われたの。ここに来なかったらあたし、もう走るの辞めてたかもしれない」

 窓から、夏の終わりの風が吹き込む。

「何をしてもらったわけでもないけど……でもここに来てよかった。櫂くんと……凌空にも会えたから」

 そう言って羽菜は微笑んだ。本当に、心からそう思えたから。

「ありがとうね。凌空」

 布団の脇にパンを置いて部屋を出る。

 最後に一度だけ振り返ったけれど、凌空は背中を向けたまま、羽菜に振り向こうとはしなかった。

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