10 夜明けの浜辺
夜がうっすらと明けはじめた頃、羽菜は店の前の海岸へ下りた。
海水浴場でもないこの浜辺は、真夏の昼間でさえ、地元の人もあまり来ない場所。
もちろんこんな時間に人影はなく、誰もいない浜辺を歩いてみると、さらさらとした砂がサンダルの中へ入り込んできた。
羽菜がこの町へ来て、もう三週間。
夏が終われば地元へ戻り、二学期が始まる。その頃には足も良くなっていて、またあの部活へ戻れるはずだ。
戻りたくないな……そう思ってしまう。
たとえ怪我が治っても、元のように走れる自信がない。きっとタイムは落ちていて、仲間たちが伸びてゆく姿を、歯がゆい気持ちで眺めるだけなのだ。
しばらく波の音を聞いたあと、羽菜はサンダルを脱ぎ捨て素足になった。
長く続く砂浜を見つめ、おもむろに足を出す。
すると自分の意思とは関係なく、自然と体が動き出した。
海からの風を受け、砂を蹴る。腕を振り、足を上げ、前だけを見つめて走る。
どうしてだろう。あの場所へは戻りたくないのに。戻りたくないのに……足は前へ進んでいる。
ああ、そうか。自分はまだ、走るのが好きなんだ。
砂に足を取られ、よろめいた。そのまま砂浜の上に手と膝をつく。
顔を垂れたまま、荒い息を吐いた。完治していない膝が少し痛む。
体はつらかったけれど、気分はそんなに悪くない。
「何で走ってる?」
ふいに声をかけられ、顔を上げる。砂の上で膝をつく羽菜を見下ろすように、櫂が立っている。
「まだ治ってないんだろ? 足」
「少しくらいなら……大丈夫だもん」
ゆっくりと立ち上がり、砂を払う。櫂が自分を見ているのがわかる。
羽菜は顔を上げ、櫂のことを見つめて言った。
「来たよ。櫂くんに言われた通り、ここに」
羽菜の声に櫂が答える。
「本当に来るとは思わなかった」
「えっ、冗談だったの?」
あわててそう言った羽菜を見て、櫂がふっと口元をゆるませる。そしてすぐに視線をそらし、少し離れた砂の上に腰をおろした。
目の前にうっすら見えるのは、夜の明けようとしている水平線。
素足をゆっくりと動かし、羽菜は櫂のそばへ近寄る。人一人分くらいのスペースをあけて、羽菜も同じようにそこへ、膝を抱えて座った。
昨日、山の上で星を見上げた時。
櫂のことを知りたいと言った羽菜に、ここへ来るように言ったのは櫂だ。
夜が明ける前、琴子に見つからないように海まで出てこれたら、何でも教えてやるって。
「おれの妹も、走るのが速かった。おれと違って」
「え、妹?」
急に声が聞こえて、羽菜は隣に座る櫂を見る。櫂は真っ直ぐ前を見たまま、つぶやくように言う。
「そう。ちょうど羽菜と同じくらいの」
ああ、そう言えば、前に琴子から聞いたことがある。
「体を動かすのが好きで、甘え上手で、おせっかい焼き。『お兄ちゃん、お兄ちゃん』っていつも絡んできて……おれは両親と上手くいってなかったから、その分まであいつは親に可愛がられてた」
櫂の声を聞きながら、羽菜は不思議な気分になっていた。こんなふうに、櫂が自分の家族のことを話すのは、初めてだったからかもしれない。
「おれが家を出て、東京で働き出してからも、何度か『会いたい』って連絡がきた。こっちは忙しくて、それどころじゃなかったけど」
「会ってあげなかったの?」
「おれの勤めてた広告代理店は、無茶ぶりな仕事ばかりで、徹夜も休日出勤も当たり前。妹どころか、彼女にだって会う時間がなかった」
海からの風が吹く。右手で髪を押さえながら、羽菜は櫂の横顔につぶやく。
「それで琴ちゃんとも、別れちゃったんだ?」
「あの頃はそれでいいって思ってた。自分のことしか考えてなかったから」
