始動
闇。
光の差し込まない、暗黒の空間。
目を凝らそうとも、視界に広がるのは黒一色。
どのような構造になっているのか、広さはどれほどなのか、何も判断ができない空間。
そんな空間に、時折薄く光を放つ剣が浮かんでいる。
しかし、光を放っているお陰でそれが剣であると判断できるが、光が剣の形に集まっているだけなようにも感じる。
「そろそろ……だな」
そう言った男は、闇から引きずり出すように剣を掴んだ。
男が触れた瞬間、眠りを妨げられた事を抗議するかのように、剣が先程とは違い朱い光を放つ。
「ようやく……いや、これからだ」
男が強く柄を握る。
すると、空間を支配していた闇が吸い込まれるように剣へと集まり始めた。
闇が剣へと収集されるにしたがい、先ほどまで全く意味をなしていなかった燭台の炎が部屋を照らす。
「まずは、目的のひとつを手に入れる」
炎に照らされた男の顔は、歪な笑みを浮かべていた。
◇
世界に散らばる大陸の中で、一番小さな大陸。
その他に点在する大陸に比べると島ほどの大きさに感じてしまうが、面積としては十分に大陸に分類される資格を持っており、世界中に住まう者たちからもひとつの大陸として認識されている。
そんな大陸は、陸地の大部分を森林が占めており、中央部は森を切り取ったかのように平地が広がり、北部は山岳地帯といった形だ。四方を海に囲まれ、最も近い他の大陸までの距離も、船で一ヶ月は掛かりそうなほど離れている。
コーセス大陸。
それがこの大陸の名前であり、別名【辺境の大陸】と呼ばれる世界で最も小さな大陸。
その大陸の平地部。
人族が領土として保有している位置の、更に見渡す限り草原が広がる地点。
春の陽気を感じさせる暖かいそよ風が、草原の草花たちを揺らし、青色に染まった空は雲ひとつ見当たらず、太陽が草花を癒やすような柔らかい光を注いでいた。
「いい天気だねぇ~」
草の布団に気持ちよさそうに横たわっている少女が、顔の前に手をかざしながら太陽を見つめている。時折流れてくるそよ風が自然の香りを運び、肩ほどで切り揃えられた少女の艶々しい紅髪を撫でるのを、気持ちよさそうに桔梗色の瞳を細めて堪能していた。
「眠くなってきた……」
かざしていた手を口に当てながら大きな欠伸をすると、重たそうにしている瞼をこする。そのまま眠ってしまいたい衝動に駆られているようだが、勢い良く上半身を起こすと、眠気を振り払うように頭を振った。
「うっし!」
気合を入れるように声を出してから、浮き上がるようなフワリとした動作で起き上がる。
立ち上がったことによって視野が広がり、今まで視界から消えていた光景が少女の映った。
かなり距離が離れているにも関わらず、その巨体が目印となり、遮る物のない草原では簡単に見つけることができる。
見るからに平穏とした草原には似つかない、黒く禍々しい物体。
手には頑丈そうな鉄の棍棒を携え、大きく開いた口には鋭く尖った歯が生え揃う【化け物】が、ゆっくりとした動作で進んでいる。
しかし、異形な存在を目にしたにもかかわらず、少女はのんびりとした表情を崩さない。
それどころか、しばらく化け物が歩く様を眺めると、不満げな表情で「おっそいなぁ~」と、愚痴るように呟いた。
「あれ? 追いつきそう……」
少女は意外そうな顔をして、化け物が進む少し前方に視線を移す。
するとそこには、1台の馬車が走っていた。
荷台を引く2頭の馬を必死の形相で操る行者は、馬の走る速度が減速していることに気づいているのか、顔には焦りの色が浮かんでいる。みるみるうちに馬車の速度は低下していき、やがて荷台を引くのがやっとだと言わんばかりに、のろのろと走る状態になってしまった。
標的が速度を下げたことで、後ろから迫る化け物が先程よりも歩く速度を早める。そのことに、後ろを振り返って化け物との距離を測っていた行者は、一心不乱に手綱を振るい始めた。馬を操る技術など頭から抜け落ちたかのように、ただがむしゃらにムチを振り回し、馬を走らせようとする。
しかし、いくらムチを振るわれようとも体力は回復しない。苦痛に嘶きながらも必死に脚を動かしていた馬たちも、とうとう体力の限界が訪れたのか身体を投げ出して倒れこんだ。
