11 台風の夜
雲の流れが速い。くすんだ色の海には、いくつもの白い波が立っている。
朝の天気予報で言っていた通り、台風がこの町にも、少しずつ近づいているようだ。
神社の階段の一番上に座り、羽菜は海を眺める。
海水浴場に立つ赤色の旗が、湿気を含んだ風にパタパタと煽られ、何人かの人たちが浜から引き揚げてきた。今日は午後から遊泳禁止になったらしい。
しばらくぼんやり座っていると、階段をのぼってくる人影が見えた。
「凌空っ!」
立ち上がって手を振る。けれど凌空は少し顔を上げただけで、いつものように羽菜のもとへ、駆け上ってくることはなかった。
「台風来るから、今日は海の家もおしまいだってさ」
そう言って凌空は、疲れたようにいつもの場所に座った。なんだかすごく元気がない。
「どうしたの?」
羽菜も凌空の隣に座り、さりげなくその顔をのぞきこむ。こめかみのあたりが赤く腫れていて、痣のようになっている。
喧嘩でもしたのかと想像し、羽菜は心配になった。
最近凌空は、優海と一緒に店に寄ることがなくなった。お昼を一緒に食べようと誘っても、忙しいからと断られ、今日は久しぶりにここで待ち合わせしていたのだ。
「べつにどうもしねぇよ」
そうつぶやいた凌空は、羽菜のことを見ようとしない。
「ねぇ、優海ちゃんは元気? 最近お店に来ないからさ。あ、今日はこれ、優海ちゃんに持ってきたの。かわいいでしょ?」
羽菜は持っていた紙袋の中から、うさぎの顔をしたパンを取り出す。凌空はちらりとそれを見たあと、また羽菜から視線をそらした。
「優海は毎日家にいるよ」
「……お父さんと一緒に?」
凌空が小さくうなずく。
「あの親父、女にフラれて行く場所がなくなったらしくてさ。仕事もしないで、一日中ぐだぐだ酒飲んでる」
膝の上の紙袋を、ぎゅっと握った羽菜の隣で、凌空が続けて言う。
「今朝は優海を保育園に連れて行こうとしたら、嫌だってぐずられて。そしたら、うるさいから泣かせんなって、目の前にあったグラス投げられた」
「ひどい……」
「こんなんだったら、いないほうがましだよ。酔っぱらって海にでも落ちて、死んでくれないかな」
羽菜が黙って凌空を見る。風に揺れる赤い旗を見つめたままの凌空は、「嘘だよ」と小さく言った。
「あんな親父でも優海の父親だからな。優海はビビってるくせに、それでも離れようとしねぇの。保育園に行ったら、また親父がいなくなるんじゃないかって、不安になってる」
「なんとか……ならないの? 誰か大人に相談するとか」
「誰にだよ?」
バカにしたように笑った凌空が、羽菜を見る。
「お前もいなくなるんだろ?」
「え……」
「もうすぐ帰っちゃうんだろ?」
凌空の言う通り、夏は確実に終わりに近づいている。
「そ、そうだけど。でもあたしは凌空のこと……」
「もういいよ」
吐き捨てるように言って、凌空が立ち上がる。
「凌空、待って」
あわてて立ち上がった羽菜の手から、凌空が紙袋をひったくった。
「これもらっとく。サンキューな。琴子さんにも言っといて」
凌空が羽菜に向かって小さく笑う。
どうしようもなく胸が痛くて、だけど何にもできない自分がもどかしくて。
まとわりつくような空気の中、羽菜は黙って立ち尽くす。
背中を向けた凌空は、強くなった風の中、一度も振り向かずに階段を駆け下りて行った。
「琴ちゃん、遅いね」
居間の卓袱台の上の、金魚鉢の中で、赤い金魚が二匹泳いでいる。
台風が来たら心配だからと、櫂が庭から移動させたのだ。
羽菜は肘をついた両手にあごをのせ、ぼんやりと金魚の姿を見つめる。
外が暗くなるにつれ、さらに風が強くなった。まだ雨はそれほどでもないが、閉めた雨戸がガタガタと音を立てている。
停電になるかもしれないと、近所の店へ懐中電灯用の電池を買いに出かけた琴子は、まだ帰って来ない。
「もうすぐ来るだろ」
台所に立つ櫂が、背中を向けたままいつもの調子でつぶやく。
あの夜明け前、羽菜のことを抱きしめた櫂は、何事もなかったように羽菜と接している。
意識するつもりはないけれど、何にも意識されていないのも、ちょっと悔しい。
「ねぇ、櫂くん」
そんな櫂の背中に羽菜がつぶやく。
「凌空のことなんだけど」
「またお前のおせっかいが始まったか」
「そんなんじゃないよ。だって凌空のお父さんって……」
そこまで言いかけた時、店の電話が音を立てた。
「あ、羽菜ちゃん?」
「琴ちゃん、どうしたの?」
電話の向こうが騒がしい。台風のせいで何かあったのかと心配になる。
「今ね、凌空ちゃんちの前にいるんだけど」
「え?」
「パトカーとか来てて、大騒ぎになってるの。よくわからないけど、凌空ちゃんがお父さんを殴って怪我させたとか」
「ええっ、凌空が?」
すごく嫌な予感が押し寄せて、電話を持つ手が震えた。
「とにかく羽菜ちゃんも来てくれない? 櫂くんと一緒に」
「い、いま行くっ」
振り返った途端足がもつれ、つんのめりそうになりながら、櫂の腕を引っ張る。
「どうしたんだよ?」
「凌空んちに行かなきゃ……櫂くんも来て!」
「凌空んちに?」