浜辺に打ち寄せる波の音。それはさっきからずっと、流れるように羽菜の耳に響いている。
繰り返し、繰り返し、永遠に。そしてそんな波の音にまぎれ、櫂の声が聞こえてきた。
「なのになんであの日だけ妹に、『会ってもいい』なんて言ったんだろう。あの、東京に雪が降った寒い夜だけ……」
東の空が白みはじめる。水平線の彼方から、もうすぐ夜が明ける。
「櫂くん……」
思わず名前をつぶやくと、櫂がゆっくりと羽菜に振り向いた。そして羽菜と目を合わせたまま、続けて言った。
「駅からアパートまで歩いて五分。『迎えに来て』って言われたけど『一人で来い』って突き放した。おれは明日までに仕上げなきゃいけない仕事を部屋でしていて、そのことで頭がいっぱいだった」
ただじっと櫂を見つめて、その声を聞く。
「だから気づかなかったんだ。あいつが暗くて寒い中、飲酒運転の車に跳ね飛ばされて、たった一人で冷たくなっていたことに」
胸がぎゅっと痛くなる。目の前にいる櫂に、何か言いたいのに、何も言えない。ただ固まったように動けなくなっている羽菜に向かって、櫂は小さく笑いかけると、視線をはずして空を見上げた。
「妹は、おれに両親のことを相談したくて、わざわざ雪の中会いに来たらしい。その時すでに仲が悪かった両親を、なんとか仲直りさせたかったんだろ。事故のあと、親は精神的におかしくなって、おれのせいであの子が死んだって騒いで、結局離婚したけど。妹の存在だけで、かろうじて繋がってた家族だったからな」
空が次第に明るくなる。もうすぐ水平線から陽がのぼる。
「おれには、妹も親もいなくなった。そしたらなんだか体の中が空っぽになった気がして、仕事も辞めてふらふらしてた。そんな時、なぜか琴子の言葉を思い出したんだ」
「琴ちゃんの?」
「朝日が昇るところを見ながらパンを作りたいって。あいつ、夢みたいなこと言ってたなぁって」
「それで琴ちゃんに会いに行ったの?」
「帰れって言われるかと思ったのに、笑ってんだ、あいつ。じゃあ一緒に行こうよって」
水平線から朝日が昇る。生まれたての日差しが砂浜を照らす。
「バカだ、あいつ。逃げることしか考えてなかった、こんなおれのことを」
「櫂くん」
遠くを見つめたままの櫂に言う。
「櫂くんはまだ、妹さんが亡くなったことを、自分のせいだと思ってるの?」
羽菜の声に、櫂がゆっくりと顔を向ける。
「それは違うよ。妹さんは絶対、そんなこと思ってない」
羽菜は自分の声に力を込める。
「大好きなお兄さんが、いつまでも立ち止ったままだったら、妹さんはきっと、天国で怒ってるはずだよ」
そうだよ。櫂の見上げた星空から、彼女はきっと、彼の幸せを願ってる。
「羽菜……」
静かに伸びた櫂の手が、羽菜の頬に触れる。一瞬体を震わせると、その指先が頬にかかる髪を、そっとなでつけた。
「お前はあいつにそっくりだ。おせっかい焼きなところ」
ぼんやりと視線を上げた羽菜に向かって、櫂が小さく微笑んだ。
「もっと、優しくしてやればよかったな。その体があたたかいうちに」
羽菜の髪に触れていた櫂の手が、ゆっくりと離れる。そして代わりに羽菜の背中が、そっと櫂の胸に引き寄せられた。
「ごめんな……」
心臓が高鳴って、胸が痛くて、体が熱い。でも羽菜は何も言わず、櫂の胸の中で目を閉じる。
櫂がその手で、今抱きしめているのは、もう二度と触れることのできない彼女なんだ。
波の音が耳に聞こえる。穏やかな海風が肌をなでる。
静かに目を開くと、浜辺を朝日が照らしていて、「希望がある」と言った琴子の言葉を思い出した。