「ど、どうしよ? 騎士はまだ来ないし……」
焦りの表情で言う少女は、その場でおろおろと動きまわる。
馬車が止まったことで更に速度を上げた化け物を見て、「歩くの早いよ!」と、さっきとは正反対の文句まで言い始めた。
馬が倒れたことで行者は荷台の中へ転がり込む。そして、急かすように荷台に乗っていたであろう、2人の人間を連れて出てきた。
ひとりはメイド服を着た、長い深緑の髪をした若い女性。そしてもうひとりは、ドレスを着た美しい金髪を持つ少女だ。行者の家族にしては上品な装いに、どこかの貴族のご令嬢とそのメイドと推測されるのが一般的であろう。だが仮に、行者の妻と娘だとすると周囲の男達にさぞ羨ましがられているに違いない。
そんな2人を行者が後ろから急かすようにして、化け物から逃げ出す。
しかし、メイド服を着た女性の走る速度が見るからに遅い。もつれるような足取りで、今にも転んでしまいそうな走り方だ。そんな女性を支えるように、ドレスを着た少女が隣を走っているが、年齢は10歳程度。成人女性を気遣いながら走るのは無理があるだろう。行者も必死に肩を抱いて身体を支えているが、思うように速度が上がらない。
どんどんと化け物との差が縮まっていき、捕まるのは時間の問題。
誰しもがそう判断するであろう距離に縮まった時、おろおろと様子を覗っていた紅髪の少女が決心したような表情をした。
「予定変更! ご主人様、ごめんなさい!」
そう叫ぶと、一瞬にしてその場から少女の姿が消える。
「GAAAAAAA!!」
少女の姿が消えた瞬間、突如化け物が苦痛の雄叫びを上げた。手に持った棍棒を放し、両手で覆うように右目を抑えている。
突然の激痛に困惑した様子だったが、攻撃を受けたことを理解したのか無事である左目が血走ったものへと変わり、周囲をぎょろぎょろとした目つきで覗い始める。そして、攻撃をしたであろう標的を見付けると、臨戦態勢を示すような威嚇の雄叫びを上げた。
化け物が顔を向けた先には紅髪の少女が弓を持ち、見るからに矢を放った後だと分かる姿で佇んでいる。その凛とした佇まいは、化け物の雄叫びに怯んだ様子はなく、射抜くように化け物を睨みつけていた。
突然の出来事に、化け物から追われていた3人は呆けた表情で紅髪の少女を見つめる。凛々しく整った顔立ちをした少女の魅力に思わず目を奪われてしまったようだが、すぐに我に返ったであろう金髪の少女が声を上げる。
「危険です! 逃げてッ!」
今の攻撃で、間違いなく化け物の標的は紅髪の少女に移った。助けに来てくれた事に嬉しさを感じるが、どう考えても華奢な身体をした彼女が化け物を相手に戦えるとは思えない。一刻でも早くこの場から去って、この一大事を誰かに伝えて欲しい。
そういった思いを持って放たれた言葉だったのだろうが、紅髪の少女はゆっくりとその声の主に顔を向けると、化け物を睨んでいた真剣な表情とは打って変わって、可愛らしい笑顔をする。
「大丈夫! 見てなって」
そう安心させるように言うと、背中の矢筒から矢を1本取り出して、化け物へと射る。
空気を切り裂き、風圧すら感じる速度で飛来した矢が、化け物の振り上げられた腕を貫通した。
「GAAAAAA!!??」
どす黒い血を吹き出して、化け物の片腕が飛ぶ。
そして、間髪入れず続けざまに放たれた矢が化け物の心臓部分を貫通すると、一度大きく痙攣して、全身の力が抜けたかのように、その場に大きな音を立てて倒れた。
その樣子を呆然と眺めていた金髪の少女は、倒れた化け物から視線を外すと、驚愕した表情であっさりと危険な存在を排除してしまった救世主を見つめる。
戦闘の緊張から開放されたのか小さく息を吐いてから、弓を肩に掛けた紅髪の少女は、ゆっくりとした足取りで3人に向かって歩み寄っていく。
「ねっ! 大丈夫だったでしょ?」
紅髪の少女は3人に近づくと、首を傾げながら金髪の少女に人好きするような笑顔で問いかける。
その問いかけに答えるようにコクコクと頷いて返す金髪の少女は、未だ頭が混乱しているのかうまく言葉を発せないようだ。しかし、その事に気分を害した樣子のない紅髪の少女は、満足そうに頷くと他の2人にも顔を向ける。
「怪我はありませんか?」
「え、えぇ……あっ! 失礼しました!
