1 琴ちゃんちのあんぱん
深く息を吸い込むと、日焼けした体の中へ、潮の香りが流れ込んだ。
履いていたサンダルを脱ぎ捨て、砂浜に足を沈める。
素足の裏に感じる柔らかさと、生き返ったような解放感。
二、三回足踏みをした後、静かに地面を蹴り、走り出す。
追いかけてくる波の音。頬を打つ潮風。
砂に足を取られ、バランスが崩れるが、それでも風を切り前へ進む。
よろけたっていい。つまずいたっていい。前へ、前へ――。
「はぁっ……」
膝に手をつき、呼吸を整える。
柔らかい日差しに気がつき、顔を上げると、蒼い水平線の向こうから朝日が昇るのが見えた。
***
羽菜の高二の夏休みは、潮の香りと甘い香りが混ざり合っていた。
「羽菜ちゃーん、ちょっと手伝ってもらってもいーい?」
「はーい」
海を見渡せる窓から目をそらし、二階の和室を出る。
ぎしりと軋む古い階段を降りると、甘くて優しいパンの香りが、羽菜の鼻先に漂ってきた。
「羽菜ちゃん、これー」
狭い厨房の中で、両手を粉だらけにした琴子が、目で合図している。
「こっちの焼き上がったやつ、お店に並べてくれる?」
「うん、わかった」
今日のパンは何だろう? ワクワクした気持ちで焼き立てパンをのぞきこむ。
「あ、チョココロネだ!」
「そ、羽菜ちゃんのリクエストね」
そう言って琴子が、にっこり羽菜に笑いかける。
いいのかな? 自分のリクエストしたパンがお店に並ぶなんて。でもそれって、なんだかすごく嬉しい。
焼き立てパンをお店に運び、ショーケースの中に並べる。
今朝このお店に並んでいるパンは、どこか懐かしい味のあんぱんと、それから羽菜の好物のチョココロネ。
このあとは、サクサクカレーパンと、小さな子どもに人気なウインナーパンを作る。
「お店も開けていいよー」
「はーい」
パンが焼き上がったら開店。そして売切れたら閉店。対面販売のケースに並ぶパンの種類は、その日の気分次第。
「一人で作ってるからね。そんなにいろんな種類は作れないんだよ」
そう言って笑う琴子のパンは、小さな子どもでも気軽に買えるような値段だ。
「こんなんでやっていけるの?」
以前、そんな直球な質問をぶつけた羽菜に、琴子はこう答えた。
「儲けなんて、ないない。わたしが好きで作ってるんだもん。でもわたしの作ったパン食べて、喜んでもらえれば、それが何よりの儲けかな」
海沿いに建つ、看板もない、三人も人が入ればいっぱいになる、小さなお店。それが琴子のパン屋だ。
お店を開けると、目の前の海から波の音が聞こえてきた。潮の香りが鼻をくすぐる。
羽菜は「営業中」と、手書きで書かれたプレートを店先へ出しながら、視線を動かす。
狭い道路の向こう側にある堤防に、もう見慣れた背中が見える。
また絵……描いてる。
羽菜は小走りで道路を渡ると、堤防の上によじ登った。
「おはよ。櫂くん」
堤防に腰かけ、スケッチブックに鉛筆を走らせていた男、櫂が、ちらりと羽菜のことを見る。
しかしすぐに、何事もなかったかのように、視線を海へ戻し鉛筆を動かし始めた。
羽菜はその隣に腰かけ、スケッチブックをのぞきこむ。
繊細な線で描かれている、スケッチブックの中の風景には、海鳥が一羽、泳ぐように飛んでいた。
「上手いなぁ……櫂くんは」
ため息まじりに思わずつぶやく。
「あたし図工とか美術って全然ダメ。絵心ないし」
堤防の上で足をぶらぶら揺らし、羽菜は目の前に広がる海を見る。
すぐ隣にいる櫂は何も言わない。けれど羽菜はそのまま続ける。
「体育だけは得意だったけどね。足速いのだけは、いつも褒められてたの。でもそれだけ」
口に出すと、なんだか無性に情けなくなった。
「走れなくなったあたしなんて、ホント、ダメダメだよね」
海鳥が空を横切った。海から吹く風が、羽菜の短い髪をさわさわと揺らす。
