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12 ずっと待ってた

 台風が去った翌日、波はまだ高かったけれど、強い風が雨雲を押し流し、青い空がところどころに顔を出し始めた。

「櫂くん!」

 堤防の前に立ち、海の様子を眺めていた櫂に羽菜が駆け寄る。

 琴子の店に掲げられた、「本日休業」と書かれたプレートは、強い風に煽られて今にも飛んでしまいそうだ。

「琴子は?」

 櫂が振り向いて羽菜に聞く。

「部屋で横になってる。もう何ともないけど、今日一日休むことにするって」

「そうか」

 櫂がつぶやいて、また荒れた海に目を移す。羽菜もそんな櫂の隣に並んで、同じ方向を見つめる。


「琴ちゃん……どうしたんだろ」

 風の中で羽菜がつぶやいた。少しの間のあと、櫂が答える。

「昔の記憶が蘇ったんだろ?」

「昔の記憶?」

 それは羽菜が予想もしていなかった答えだった。

 櫂はまたしばらく黙り込んでから、海を見たまま、ひとり言のように言う。

「あいつ、四歳の時に母親を亡くして、それからしばらく、父親と二人で暮らしてたんだ」

「え……」

「最初のうちは、父親も懸命に子育てをしていたそうだけど、だんだん子どもが重荷になってきたんだろ。家に帰ることが少なくなって、琴子はいつもたった一人で、父親の帰りを待っていたらしい」

 知らない。そんな話、聞いたこともない。

「そのうち父親が再婚することになって、でも琴子は連れて行ってもらえなくて……つまり親に捨てられた。施設に預けられたあと、結局おばあちゃんちで暮らすことになったそうだけど」

 ああ、そうだったのか。それが、琴子がおばあさんの家で暮らしていた理由だったのか。

「だから琴子は凌空たちの姿を、自分の幼い頃と、重ね合わせていたのかもしれないな」

「あたしそんな話、全然知らなかった」

「あいつ、その話は誰にもしてないんだ」

 でも櫂には話したんだ。琴子は櫂のことを、それだけ頼りにしていたから。


「ひどいよね。琴ちゃんの親も、凌空たちの親も。そんな人、お父さんでもお母さんでもないよ」

 やりきれない想いがあふれ出す。だけど何もしてあげることはできなくて。それがたまらなくもどかしい。

 櫂はそんな羽菜をちらりと見て、つぶやくように言う。

「だけど昨日、優海が言ってたな。『お父ちゃんがいい』って」

 羽菜が顔を上げて櫂を見る。

「琴子も言ってた。そんな父親でも恨んでなんかいないって。ほったらかしにされて、傷つけられたのに、きっとお父さんも傷ついていたんだろうって」

「そんなの……」

 信じられなかった。だけどもしかしてそれは、羽菜が経験したことのない出来事だからなのだろうか。

「あともうひとつ、覚えてることがあるって、琴子が言ってた」

 櫂がまた、視線を海に向ける。白く立つ波の間を、海鳥がすり抜けるように飛んでいる。

「父親は帰ってくる時、いつもパンを買ってきてくれた。スーパーの見切り品ばかりだったけど、それがすごく美味しくて今でも忘れられない。きっとそれは、大好きな人と食べた思い出だからなんだって」

 羽菜は、琴子の作るパンを思い出す。琴子は今でも、大好きな人と食べた忘れられない味を思いながら、パンを作っているのだろうか。

「なにそれ。そんな話、全然知らないよ、あたし」

 思わずにじみそうになった涙を、振り払うように首を振る。

「だから琴子は、誰にも話してないんだって」

「でも櫂くんは知ってたんでしょ。ずるいよ、櫂くんばっかり」

 すねた顔をして、櫂から顔をそむける。そんな羽菜の目に、見慣れた姿が映った。

「凌空!」

 思わず叫んで駆け出す。櫂も振り返って羽菜の姿を目で追う。

 駅の方角からたった一人で歩いてきた凌空が、羽菜たちに気づいて立ち止った。


「凌空っ、だ、大丈夫?」

 琴子の店の前で、ぼんやりと立ち止った凌空に駆け寄る。

 昨日もめた時に怪我をしたのか、凌空の右手には包帯が巻かれていて、その手に封筒のようなものだけを持っていた。

「大丈夫……なの?」

 なんて言ったらいいのかわからなくて、羽菜は凌空の前で、その言葉を繰り返す。

「……大丈夫、だよ」

 凌空が羽菜の顔を見ないで言った。櫂もそんな二人のもとへやってきて、羽菜の後ろで立ち止まる。

「警察がおれの母親に連絡とって、今朝迎えに来てくれた。息子はわたしが引き取って、東京に連れて行きますって」

「凌空のお母さんが? 来てくれたんだ」

 ほっとして、笑みをもらした羽菜の前で、凌空も口元をゆるませる。

「で、お母さんは? 一緒じゃないの?」

「帰ったよ」

「え?」

「一人で東京に」

 意味がわからない羽菜に向かって、凌空が封筒を差し出す。すると、逆さまになった封筒の口から、一万円札が何枚かはらはらと落ちた。

「な、なに? これ……」

「この金やるから、お父さんと仲良くしろってさ」

 凌空の手から封筒が落ちる。

「彼氏と暮らしてるから、今は凌空を東京に連れていけないの。必ず迎えに来るから、それまでお父さんと仲良くやっててって……」

 凌空は思いきり膝を持ち上げると、その足で地面に落ちたお札と封筒を踏みつけた。

「ふざけんな! バカにしやがって! 最初に出て行く時も、そう言ってたじゃんか! おれ、待ってたのに……必ず来るって言うから……だから、ずっと……」

 そのあとは声にならなかった。

 うつむいて、肩を震わせている凌空の足もとに涙が落ちる。羽菜はそんな凌空の前で、ただ両手をにぎりしめる。

 この手で、目の前で震えている凌空のことを、抱きしめてあげたいと思うのに……今の羽菜は、自分が涙をこらえるだけで精一杯だったのだ。


「凌空」

 羽菜の後ろから声がかかった。黙って二人の様子を見ていた櫂が、凌空の前に歩み寄る。

「お前、よく頑張ったな」

 櫂の手が、ぽんっと凌空の背中を叩く。

「よく頑張ったよ」

 そして凌空の髪をぐしゃぐしゃとかきまぜながら、そっと自分の胸に引き寄せた。

「お前も一緒に暮らすか? 琴子の家で」

 櫂の胸に額を押し付けた凌空が、返事の代わりに声を上げて泣き出した。

「一緒に暮らそう。な?」

 強く吹く風の中、羽菜はぼんやりとその声を聞く。

 穏やかな顔つきで、凌空の頭をなでていた櫂が、そんな羽菜を見てかすかに微笑んだ。

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