あ、危ないところを助けていただき、ありがとうございました!」
そう声を掛けられた事で、行者とメイド服の女性は我に返ったのか慌てた樣子で頭を下げた。
そして、3人を代表するように、行者の男が礼を述べる。
続いてメイド服の女性が礼を言うと、やっと周りの対応を観て我に返った金髪の少女が2人に倣うように頭を下げた。
「いえいえ、無事ならよかったです。
わたしは、リータ=オルディア。冒険者? みたいな事をしてます」
手を振りながら照れくさそうに名乗ったリータは、「よろしくね」と言って、頭を上げた金髪の少女に手を差し出す。
「は、はい! わたしはマノリ=コール=サルディニアと申します! よろしくお願いします!」
リータの手を条件反射的に握り返したマノリは、慌てて自己紹介を返した。
しかし今度は、リータが驚愕の表情で固まる。
口を無防備にポカンと開いた表情で動かないリータに、マノリは不思議そうな表情で首をかしげた。
「サ、サルディニアって……公爵家……の?」
恐る恐ると言った表情で、リータが確認する。
「は、はい……そのサルディニアです」
突然のリータの変わりように、マノリは何か気分を害する事をしてしまったのかと、不安げな表情で頷いた。
しかし、そんなマノリの心配を余所に、リータは慌てて片膝をついて頭を下げる。
「し、失礼しました! 公爵家のご令嬢とは露知らず、数々の無礼な態度、大変申し訳ありませんッ!」
そう謝罪すると、リータは自分がしでかしてしまった事の重大さに気づいたように、顔を強張らせ冷や汗を流し始めた。
「そ、そんな事止めて下さい!」
急に態度を変えてしまったことに、マノリは寂しそうな表情でリータの動作を制する。
そして、頭を下げるリータの腕を掴むと、立ち上がらせようとしているのか必死に引っ張り始めた。
「で、でも……」と遠慮するリータに、「いいんですッ!」と言って腕を引っ張るマノリ。
そんなふたりの可愛らしい押し問答に、後ろに居る行者の男とメイド服の女性は、微笑ましそうに顔を綻ばせている。
やがて、マノリの態度に根負けしたのかリータが折れる形で立ち上がった。
しかし、先程まで接してきていた柔らかい雰囲気とは違い、恐縮している樣子で緊張感を出しているリータの姿に、マノリは哀しそうな表情で視線を向ける。
なんとなく重苦しい雰囲気が流れそうになったことで、途切れてしまった自己紹介の続きを始めるように、メイド服の女性がリータに近づいた。
「申し遅れました、エリス=ルディングと申します。この度は、危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」
そう言うと、リータに向かって笑顔で頭を下げた。
「ガウド=プルートです。重ね重ね、ありがとうございました」
エリスの自己紹介が終わるのを見計らって、前に進み出たガウドが最後に名乗る。
自己紹介を受けたことで、リータは縮こまった樣子ながらもしっかりと会釈を返す。そんなリータの樣子に、ガウドは微笑みながら更に言葉を続けた。
「しかし、凄まじい腕前ですな! あれ程の凶悪な魔物を、たった3本の矢で仕留めてしまうとは。
貴女が現れた瞬間、戦の女神が舞い降りてくださったのかと錯覚してしまいました!」
豪快に笑いながらガウドが言うと、エリスも頷いて続く。
「全くですね。絶望の淵から救い出されるとは、正にこの事でしょう。見たことのない魔物なのですが、リータさんはご存じなのですか?