「上手いのは当たり前でしょ? この人プロなんだから」
振り向くと、いつの間にかやってきた琴子が、腰に手を当て、にこっと笑った。
そういえば前に琴子が言っていた。
ここに来る前の櫂は、東京でデザインの仕事をしていたって。
だけど今はこんな海辺の田舎町で、仕事にも行かず、琴子の家でぼーっと暮らしている。
今年三十になる大人のくせに。ヒモ男っていうんだっけ? こういうの。
伸びかけの髪を切って、しわしわのTシャツからちゃんとした服に着替えれば、けっこうカッコいいと思うんだけどな。
でも羽菜にはそんなこと言えない。羽菜も夏休みの間中、琴子の家に居候させてもらっている身分だからだ。
「さ、パン焼けたから。配達頼むね、二人とも」
琴子の声に櫂が手を止め、前を向いたまま口を開く。
「今朝のコースは?」
「まずはいつもと同じ、坂の上の老人ホーム。それから帰りに、柴田のおばあちゃんちに寄ってくれる? あんぱん食べたいって言ってたから、届けてあげたいの。腰の調子が、まだよくならないみたい」
「わかった」
琴子のパンは、この町の人口の多くを占める、お年寄りたちに好評だ。
今流行のハード系ではなく、ふっくら柔らかくてほんのり甘い昔ながらの食感が、お年寄りや小さな子どもたちに、食べやすいと評判なのだ。
こんな小さな海辺の町で、営業を始めた唯一のパン屋が、物珍しいだけなのかもしれないけれど。
スケッチブックを閉じた櫂が、羽菜を残し堤防から降りる。そして琴子の脇を通り過ぎ、店に向かって歩いて行った。
「今朝も相変わらずクールだね。櫂くんは」
いたずらっぽく羽菜が言うと、琴子はおかしそうに笑った。
「あれでいいの、櫂くんは。『はーい』なんて返事されたら、気持ち悪いでしょ?」
確かにそうだ、と頷く羽菜に笑いかけ、琴子も背中を向ける。
それと同時に、店の脇に停めてあった中古の軽自動車に、エンジンがかかった。
車の中にパンを詰め込み、琴子と一緒に扉を閉める。運転席から羽菜を呼ぶように、クラクションが軽く鳴る。
「じゃあお願いね、羽菜ちゃん」
「はぁい」
手を振る琴子に手を振り返し、羽菜は助手席のドアを開く。
坂の上の老人ホームまでは、車で片道十分。ほんのわずかな朝のドライブは、ここで過ごす羽菜の日課となっていた。
「ご苦労様。羽菜ちゃん」
「また明日もお願いね」
「はいっ。ありがとうございます!」
パンをホームへ届け、挨拶をして車に乗り込む。
櫂が運転する車は、ゆっくりと坂を下る。
無愛想で何を考えているのかわからない櫂は、ドライブの間中、ほとんど話さない。
最初はその空気に耐えられなかった羽菜だけど、いつの間にかそれも慣れた。
そして帰り道に櫂は、羽菜のお気に入りの場所に必ず寄ってくれるのだ。
坂道の途中の、小さな駐車場に車が停まった。
羽菜は窓から顔を出し、外の空気を大きく吸い込む。
眼下に見える、鮮やかな緑に囲まれた弓形の入り江。そこから広がる青く深い海。その先につながる空は羽菜の上まで続いていて、何度見ても不思議と飽きることがない。
「やっぱり、いいとこだね、ここ」
そうつぶやいた言葉は嘘じゃないはず。それなのにまた、あの空しさがこみあげてくる。
広い景色を見るたびに、思い知らされる自分の小ささ。
「羽菜はダメじゃないよ」
不意打ちのように聞こえてきたその声に、羽菜はゆっくりと振り返る。
運転席のシートに寄りかかり、前を見たまま櫂がつぶやく。
「羽菜は全然ダメじゃない。おれは運動会のかけっこ、いつもビリだったから」
無表情でそんなことを言う櫂がなんだかおかしくて、羽菜はふっと息を吐くように笑った。
「そうかなぁ?」
「そうだよ」
「櫂くん、あたしのこと、慰めてくれてんの?」
運転席に座る、櫂の横顔につぶやく。