説明したくても言葉が出なくて、ただ櫂の腕をつかんだ手が震えている。
「わかった。車出す」
反対に、震える手を櫂につかまれ、引っ張られるように外へ出た。
湿気の塊のような風が頬に打ち付け、なんだかそれだけで涙が出そうだった。
櫂の運転する車で、凌空の家の近くまで行った。
台風の夜だというのに、そこには人だかりができていて、パトカーと一緒に救急車も、赤いランプを暗闇の中に光らせていた。
「琴ちゃん!」
人だかりの一番前でしゃがみこんでいる、琴子の姿を見つける。羽菜の声に顔を上げた琴子の腕の中には、涙を必死にこらえるように、口をへの字に曲げた優海の姿。
羽菜がそこへ駆け寄った時、警察官に腕をつかまれて何やら怒鳴っている、男の声が聞こえた。
「おい、おれは被害者だぞ! あのガキがいきなり殴りかかってきやがったんだ!」
「わかりました。わかりましたから、とにかく救急車の中で手当てを」
「救急車なんて乗るか! あのガキ連れて来い! ぶっ殺してやる!」
羽菜は顔をしかめて、額から血を流しながら叫んでいる男から目をそむける。
すると、もう一人の警官の隣で、うつむいて立っている凌空の姿が見えた。
「凌空……」
男の怒鳴り声が聞こえる。強い風に煽られるように雨が落ちてくる。
「凌空っ!」
思わずその名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げた凌空は、何の表情もないような顔つきで羽菜を見て、すぐにまた視線を落とした。
「凌空……どうして……」
地面に点々と落ちている男の血。凌空の家の窓ガラスが割れていて、カーテンが風に煽られなびいている。
その時、羽菜のすぐ後ろから、別の男の人の声が響いた。
「いい加減にしなさい!」
羽菜は驚いてその人の顔を見る。雨の中、目を見開いて立っているのは、自治会長の小坂さんだった。
「お巡りさん。本当に悪いのはその男です。子どもをほったらかしにして、何日も家を空け、帰ってきたと思ったら、その子達に暴力を振るっている」
「なんだと……」
小坂さんをにらみつける男の腕を、警察官がつかむ。
「その男を逮捕してください! 今すぐに!」
「てめぇ……」
殴りかかりそうな勢いの男が、警察官に止められる。
「話は交番でゆっくり。とにかく今は傷の手当てをしなさい」
男が救急車の中へ押し込められる。呆然と立っている羽菜の前に、もう一人の警官がやってきて優海に言う。
「さぁ、こっちへおいで。おじさんたちと一緒に行こう」
「や、やだぁ。お父ちゃんはぁ?」
「大丈夫。お父さんはすぐ戻るから」
「やー! お父ちゃんがいい!」
琴子から引き離されると、優海は激しく泣き出した。
「あ、あのっ。この子、うちで預かったらだめでしょうか?」
琴子の声に警官が答える。
「この子も怪我をしているようなんです。病院で看てもらう必要がありますので」
「じゃあ、凌空ちゃん……あの男の子は?」
「とりあえず今晩は警察で保護します」
警官は泣き叫ぶ優海を抱きかかえると、凌空と一緒にパトカーに乗せ、そのまま走り去った。
「まったく。いつかはこんなことになるんじゃないかと思ってた」
羽菜のそばで小坂さんがつぶやく。
「小さな妹にまで手をあげた父親のことが、許せなかったんだろう……もっと早く、警察に相談するべきだった」
ゆっくりと顔を上げる羽菜に向かって、小坂さんが言った。
「すまなかったな。わたしがそばに住んでいながら」
「小坂さん……」
羽菜に背中を向けて、小坂さんが去って行く。雨が急に強くなり、集まっていた野次馬たちも、あわてて家へ駆けこんでいく。
「羽菜。帰るぞ」
櫂に肩を叩かれる。
「琴子も」
羽菜の前に立つ琴子は、呆然と突っ立ったままだ。
「ねぇ、櫂くん。凌空、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。今、おれたちにできることは何もない」
「うん……だけど……」
「仕方ないだろ。何もないんだから」
そう言いながら櫂が、琴子の腕をつかむ。しかし琴子は全身を震わせて、ふらふらとその場に座り込んでしまった。
「琴ちゃん! どうしたの?」
羽菜が駆け寄る。
「……ごめん。なんでもない」
「でも、すごく震えてる」
差し出そうとした羽菜の手が、櫂の手にさえぎられる。
「羽菜。お前は車乗ってろ」
「え……」
「いいから乗ってろ」
櫂の大きな手が琴子の背中に回る。そしてそのまま抱きかかえるようにして、琴子をその場に立たせた。
「櫂くん……」
うつむいた、琴子の前髪から雨の滴が落ちる。
「ごめんね……」
櫂は何も言わずに、琴子の体を支えながら車へ向かう。羽菜はそんな二人の姿を、雨の中で見つめる。
ああ、やっぱりそうなんだ。櫂のあの、大きくてあたたかな手は、琴子のためにあったんだ。
そして羽菜は、開いた自分の両手を見下ろしながら思う。
自分のこの手は、誰かを救ってあげることができるのだろうか。
強い風のうねり声を聞きながら、羽菜は凌空のことを想っていた。