あっ! 口調は先程と同じで結構ですよ、わたしはマノリ様とは違って一般市民ですから。ふふふっ」
そう言って意地悪そうな表情を浮かべたエリスは、チラリと隣を覗う。そこには案の定、不機嫌そうな表情で頬を膨らませているマノリの姿があった。
そのやり取りとエリスの気遣いを受けて、リータも緊張がほぐれたのか笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……あの魔物はハイ・オーガって言うんだけど、知ってるかな?」
リータが伝えた魔物の名前に覚えがなかったのか、マノリは首を振って答える。そして、誰か知っている人が居るか確認するように視線を上げると、驚きの表情で固まるガウドとエリスの姿があった。
「ハ、ハイ・オーガ……! まさかっ! 何故こんな場所に!?」
取り乱した樣子で問うガウドに、リータは首を振って返す。
「それは、わたしにも分からない。でも、こんな場所に居ていい魔物じゃないことは確かだよ。
ゴルディシア山かその周辺の森を住処にしてるはずなんだけど、こんな王都に近い場所まで出てくることなんて聞いたことがないし……。
どの辺りから追われてたの?」
そう冷静に話すリータに、取り乱したガウドも落ち着きを取り戻したのか、小さく深呼吸をしてから答える。
「そ、そうですか……この中で最初にあの魔物の姿を見たのはわたしです。
草原を移動していると突然馬が暴れだし、不審に思い周囲を確認してみると少し離れた場所にあの魔物が……。この広大な草原で、あんな巨大な魔物に、あそこまで接近されるまで気づかないはずがないのですが……現に数分ほどで追いつかれてしまう距離まで近づかれていました」
「う~ん……確かに人間に例えると移動が早いかもしれないけど、ハイ・オーガは走れないから短時間で距離を縮めるなんて無理だと思うなぁ~……馬が疲れてなければ、十分に逃げ切れたはずでしょ?」
「ええ、その通りです。魔物を確認してから馬を走らせましたが、距離を離していましたし、サルディニア公爵のお屋敷までには大きく距離を離せる予定でしたが……強行日程のせいで馬の疲労が予想以上に溜まっていたようです」
そう苦い表情で語るガウドは、少し離れた場所で倒れている馬たちを眺める。まだ息が荒いようだが、このまましばらく休ませていれば屋敷までは辿り着けるだろう。
馬たちの悲痛な姿に、「屋敷に着いたらゆっくりと休ませてあげてください」と気遣うマノリに、ガウドは深々と頭を下げて礼をした。
「おっ! 騎士様のお出ましだね。ちょっと遅いけど怒らないであげてね、あんなに必死になって駆けつけてくれてるんだから」
そう言ってリータが指をさす方向には、愛馬に跨がった6人の騎士が砂煙を上げながら4人の居る場所へと向かってきている。
その光景に、リータ以外の3人が嬉しさを滲ませた安堵の表情をしていた。
「それじゃ、わたしはお役御免ってことで」
騎士たちが到着するのを眺めて待っている3人から、サッと距離を取ったリータは、懐から取り出した木製の笛を吹く。
甲高い笛の音が草原に鳴り響くと、騎士たちが向かってくる逆の方角から1頭の馬が姿を現した。その馬に向かって駆け出したリータは、呆けた表情をしている3人からどんどんと離れていく。
「リ、リータさんッ!?」
「じゃぁ~ねぇ~」
いち早くリータの行動の意味に気づいたマノリが名を呼ぶが、気の抜けるような別れの言葉を言いながら背を向けて手を振ると、駆けつけてきた馬に可憐に飛び乗って颯爽とその場から去っていった。
その姿を悲痛な表情で見送ったマノリは、騎士が側まで馳せ参じた後も変わらず、寂しそうな雰囲気を崩すことはなかった。
◇
「はぁ~……失敗したなぁ~」