小さい頃から走るのが速くて、中学の頃は陸上の大会で良い成績を収め、スポーツが盛んな高校の陸上部に入った時までは、自分の人生、何もかもが上手くいくと思っていた。
それなのに、一年の夏に膝を痛めて、それから思うように走れなくなった。
どんどん自分を抜かして成長していく、周りの友達を見るのが悔しくて、「大丈夫?」「無理しないで」ってかけてくれる言葉も、全部嘘に思えてきて。
あせればあせるほど、タイムは伸びるどころか落ちていった。
「一か月間、安静にしてください」
高二の夏休み前、医師にそう告げられた時、すべてが終わったような気持ちになった。
「走れないなら、意味がない」
「いつまでこの学校に、いるつもりなの?」
周りの目に、そう責められているような気がしてならない。
部活も学校も辞めてしまおうと思っていた。とにかくあの場所から逃げ出したかった。
そんな時、偶然再会した、十歳年上の幼なじみ琴子から誘われたのだ。
「ヒマだったら、夏休み中うちに来ない? 海のそばでパン屋開いたんだ」
と、昔と変わらない笑顔で。
鼻の奥がツンとする。胸に何かが、じわじわと込み上げてくる。
「慰めてくれるなら、もうちょっと優しくしてくれてもいいのに」
自分でも説明できないこの気持ちを、隣にいる櫂に悟られたくなくて、わざとすねたように言ってみる。
どうせ、返事がないのはわかっていたから。
窓から風が吹き込んだ。ちょっと生ぬるい夏の風。
一瞬目を閉じたその瞬間、羽菜の頭に大きな手が触れ、ふんわりと優しく髪をなでられた。
「え?」
きょとんとした顔の羽菜の前で、櫂が手を戻しシートベルトをつける。
「い、いまの、なに?」
「優しくしろって、お前が言うから」
エンジンをかける櫂を見る。櫂はそんな羽菜に振り向くと、指をさして言った。
「シートベルト」
「は、はいっ」
あわててシートベルトをつける手が、どうしてだか震えている。
静かに動き出した車は駐車場を出て、坂道をゆっくりと下り始める。
「ふ、ふぇっ、ふぇぇんっ……」
こらえようと思えば思うほど、なぜか涙があふれ出し、それはやがて嗚咽に変わった。
そんな羽菜の隣で、櫂はやっぱり何も言わずにハンドルを切る。
「うわぁぁぁん」
恥ずかしいのに。自分が泣くところなんて、誰にも見せたくないのに。
だけどもしかしたら、泣きたかったのかもしれない。こんなふうに、思いきり。ずっと、前から――。
車が海辺の、柴田のおばあちゃんの家に着いた。
羽菜は琴子の作ったあんぱんを抱えて、助手席から飛び降りる。
「おばあちゃん、おはようっ! パン持ってきたよ!」
「ああ、羽菜ちゃんかい? わざわざありがとうね」
あんぱんを受け取ったおばあちゃんが、嬉しそうに微笑む。
自分が作ったパンではないけど、なんだかすごく嬉しくて、こっちまで笑顔になる。
「琴ちゃんちのあんぱんは、柔らかくて優しい味がするんだよ」
「優しい味?」
「そう。きっと作った人の心が、優しいんだろうねぇ」
優しい味かぁ。それを聞いたら、琴子はきっと喜ぶだろう。
「琴ちゃんに伝えておきます」
「腰が治ったらまた買いに行くから」
「ありがとうございます!」
玄関で座っているおばあちゃんに手を振り、車に乗り込む。
庭の垣根に咲く紫色の朝顔が、風にふわりと揺れていた。
「優しい味って言われちゃった」
シートベルトをつけながら、隣に座る櫂に言う。さっきの涙は、もうすっかり乾いている。
「でもあたしもなんとなくわかる気がする。ねぇ、櫂くんもそう思わない?」
「おれはパン、食わないから」
そうだった。パン屋に住んでいるくせに、櫂はパンがあまり好きではないらしい。
櫂は羽菜を見ないまま、頬をほんの少しゆるませ、そしてまたゆっくりと車を走らせた。