マノリたちと距離が離れたところで馬を歩かせたリータは、額に手を当てて天を仰ぎ見た。
「自分でわざわざ持ってきた魔物を、自分で倒すって……あぁ~~もぉッ!!」
ガシガシと頭を掻いてイラつく主人に、馬がビクッと身体を跳ねさせる。その反応に、首を撫でながら「ごめん、ごめん」と宥めると、ひとつ嘶いて大人しくなった。
「でも、見た感じは弱そうだったなー、騎士様。あれじゃあ、間に合ってたところでハイ・オーガを倒せたかどうか……それに、公爵家の娘に護衛の1人も付けないなんて、平和ボケし過ぎだよ、まったく!」
可愛らしく頬を膨らませ、口を尖らせて愚痴るリータは、「そう思うでしょ?」と静かに自身を乗せて脚を進めてくれている相手に同意を求める。そんな主人のご機嫌を取るよう肯定する馬は、問いかけられている内容を理解しているかのように絶妙なタイミングで小さく嘶いている。
ひとしきり文句を言った後、リータは自分の左手の薬指に嵌めた指輪を眺めた。
「それにしても、ご主人様から貰ったこの能力を制限する指輪、本当に凄い。ハイ・オーガ相手に実力の3割も使うなんて思ってもなかった……」
小さなルビーが嵌められている指輪をしげしげと見つめていたリータは、かざすように左手を太陽へと向ける。
「結婚指輪だったら最高だったのに……ざんねん」
そう言ってガックリと肩を落としたリータは、ふわりと馬から降りる。
「ありがと。もう、ここでいいよ。どこにでも好きなところにお行き」
そう言ってぽんぽんと馬を叩くが、別れるのが寂しいのか顔を寄せてリータに甘えて離れない。
「困ったなぁ~。残念だけど、君を連れては帰れないからここでお別れ。また縁があったら会おうね、バイバイ」
すり寄せてくる顔を優しく撫でてからそっと離すと、リータの姿が忽然と消える。
その場に残された馬は、寂しげにひとつ嘶いた。
◇
少量の光に照らされた一室に、男が座っている。
漆黒色に染まる黒髪が顔を覆う程度の長さで無造作に切られ、切れ長い瞳は髪と同様に底見えぬ黒色に染まっていた。整った顔つきには冷酷な印象を受けさせるが、どこか目を惹く印象を持つ。
適度に筋肉のついた細身の身体を豪華な椅子に預け、右肘だけを肘掛けにたて、握られた手を右頬に当て頭を支えている。
男の前には机があり、そこには男の頭と同じ大きさの水晶が置かれ、草原でハイ・オーガを調査する数人の騎士たちが映しだされていた。
「お仕置き」
男の後ろから覗きこむように水晶を見つめている、蒼い髪をした幼さを残す小さな少女が、主人に提案するように囁く。本来は大きくはっきりとしたいるであろう黄褐色の瞳を細め、口を強く結んで不機嫌そうな表情を作っていた。
「いや、想定外の事態が起こったが、概ね目的は達している。ああいった事態にあれば、私もリータと同じ行動をとっただろうからな……そこまで気にすることもない」
「……そうですか」
男は軽く首を振りながら答えると、蒼い髪の少女はそれ以上何も言わずにしぶしぶと言った表情で引き下がる。
不満げな少女に男が苦笑いを浮かべていると、部屋の隅の空間が突然歪む。
「ただいま戻りました、ご主人様!」
声と同時に姿を見せたのは、満面の笑みで両手を広げているリータだった。
勢いそのままに男に飛びつこうとするが、いつの間にかリータの側に移動していた蒼い髪の少女が腕を掴んで動きを止める。
「ちょっと、ジェシカ!」
「させない」
腕を引かれてたたらを踏んだリータは、憎たらしげにジェシカと呼んだ蒼い髪の少女を見た。
それに動じることなく無表情のまま腕を掴んで動きを封じ続けているジェシカから逃れようと、リータは腕を振って抵抗をするが、まるで吸い付いてるかのように離れない。
「ご苦労だったな」
2人のやり取りを微笑ましげに見つめる男は、上下左右に腕を振り回してジェシカの手を外そうとしているリータに労いの言葉を投げかける。
その言葉にリータは、パッと表情を明るくした。
「ご苦労」
「なんでジェシカが偉そうに言うのよ!」
男の真似をするようにジェシカが言葉を掛けると、リータの表情は再び憎らしげなものへと変わる。
「気分」
「気分で言うな!」
「失敗したリータに、言われる筋合いない」
「ぐっ……」
言葉の刃がグサリと刺さり、リータはくぐもった呻き声を上げ落ち込む。自分でも責任を感じているのか、しょげた表情で俯いてしまった。
「ジェシカ、あまりからかってやるな。
それでリータ、どうだった?」
自責の念を強くする樣子のリータを見かねたのか、男がジェシカを窘める。それにジェシカが小さく頭を下げると、リータから手を離した。
「は、はい! 間違いないと思います」
自由になったことで男の側まで近づくと、リータは真剣な表情で頷きながら力強く答える。
「そうか、わかった。
――では、予定通りに」
リータの答えに満足げに頷いた男は、そう声をかけた。
「エルフ族の調査に向かいます!」
「獣人族の調査に」
サッと姿勢を正したリータとジェシカは、それぞれの任務内容を復唱する。
「任せたぞ」
「「はい!」」
◇
広大に広がる草原の中に、ポツリと佇む立派な屋敷。
屋敷と言うよりも、要塞に近いその造りは、周りを正方形の分厚い防壁で囲っており、角の位置にはそれぞれ監視塔がそびえ立っている。
そして、4つの塔には兵士が屋敷を中心に全方角へ監視の目を向けて警戒しており、その屋敷の重要性を窺わせる。
「どう思う?」
そう問いかける、豪勢な衣服を身に纏った貫禄を感じさせる壮年の男、国王より公爵の爵位を授かったヴォルガ=コール=サルディニア、この屋敷の主である。
「ありえません」
向かい合うように座る、年若く逞しい身体つきをした男は、主人の問いかけにすぐさま答えた。
彼の名は、ソリウス=レグナード。この屋敷の最大戦力であり、サルディニア公爵家騎士隊長を務める、若くして有能な才能を持った実力者だ。
そんな2人が、ピリピリとした雰囲気を纏って向かい合っている。
マノリとエリスの無事を確認したヴォルガとソリウスは、それこそ穏やかな雰囲気で安堵の表情を隠さずにいた。2人の無事を喜び、笑顔を浮かべていた事が幻であったかのように、騎士からの報告受けたヴォルガとソリウスは、一変して難しい表情で向かい合った。
同席するマノリとエリスは、2人の変わり様に一気に気を引き締められ、緊張した面持ちで距離をとって静かに座っている。
「そうだ、“ありえない”」
ヴォルガはソリウスの意見に賛同するように、今回の事態を“ありえない”と判断する。
「で、ですがリータさんは――」
2人の会話を黙って聞いていたマノリは、自身がこの目で見た出来事を否定された気持ちになったのか、そう声を掛ける。
マノリの言葉を聞くと、意を汲んだかのように表情を和らげたソリウスは、ゆっくりと頷いた。
「失礼致しました。マノリ様が嘘をおっしゃっているという意味では、決してありません。その証拠に、倒れていた死体は間違いなくハイ・オーガであったと報告を受けています。――ですが」
そこで言葉を切ったソリウスを、マノリは食い入るように見つめている。
「……ですが、我々騎士――いいえ。
ハイ・オーガという、中級に分類される魔物について知識を持っている者であれば、それがいかにありえない事態であるか理解できます」
そう続けたソリウスの説明に頷いたヴォルガが、マノリに顔を向けて話を引き継ぐ。
「うむ……それに、リータ=オルディアという名など聞いたことがない。
ハイ・オーガをたった3本の矢で仕留めてしまう程の実力者だ。まず間違いなく、Aランク冒険者に分類されるだろう。Aランク冒険者の中でも、更に頭ひとつ抜け、それこそ、王国でその名を知らぬ者は居ないと謳われる程のな」
そうだろう、とヴォルガが目で肯定を求めると、ソリウスは大きく頷いた。
「情けない話ですが……もし、向かった騎士たちが先にその場に駆けつけていたとしたら、
――全滅していました」
「ぇっ……?」
“全滅”
たった1体の魔物に、公爵家の保有する騎士が敵わない。
その事実は、マノリとエリスに大きな衝撃を与えた。
特に強く衝撃を受けているのはマノリだ。サルディニア家で雇い入れている騎士は、王国の騎士団に配属されれば中堅以上の実力者揃いであると、父であるヴォルガに教えられていた。だからこそ、その騎士たちが敵わない魔物が居ることが、信じられないのだろう。
ハイ・オーガとは、ゴルディシア山という王国が定める危険区域に生息する魔物である為、名前とその魔物の危険性は姿を見たことがなくとも知識だけを持っているのは珍しいことではない。だが、それでも国民の4分の1以下の人数だ。
そもそも、一般市民であれば滅多に眼にすことのない魔物である為、知識としてもそれ程役には立たない。人生でハイ・オーガを一度も目撃することなく、天寿をまっとうする国民が殆どであるという統計から考えれば、雑学程度に捉えてもよいだろう。騎士や傭兵、冒険者という仕事に就いていなければ、中級魔物以上の知識など殆ど持ち合わせていない。
その為、マノリがまだ子供だから知識がないという訳ではなく、大人や老人であろうとハイ・オーガについて知らない者も多い。
「それほど凶悪な魔物です。その場にわたしが居たとしても、倒すことが出来たかどうか……」
そう言ってソリウスは、包帯の巻かれている右脚に視線を落とす。
先日、サルディニア家の領土に現れたビットウルフの討伐に赴いた際に、死に間際の一撃によって大怪我を負ってしまった。油断していた部下を庇ったために、満足な対応が出来ず右脚に噛み付かれてしまい、完治までに3ヶ月以上掛かると医師から言われている。
「リータ=オルディアが現れなければ、お前たちだけでなく、駆けつけた騎士たちも殺され、この屋敷に居る全ての者が殺され、この周辺一帯で大虐殺が起こっていた」
ソリウスの怪我を痛々しそうな表情で視線を向けたヴォルガが、起こりえた最悪の状況を告げた。
最大戦力であるソリウスが怪我を負っているのに、中級魔物の対処など出来よう筈もない。その圧倒的な力に、ただ虐殺を許すだけだっただろう。
「そ、そんな……」
そんなヴォルガの言葉に、自身がどれほど危険な状況にあったのかを理解したのか、マノリは顔を真っ青にして震えている。
「――ガウドではないが、本当に戦の女神が舞い降りたのかもしれんな」
興奮した樣子でリータを賞賛するガウドの言葉を思い出し、呟くようにヴォルガが言う。
マノリよりも少し年上の少女が、たった3本の矢を使うだけでハイ・オーガを絶命させてしまった。そんな出来事など、実際に我が娘の言葉でなければ信じられなかったのだろう。だからこそ、そんな夢物語を肯定してしまったのかもしれない。
◇
「マノリ=コール=サルディニア」
リータとジェシカを見送った男は、水晶に映るマノリの姿を眺めながら呟く。
「くっ……はっはっはっ! 世界を破滅させる力を持つと虐げられた者が、真に世界を破滅させる力を持って現れたとしたら、さぞかし喜んでくれる事だろう」
抑えきれないといった樣子で高笑いをする男は、歪んだ笑みを浮かべながら空気が揺れる程の威圧感を放っていた。
「それまで、せいぜい生きる喜びを噛み締めろ。
この――ガドウィン=レナン=スマルトが、貴様らに地獄を運ぶまではな」
そう言うと水晶が透明になり、ガドウィンが闇に溶けるように消えた。




